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青年の自立と心理
―自らの不登校・引きこもり体験を通して―
伊田勝憲(名古屋大学大学院教育発達科学研究科博士後期課程)
 
1. 幼少期の私
□従兄が東大に入る
 親戚(父方の祖母と伯母夫婦)が近くに住んでいて、週に何回か夕食に招かれ家族で遊びに行っていました。いつも話題の中心は、地元の進学校でトップを走る従兄のことです。そして、私が幼稚園の年長の時に、彼は東大に入ってしまいました。親戚は「次は勝憲だ。お前も東大か防衛大に入って、公務員になるんだぞ。公務員の公はおおやけと読むんだ。人のためになる立派な仕事だ。」「伊田家は代々優秀な家系で頭がいい。」と顔を合わせるたびに言い聞かされました。単純な私は「そうか、自分は東大か防衛大に入って偉くなるんだ」と思い込むようになりました。ここで防衛大が出てくるのは、父がかつて自衛官だったからだと思います。しかし、私の両親はともに高卒で、高学歴への信仰は強くありませんでした。勉強は小学校に入ってから始めればよいと考えられていて、就学後も塾に通わせることはありませんでした。私は大人の顔色を伺いながら、真面目に振舞うことが大切なのだと考えていました。その延長線上に、きっと「東大」「防衛大」があるのだと信じていたわけです。
 
2. 児童期の私
□「黄金期」
 小学1年時は目立たない存在でしたが、小学2年くらいから、学級内で班長や係長などの役職に推薦されるようになります。先生や級友に認められて、学校に行くのが楽しくなってきました。小学3年進級時にクラス替えがあって、学級内での地位はさらに上がり、小学4年の時には学級代表にも選ばれます。字を書くことが好きでしたので、新聞係として学級新聞を100号以上発行しました。学級委員や班長としての実質的な仕事はほとんどありませんから、学級会の司会をやったりするだけで偉くなったと勘違いしていました。
 しかし、この「黄金期」は長くは続きませんでした。だんだんと調子に乗って有頂天になり、根拠のない自信とプライドだけが高められ、自分の思い通りにいかないと班員のせいにしていました。そして、気づいた時には周囲からの信頼を失い始めていました。
 小学5年になってクラス替えがあり、心機一転、黄金期を復活させようと意気込みますが、学級代表の選挙には落選し、班長として再出発します。しかし、班員からの信頼はなかなか得られず、疎外されていきます。陰口やからかいに遭いながらも、何とか登校できていたのは担任の先生から信頼されているという感覚があったからだと思います。
□家庭生活
 私が小学校に就学してから、警備員の父が数ヶ月単位の出張で不在になることが多く、母と私の2人で過ごす時間がほとんどでした。母が乳がんで手術した時(私が小学2年)も父は出張中で、祖母が私の面倒を見てくれました。母が元気になってからは、毎週のようにデパートヘ連れて行ってもらうなど、ある意味で恵まれた生活をしていました。
 小学4年の冬、ちょうど「黄金期」が終わる頃、父が糖尿病を患い、出張先から戻り入院します。以後、出張はなくなり、退院後も市内での日勤となり、収入も減少しました。それに追い討ちをかけるように、老朽化した借家の取り壊しを大家から告げられ、転居を余儀なくされました。家賃の上昇は避けられず、さらに家計が厳しさを増します。
 
3. 青年期前期の私・・・不登校・引きこもり
□転校先は「体力づくりの優良校」
 小学5年の9月、市内の市営住宅へ転居しました。最初で最後の転校です。これは私にとって朗報でした。再び黄金期を取り戻すチャンスだと思ったのです。まだ開校7年目の新しい学校でした。最初は転校生ということでチヤホヤされ、真面目な態度が認められて、すぐに班長になりました。ところが、この転校先の学校は、「体力づくりの優良校」として表彰された学校でした。毎朝グランドを4周してからでないと教室には入れません。昼休みも同じくグランド4周が奨励されています。毎週土曜日の4時間目には「虹の時間」と称して、全校的な体育行事(マラソン大会、縄跳び検定大会)が開かれました。廊下の壁には、毎日のグランド周回記録表が貼られ、さらには縄跳び検定の段級位に名札がかかっています。運動の苦手な私にとって、自分を変えるチャンスだと思いながら取り組みました。私は小学5年の終わりに児童会役員選挙で立候補しましたが、最下位で落選しました。当選者はいずれもマラソン大会や縄跳び検定での上位者です。真面目というだけでは認めてもらえないことを思い知らされました。加えて、この学校では合唱や合奏などの音楽活動にも力を入れていました。ちょうどこの頃、私は変声期で、思うように歌うことができませんでした。同級生やさらには先生方にも不真面目だから歌わないのだと見られていたようです。
 どこまでも集団としての団結力と行動力が求められます。そして、矛盾するようですが、体育行事で明らかなように、集団内での競争も奨励されていたわけです。何とかして、先生や級友に認められたい・・・そう思って頑張りました。自分の課題は完壁にこなそうと努力しました。しかし、達成するところまで努力が続きません。大した努力をしていないわりには疲労感が大きかったように思います。このような環境の中で、私は自分の居場所を見つけることができなくなっていきました。そして、ついに、小学5年の3学期、修了式の1週間前、風邪がきっかけで欠席し始め、修了式前日まで連続して欠席しました。風邪が治っても学校に行こうという気になれなかったのです。これが不登校の始まりでしたが、不登校という自覚はありませんでした。
 
□小学6年に進級・・・
 学級再々編で落ち着かず、小学5年の時は5クラス編成でしたが、転入よりも転出が多かったため児童数が減り、小学6年進級時に4クラス編成となりました。担任も変わり、再起を図ろうと学級代表に立候補しますが、最下位で落選します。この頃から週に1〜2回の欠席が目立ち始めます。いわゆる休み癖がついてきたという感じです。それでも、新しい友達が何人かできて、クラスに馴染んでいけそうかなとも思っていました。
 ところが、4月の転入者が予想外に多かったため、1学級の人数が46名にもなってしまい、再び5クラス編成にする必要が出てきました。結果として、5月の連休明けにクラス替えが行なわれ、担任がまた変わりました。転校後わずか半年で3人目の先生ということになります。せっかく仲良くなった友達は別のクラスになってしまい、新しいクラスには知っている人がほとんどいませんでした。学級代表は解体前のクラスで委員になっていた人が優先されるため立候補できず、そして班長選挙にも落選しました。それでも、何とかして先生に認められたい、級友に認められたいと思って、何かの役職を引き受けようと必死になり、その結果として「縄跳び実行委員」になりました。クラスで最も低い級認定の私が実行委員です。縄跳びの実力を高めるチャンスとして前向きに考えました。また、修学旅行では、生活係のクラス責任者にもなります。
 しかし、委員会・係のメンバーに馴染めず、仕事もうまくこなせませんでした。「暗黙の了解事項」が多く、私は気づかぬうちに逸脱行動をしていたようです。先生方は子どもたちに「一致団結」「一人ひとりがリーダーたれ」「おれがやらねば誰がやる」などのスローガンを連発し、「自主性」を育てようとしていたのだと思いますが、残念ながら、先生方の意図を的確に読み取って動き出す人が評価され、それ以外の人に対する扱いは極めて冷たいものでした。「自主性」を尊重する管理主義と表現すればよいでしょうか。修学旅行では、点呼の時に集会委員と呼ばれる人が笛を吹き、整列するまで何秒かかるかをクラスごとにストップウォッチで測り、どこのクラスが何秒で1位、最下位は○組などと発表する様子は、今になって思い出しても気持ちのいいものではありません。縄跳び実行委員会では、あと1メートルで席に付くというところで、同級生の委員長から「伊田、早く席につけ」と注意されたり、体調不良で昼休みに早退する時には、帰り際に玄関でたまたま会った学年主任に「さようなら」とあいさつしたら、「なんだ、お前もう帰るのか」と言われるなど、心無い扱いばかりでした。
 結果として、小学6年時は年間100日以上の欠席となりました。週に1〜2日程度出席することもありましたが、まったく行かない週もありました。建前上は「体が弱い」という説明が担任からなされていたようですが、同級生の間では「登校拒否」という認識が広まっていただろうと思います。卒業式の練習にもほとんど出ていなかったため、立つ位置を間違えたようですが、保護者席から見れば全く気づかないものだったようです。一応、無事に小学校を卒業させてもらいました。
 
□中学進学・・・
 学級委員になったけれど中学校では3つの小学校から進学してくるため、ここでも心機一転、再起を図ろうとします。今度は学級委員への立候補が私一人だけでしたので信任されました。さらに、学級委員が集まる学年委員会の書記まで引き受けてしまいましたクラスが自習の時には静かにさせる役目を任されるも、全体に呼びかけるだけの勇気もなく、横柄な態度が災いして、次第にクラスで孤立していきました。担任の先生は26歳の女性でした。気の合う生徒とは掃除当番の途中でも車の話題などで盛り上がっているのに、一生懸命ほうきで掃いていた私に対しては「いつまでほうきをやってるの?早く雑巾がけに移りなさい」と注意し、扱いの不公平さに大変憤りを覚えた記憶があります。
 また、4月末には学年委員会の書記として、学年集会の原案作りを顧問の先生から命じられ、満足な案を作ることができず、5月の連休明けから本格的に不登校となりました。
 
□教育相談室も通所続かず・・・昼夜逆転・引きこもり
 1学期の終わり頃、担任から市の教育相談室を紹介され、母とともに通所することになりました。相談所では親子別室となり、私は指導主事から「事情聴取」を受けます。小学5年の転校後くらいから現在に至るまで、欠席日数等を自己申告します。「ここに来た人でも高校に進学した人もいる」と言われ、逆に高校進学への不安が大きくなりました。幼少期から「東大・防衛大」を目指していた私にとってはトップ校への進学が夢であり、そもそも高校に進学できるかどうかが微妙だという現実的な課題を突きつけられて、自信をなくしました。私の「聴取」が終わって、次は母との面談が行なわれました。そこでは、指導主事が自分の息子の自慢話(トップ校に進学していること)を母にしたということをだいぶ後になってから聞きました。母が面談している間、私はスタッフの人と卓球などで遊びました。
 私は1回行っただけで、この教育相談室にも通所することができなくなりました。予約を入れては当日の朝にキャンセルということを繰り返したのです。実力をつけてからでないと相談室には行けない・・・そう感じるようになっていました。つまり、自分の存在を認めてもらっていないという意味において、相談室も学校も同じであったわけです。そして、母にとってもあまり行きたい場所ではなかったようです。その後、校長先生の紹介で、区役所分室の児童相談員を紹介されます。今度は少しアットホームな雰囲気で、帰りに書店に連れて行っていただき、NHKラジオの「基礎英語」のテキストをプレゼントしていただきました。ただ、そのテキストの勉強をきちんとしなければいけないという気持ちになってしまい、結果として最初の1回だけで通所できなくなってしまいました。
 とうとう行き場がなくなり、自室で過ごすことになります。昼夜逆転生活に拍車がかかり、1ヶ月以上入浴もせず下着も取り替えないという時期もありました。夜はラジオの深夜放送を聴き、明け方に就寝し、昼下がりに起床という生活です。夕方から夜にかけてはファミコンやテレビです。日曜日の夜には、テレビもラジオも放送を休止していたので、大変怖かったです。幽霊が出るのではないかという不安が非常に強く、部屋の電気は朝まで付けたままでした。
 
□趣味の鉄道仲間との交流を通して
 中1の秋、11月過ぎに転磯が訪れます。小学4年の終わり頃に参加した市交通局主催の「子ども交通講座」で知り合った鉄道趣味の仲間からでした。新しくなった札幌駅に電車の写真を撮りに行こうという誘いでした。他校生なので、私が不登校だということは知りません。学校に行っていないのに遊びに出かけることは、私にとって大変後ろめたいことでした。本当は「不登校だから外に出られない」と答えたかったのですが、不登校だということを知らせるのも体裁が悪いと思い、日曜日の早朝という約束で誘いに応じることにしました。
 誘ってくれたのは1学年下の当時小学6年生で、駅に行くと、彼の知人である高校生と浪人生もいました。4人で鉄道の話題で盛り上がったり、一眼レフカメラのことを教えてもらったりすることは、久々に本当に楽しいと感じられる時間でした。それから毎週のように駅に出かけるようになりました。12月には、父にねだって一眼レフカメラを買ってもらい、ますます写真を撮ることが面白くなってきました。カメラそのものにも興味を持つようになって、カメラメーカー(ニコン、キャノン、ミノルタ、オリンパス、旭光学)の株価をノートに記録する趣味も新たにできました。
 趣味仲間との交流を通して、勉強・学歴に縛られた価値観から少しずつ解放され、精神的に余裕が出てきました。街中でホームレスの人を見かけた時、いざとなれば自分もそうやって生きていけるという楽観的な見方すらしていました。







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