青少年自立支援の経験と(くるみ)の構想
石井子どもと文化研究所くるみ相談員 石井 守
1 親や教師と安心を見つけ出す仕事
これまでの講座で3人の閉じこもり体験者のから、その時々の様子や感じ方が報告されました。聴講された多くの方から質問や感想が述べられました。私も報告や討論を聞かせていただきながら、これまで相談してきた青少年や親・家族の方々との会話やその時々の表情を思い出して、あの時こういえばよかったなど悔悟で胸にいたいものを感じました。たくさんのそんな思い出を通して、相談員相談員、カウンセラーとはどんな役割を持っているのか、どんな仕事かを述べてみたいと思います。
第一に相談に来られる親や教師は誰もが、子どもを正しく指導しようと考えているのです。これは絶対で、親や教師とその子どもとの関係が相談員の目にどう映ろうと、そう見るべきです。子どもの心が、表面に表れるその態度や発言では計り知れないように、親や教師も多様な文化と経験の中で生きてきたのですから、相談員の表し方と違うのは当然です。
第二には、親も教師も不安でいっぱいです。特に親の不安は強く、育て方が悪かったとかあの時こうしたらなど思いをめぐらせていると断言できます。さらには自分と、自分の夫か妻の性格や性癖まで気にし悩んでいるのだと思います。どうすべきか思いあまって相談に来られていると考えなくてはなりません。この2つの観点は絶対的で、相談を受けた以上、揺らいではならない原則だと私は考えます。
「自分で行動して成長する子どもたち」続(石井子どもと文化研究所 1999年5月発行)に載っていますが、私が書いたのですが、すこし読ませてください。32ページです。『学校批判』は期待の表れ、と言うタイトルで、「学校への批判が強すぎる―ある研究者が教育研究集会で発言された。しかしこの厳しい批判的発言は、登校拒否・不登校の深刻さからくるものです。相談員には、真夜中にでも『いま刃物をもって、殺してくれって叫んでます』と電話がきたり、『この5年間息子の顔を見ていない』など、子どもたちの苦しみは、筆舌に尽くせないほど深刻で長期にわたる場合が多くあります。それを見て悩まない親や兄弟はいないでしょう」、今もこの状況は変わっていませんし、この例よりさらに深刻な場合もその後見てきました。小学生低年齢の子どもに多いのですが、『学校がいやだから』と言うだけで、明るく家で遊んだり、近くのスーパーに買物に出かける子どもさへいます。しかし考えてみるとこの場合でも、本来なら外で友達と自由に遊びたい年頃の子が、学校に行けないと言うのですから、その精神的な苦痛は絶対なものだと思います。親はそれを知っている、感じているから何が子どもを追い詰めたのかを必死になって追い求める、その発言が学校や教師に厳しくあたるようになっているのではないでしょうか。
次いで「苦しんでいる子どもに共感することを、絶対の条件として対応することを学びあってきたものが、悩む家族・親の発言をどう受け止めるべきでしょうか」と書きましたが、これには少し説明を加えます。
自分でもどうするも出来ない子ども
不登校・登校拒否の子どもたちにどう対応するかは1980年の後半ぐらいまではずいぶん意見の対立、違いがあったように思います。条件を無視して簡単に言いますと「力づくでも説得でもいいなんとしても学校に連れ出す」考えと「緊張している子どもの気持ちが解きほぐれるまで、納得の範囲で行動させる」考えです。この両端の考えの間に「朝は必ず起床させる」「食事は家族そろって摂る」「学習の習慣だけは続ける」などそれぞれの言い方がありましたし、私もなんども論議をしあったように思います。相談員や親の会などの交流会や実践報告が繰り返されるうちにいつのまにか全体の合意が出来てきたように思います。子どもは自分の意志で行動できない状態にまで緊張しているのです。感情の異常に強い高ぶりで、感情を意思でコントロールすることが出来なくなっているのです。行動と意識が分離してしまうほど激しくゆれているのです。
1996年のくるみ(石井子どもと文化研究所くるみ、隔月発行)では不登校・登校拒否に対する対応の「共通理解」が広まってきているとありますから、この頃から、対応での相談員や教師との意見の違いが少なくなくなったと感じたのかもしれません。
前出の文章には、「ここには親の学校への期待が込められている」と続けています。ここで私が言いたかったことは、教師も実はカウンセラーだと言うことです。教師はそれぞれの年齢の子どもたちに学問を教える専門家と言われますが、それは学問をどう学ぶかとかどう利用するかなども含めて、子どもがそれぞれ自分の能力を見つけ出し将来への希望を求める過程を支援する人、その専門家ではないでしょうか。子どもの希望を見つけ出す援助者ともいえますから、子どもの最も身近かな支援者である親とも共通した仕事もするのです。親が子どもの希望に不安を持ったとき、頼るのは教師であり、学校であるのは当然です。私の経験でも「子どもが不登校・登校拒否になって最初に相談するのは担任だった」とほとんどの方が述べられています。その教師が親と同じように悩んでいるのです。だから長く引用したように、「教師への批判が強すぎる」と、余裕のない発言になるのでしょう。とすれば一層のこと相談員の仕事は、「安心」を見つける仕事と言うことになるでしょう。
カウンセラー・相談員とは、教える人ではありません。相談する人、助言する人です。人の生き方や性格の違い・個性はその人のものであって、マニュアルはありません。一人一人違うと言うことを念頭に、親や教師と子どもの希望を育てる、安心を探ることこれが相談員の仕事です。
2 成長を見守る体制
安心を見出してくださいと言っても、それは自信の持てるものではありません。親や教師と、子どもの成育や緊張に陥った原因などを探りながら、どうすれば子どもの持つ緊張を除くことができるかを探すのです。そのためには、これまでの講座でも報告されたような、経験者等の苦悩している青少年の心理・感情、どのような過程で引きこもりから抜け出したか取組みの理論化、家庭や学校での対応などを学び、豊かな事例を持つ必要がありますが、これには絶対と言うものがありません。生き方や性格にマニュアルがないのですから、何処まで知ったら良いとか、これで完全と言うことはないのです。
子どもと共に親も教師も揺れている
「安心」を見つけると言っても、先がはっきりしているものではありません。急速にそれも思い描いていた方向に変化が現れることはまれで、多くは変化が見られず、親が見て思い悩むような行動を繰り返すのですから、時間の経過と共に疑念が生じ、「安心」が揺らいでくるのは当然です。断定できることではありませんから、次々疑問が生じそれが膨れ上がって行くのは容易に想像できます。見通しがはっきりしないまま、疑いながら「待つ」のは、強い緊張を伴います。私なら、一人孤立してこの緊張に耐えることは出来ないだろうと思います。事実一人で奮闘されている方に多いのは、子どもと絶縁の関係で暮らすか、さまざまな医療や相談機関、セミナーを捜し歩き、なかには、子どもを連れ歩き。親も子どもも苦しみを増加させているとしか見られない場合もあります。子どもの成長を「安心」して見守ることができる条件を作ることも、青少年の自立支援に取り組む者にとって、ひとつの重要な課題です。
この緊張を和らげる最もよい方法は、同じ経験や悩みを持つ親のグループに入ることです。このグループが交流会として定期的に恒常的に活動されることです。この交流会に相談員や経験者が入ることも良いでしょうがこれには条件があって、経験者の体験・感じ方を絶対視しないことと、相談員が全てを察知しているかのように、断定したり教えるような態度をとらないことです。ただこのグループは常に流動すると考えておかなければなりません。出入りが自由で楽しく、緊急の事態にはすぐ相談が出来るなど、「安心」を支えてくれると言うのが条件です。
そのためにも、グループには活動の拠点になるような固定した場所や事務局的な相談員や担当者が必要ですから、矛盾するようですが、体験者や相談員の存在が大きいのです。相談活動と親の交流会の両面をどのようなかたちで作るかが、これからの相談活動で考慮しなければならないことのようです。
他の相談活動機関との関係
学校カウンセラーが増え、公的な青少年の居場所も増えてきました。公的な場所なら人件費や施設費など財源を持ったうえでの活動ですから羨ましくなります。運営のための資金もありますから、さまざまな取組みも容易に計画できるでしょう。しかしひとつだけ言わせてもらうなら、「学校を否定できない」場合が多いことです。立場上はっきり出来ないからと思われる発言や指導法が見られます。同じことは病院でのカウンセラーや相談室にも見られます。それぞれが重要な役割を果たしていると思いますが、それぞれの特徴と共に限界があることをはっきり認識しあうことです。その中で互いの立場や追求する方向を優劣ではなくそれぞれの役割と認めあって協力し合う、または助けてもらうことが重要だと思います。
3 粘り強く社会への関心や働きかけを「待つ」
閉じこもったり引きこもったりしている青少年が、社会の中で自由に行動できるようになるには、本当に長い年月を要する場合が多いのです。不登校・登校拒否の児童と引きこもり青年との印象は別ですが経過は同じです。引きこもり青年と言う場合、閉じこもりが終わってそろそろ社会への関心を持ち始め働きかけようとしている青年を指しているようです。しかし不登校・登校拒否と同じく、緊張が高ぶってダウンしてしまう寸前や、ダウンした直後でまだ社会に関心も働きも出来ない状態の、社会を病的な精神状態で拒絶している青年もいますから、この状態の青年は、不登校・登校拒否の子どもたちと同じようにみなくてはならないでしょう。
このような状態からぬけ出すには、青年自らに社会に対する関心が育たなくてはなりません。それぞれ興味や関心は異なりますが、何らかのかたちで社会へ動き出そうとする気力が湧き出すようにするにはどうするか、これが不登校・登校拒否を含めた引きこもり青年自立支援のもっとも大きな課題ではないでしょうか。
学習は広くて深い遊び
学齢期やそれに近い青年や学校や学問に関心の強い青年なら、進学と言う窓口があります。前出のくるみ9号で私は不登校・登校拒否などでひきこもったりしている子どもたちが学習について「どの子も一定の期間が過ぎれば、動き始め日に日に活発になり、必ずもとの元気を取り戻すと言うのがここでの結論です。問題はこの事を信じて親や教師がゆっくり待てるかどうかです。同じことはLDの子にもあてはまります。だんだん学習の基礎が出来てきて、分かる喜びが生れてくると、集中力も持続力も目を見張るほど付いてくるのです。」「ここの子どもにとって、『勉強』は遊びであり、『遊戯療法』の一部です。閉じこもり引きこもりの青少年たちは一般に勉強を軽視しているように見えます。『学校』で苦しくなった子に、学習が本来楽しく夢を育てるものであることを、身をもって理解してもらう事は、特別な意義があると考えられます。(中略)誰もが共有できそれでいて個性に合った形で取り組みが出来、広く深く続くという点で、これほど有効な遊びはないと思います。学習はまさに納得を繰り返し自分を見つけ、自身を育てるために貴重な体験になっているのです。」と書きました。学習の場が運動や工作、農場など多様で生活との結びつきまで可能なら、学齢期を過ぎた青年も、もっと多くの子どもたちがこのようになるだろうと確信しています。現に、私たちの作った作業所では、指導員助手・ボランティアの形で教科とは違っていても学習を通じて成長している青年たちを見る事が出来ます。
|