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4. 青年期中期の私・・・学校復帰・高校進学
□0点でもいい
年が明けて2月2日、担任の先生が家庭訪問に来ました。「このままでは進級できない」と半ば脅され、強く行動を促します。実際には休んだままでも進級できたはずなのですが、真に受けた私は、進級できずに年下の人たちと机を並べるより、テストで0点でも学校に復帰して進級した方がマシと考えて、行動を起こすという約束をしてしまいました。翌日、私は13歳の誕生日を迎え、前年の秋に紹介されて通所が途絶えていた区役所分室の児童相談員の先生のところへ行くことになりました。新しいカメラで撮った電車の写真を持って行くと、熱心に見入ってくれました。今度は緊張することもなく、暖かく迎えてもらっていることを実感できました。そして、2月8日、児童相談員の先生と父と私の3人で校長室を訪問して今後のことを話し合うことになります。校長先生、教頭先生、学年主任、そして担任の先生に迎えられました。話し合いというよりは雑談に近いもので、途中から担任と父が別室で面談を始め、その間、私は校長室で先生方が盛り上がっている様子を眺めておりました。それまでは堅いイメージだった学年主任の先生も、実は気さくな人なのだということがわかり、ホッとしたのを覚えています。この日の話し合いで、教室復帰の目標は2月21日の学年末テスト初日ということになりました。その後、児童相談員の先生のところへほぼ毎日通所し、テスト勉強を少しだけさせてもらいました。
学校復帰当日、朝早く行ったので、まだ教室には数人しか来ていませんでしたが、暖かく迎えてくれました。皆が登校してくる頃には、テスト初日ということもあり、私の存在に注意を向ける余裕がない様子で、自分としては気が楽でした。テストの結果は、国語49点、社会42点、数学23点、理科42点、英語8点。出来が悪いととは確かだったけれども、毎日学校に通っていた人の中にも自分と同じくらいの点数の人がいることを知り、100点でなければ学校に行ってはいけないと考えていたかつての自分が本当にバカらしく思えました。実際に「劣等生」になってみて、案外大した問題ではないということを実感できたのでした。高校進学には不安が残っていましたが、当時、全国的にも脚光を浴びるようになった北星学園余市高校なら受け入れてくれるのではないかとひそかに期待していました。
3月になって、多少無理をしたせいか、風邪をひいてしまいました。学校にいる時に熱が出てしまったのですが、その日は養護教諭の先生がお休みで、私は職員室の空いている席に座らされ、熱を測っていました。その時、たまたま向かいの席でカメラの手入れをしている先生がいました。古いカメラですが、ニコンの一眼レフでした。「いいカメラですね」と声をかけると、「写真に興味があるの?写真部があったら入る?」と言われ、「あったら入りたいです」と答えました。当時、写真部は休部状態でしたので、それだけで話は終わりました。
□先生方に恵まれて
私にとって、学校に復帰できただけでも夢のようでした。勉強はできなくてもいいと思っていましたから、学校に関しての苦痛はほとんどなくなったわけです。中学2年進級時にクラス替えがあり、担任の先生も変わりました。転勤してきたばかりの40歳代半ばの男の先生です。始業式の日、自分の机と椅子を持って移動し、新しい教室に1番乗りで入ると、その先生は暖かくあいさつしてくださいました。しかし、5月半ば、担任の先生が高血圧で入院されます。その時に、担任と副担任が入れ替わり、ホームルームに来るようになったのが、3月に職員室でカメラの手入れをしていた理科の先生でした。自然にお話する時間が増え、写真部復活を本気で考え始めます。同時に、その先生の教科である理科だけは頑張ろうと思って、書店を回って参考書や用語集・問題集を買いあさり、学校にも持って行っては休み時間に目を通していました。その結果、1学期中間テストで理科は90点の快挙でした。やればできるという自信が湧いてきました。
本格的に学校復帰して最初の学期で、生まれて初めて「5」の評価を理科・音楽・技術の3教科でいただくことができました。諦めかけていた公立高校進学にも希望が出てきました。2学期になってからは、高血圧だった社会の先生も復帰され、1学期に理科を頑張った要領で2学期は社会に力を入れます。このようにして、最も苦手だった英語を除いて、不登校前の成績を上回るまでに学業面が回復しました。高校進学はもちろん、もしかしたら大学進学もできるのではないか、そして、不登校経験を活かして教師になることができたら・・・という夢を描き始めたのもこの頃です。
3年生になると同時に、私が部長となって部員を14名集め、写真部を復活させました。顧問はもちろんあの理科の先生です。放課後は毎日のように暗室に入って、写真の現像を楽しみました。
□高校3年間「皆勤賞」・・・生まれて初めての無欠席・無遅刻・無早退
中2・中3での成績回復のおかげで、公立高校進学が決定しました。中1の成績も合否判定に含まれるので、中3時の成績に相当するランクの高校よりは数段下げての受験でしたので、入学後は上位を狙えるという読みもありました。世間から見れば「中堅下位校」なのだそうですが、時は高校進学すら諦めかけていた私にとっては、夢のようにすばらしい高校に見えました。偶然ですが、中学で入ろうという思いもあったのですが、担任の先生が書道担当で、部員が少ないので入って欲しいと誘われ、書道部に入部します。
自転車で15分くらいの距離でしたが、坂の上の高校で、体力的なことを考え、乗り換えを含めて30分かけてバス通学をしました。全校生徒数1500名を超える大規模校のため、8時台に入ると大変に込み合います。そこで、家を7時に出発し、7時半に教室に着くというパターンが定着しました。バスはガラガラで、教室は一番乗りです。朝のホームルームが始まるまでの1時間余りをひたすら数学の問題練習や英語の予習に費やしました。おかげで、高校1年時に生まれて始めて1年間の無欠席・無遅刻・無早退を実現し、高校2年になる頃には苦手だった英語と数学が得意科目に変わっていました。やっと大学進学への手応えを感じ始めます。
結果として、高校は3年間皆勤し、高2からは成績も校内で、トップでした。トップと言っても中堅下位校」ですから、模擬試験を受けると「進学校」の中間くらいになります。それでも、高校入学時は「進学校」のビリよりも下だったのですから、「中堅下位校」の中で実力を引き上げてもらったわけです。先生方からも期待されましたし、級友とも切瑳琢磨し、テスト前には私が音頭をとって勉強会を開いたこともありました。
5. 青年期後期の私・・・浪人・大学/大学院進学・社会参加
□「トップ」を走り続けて二度目の息切れ・・・浪人の決断
しかし、トップを突っ走ったおかげで、学校復帰直後の「O点でもいいや」という余裕を失っていました。2番の人には大きく水をあけていたものの、やはり追われる立場は落ち着きません。大学進学も、高2くらいまでは「不登校経験を活かして教師になりたい」という目標のために地元の教育大学を考えていたのに、いつの間にか、より偏差値の高い大学へ行かなければならないという思いが強くなっていました。さらには、現場の教師ではなく、研究者として発言していきたいとも思うようになります。高3で受験したのは、北関東の学園都市にあるT大学の推薦入試と地元北海道の旧帝大の一般入試で、いずれも不合格でした。もちろん合格したくて受けたわけですが、進路選択に迷いもあったので、浪人することを決めた時には、少しホッとしたのも事実です。
家計が苦しいこともあり、予備校は「単科ゼミ生」という身分で、週に2コマ(英語と古文)だけ受講し、他の科目については夏期講習と冬期講習で補いました。時間的なゆとりが何よりの魅力で、春は受験のための勉強に明け暮れていたものの、夏くらいからは読書に時間を費やすようになります。高校時代までは読書嫌いでしたが、予備校の現代文の先生にも触発されて、新書をよく読むようになりました。また、高校1年の時に理科を教えてくれていた非常勤講師だった先生が、予備校の講師になっていて、私のことを覚えていてくれました。毎週のように講師室で雑談しながら、進路の相談にも乗っていただきました。その先生は、大学院の博士課程を修了されたばかりで、教育学の専攻でした。理科の先生として3年間勤め、学校教育に疑問を感じて退職され、大学院に入られて、その時に非常勤講師として私の高校にいらしていたのでした。予備校の講師室では、私の不登校経験もじっくり聴いていただき、心理学を専攻してはどうかと勧められました。
その頃の私は、すでに偏差値へのこだわりを捨て、自分の学びたいことを学べる大学選びをしようと考えていました。現状の成績で合格できるところから、最も魅力のあるところを探し、自分の不登校経験も含めて大学宛に手紙を出しました。その結果、弘前大学教育学部の中学校教員養成課程心理学科専攻課程を受験することにします。定員は3名という狭き門ですが、心理学を専門的に学ぶことができて、かつ、中学校の教員免許状も取得可能という当時としては大変珍しい専攻でした。小学校教員養成課程の心理学専攻は各地にあったのですが、私は泳ぎが苦手だったので敬遠し、中学校教員養成課程という条件で探すと全国に1つしかなかったというわけです。
□大学進学・・・
適応指導教室のスタッフにめでたく3人中の1人として合格します。受験前に出した手紙の返事には、在学中に県教委が開設している適応指導教室の指導員になる道も用意されていると書かれていましたので、約束どおり、卒業した先輩の後任として、2年生になると同時に採用していただきました。適応指導教室は、田んぼに囲まれた敷地にプレハブの平屋建てという質素なものですが、外見と違って内装は小奇麗なところです。退職した先生を含む非常勤指導員12人の1人として、生まれて初めてのアルバイトとなりました。
入学当初は教師になりたいという気持ちの方が強かったのですが、教官からの勧めもあり、徐々に大学院進学・研究職志向がまた強くなってきました。できることなら、子どもたちと関わりつつ、研究もしたいという欲張りなことを考えておりました。研究テーマは不登校に関連したことを選ぶ予定だったのですが、浪人時代に読んだ本で興味を持った学習意欲について2年次に研究を始めてしまい、そのまま卒論まで続けて、進学することになりました。
□大学院進学・・・フリースペースヘの関わり
大学院は、自分の研究テーマに近い先生のいる名古屋大学教育学部を選びました。北国育ちの私にとって暑さに耐えられるだろうかという不安もありましたが、研究環境には代えられないと思い決断します。テーマは引き続き学習意欲です。具体的には、自分が不登校を経て学校に復帰し、自分の体験を活かしたいと考えて教育心理学を学ぼうとした意欲を理論的に考察して一般化を試みています。
報酬や受験のために学習するという意欲(外発的動機づけと呼ばれています)や学習それ自体が楽しいから学習するという意欲(内発的動機づけと呼ばれています)は比較的研究されているのですが、何かを学んでそれを実践に活かしたいという意欲は外発と内発の中間的なものとして位置づけられていて、その意義が十分に認識されていないと感じたのです。
しかし、博士前期課程(修士課程)の2年間は私にとってつらいものでした。弘前時代は、教官のお膳立てで適応指導教室という実践の場を得ていたわけですが、名古屋では自己開拓しなければなりません。しかも、不登校を含む臨床心理学を専攻する大学院生がたくさんいます。学習意欲を研究する教育心理学専攻の私が臨床の場に出て行くことには制度的にも精神的にも敷居が高かったのです。
そして、教育心理学専攻では、論文を量産することが至上命題とする雰囲気が支配的で、実践に参加することは全くと言ってよいほど評価されません。自分のアイデンティティを引き裂かれたような状態のまま、一時は自殺の2文字が脳裏をよぎったこともありました。それでもホームページ上での不登校体験記の公開などを精神的な支柱としつつ、学習意欲の研究を続け、修士論文を書き上げました。
ちょうど修士論文を書き上げた頃、三重県四日市市で活動されている「子どもの居場所を考える会」という市民団体の方にお招きいただき、再び不登校の子どもたちと関わる機会を得ることになります。雑誌記事をもとにホームページをご覧になったお母様から電子メールをいただいたのです。名古屋から電車で40分、久々の人間的な関わりを求めて、月に2回ほど参加させていただいています。
大学院では博士後期課程に進学し、研究を続けています。まだ実践と研究の両立が実現しているという感覚はありませんが、誰かのお膳立てを期待することなく、ようやく自分で歩き始めたと言える状況でしょうか。もちろん、多くの人々に支えられての「自立」です。経済的な意味での自立も目指して、教員採用試験予備校の非常勤講師を始め、4月からは大学や専門学校の非常勤講師も兼任予定です。学校復帰から14年目を迎えるわけですが、自立への道のりはこれからです。
<まとめ>
□「原因」の除去が「解決」をもたらすとは限らない
私自身の不登校経験から言えることは、原因が特定されないことと、特定されないままでも学校復帰ができたということです。小学校で不登校になった理由を転校先の「体力づくり」に代表される集団主義的な雰囲気に求めることはできますが、中学校進学後も不登校が続いたことは説明できません。「不登校になった理由」と「不登校が継続する理由」は別のものであると考えた方がすっきりします。
学校復帰のきっかけは、鉄道の趣味仲間との交流でした。彼らは教育の専門家ではありませんが、私の精神的緊張を解くという役割を果たしました。市の教育相談室や児童相談員の先生ができなかったことを意図せず達成したわけです。このような偶然的な要因にも左右されることがあります。また、私が日曜日に駅へ遊びに行くことを咎めずに見守ってくれた母の役割も実は大きかったのではないかと考えています。関わる人と見守る人の両方が必要なのかもしれません。
さらに、学校復帰が「解決」を意味するのかどうかも考えてみる必要があります。私は中1の学年末テストから復帰しましたが、その後も紆余曲折がありましたし、今も適応と不適応の狭間を揺れている存在です。不登校に限らず、問題に「完全な解決」などありえないという一種の覚悟が必要なのではないかと私は考えています。逆に、たとえ学校には戻らないままであっても、自分の人生を切り開いていこうという勇気が回復するなら、それをもって一応の解決をみたと考えてもよいのかもしれません。
□「ありのまま」で生きる勇気を
みんな、自分の中に不完全な部分を抱えながら生きていると思います。教育には「完全」を目指すという側面がありますから、学校が時として不完全であることを許容しない雰囲気になることもあるでしょう。しかし、不完全なままでいい、いい加減に投げやりに生きていいとも思いません。これは大変難しいことですが、「完全でなければならない」とまでは思い込まずに、でも、「無理しない範囲でやってみる」という姿勢を保ちたいところです。「ありのまま」に生きることは、時につらいことがあります。実践と研究の両立を追求する私のように。きっと、バラ色の人生を夢見ることなく、努力できることに喜びを感じることができれば幸せになれそうな気がします。
追伸
私は、母の子育てが良くなかったとは思っていません。孫とのやり取りをみていると、むしろ「上手だなあ」と思うことが多いのです。こんなに明るく、楽しく育ててくれてどうして不登校になったのか・・・と思ってしまいます。ですから、不登校や引きこもりの子どもを持った親御さん方、どうぞ自分を責めないでください。過去でもなく、今でもなく、これからです。
(「おひさまありがとう」p181)
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