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小学生の生活から子どもの発達と家庭を診る
阪口眞由美(くるみ)
 
はじめに―今、小学校では
 教室に入らないで、校庭でずうっと遊ぶ1年生がいます。なぜでしょうか。
 2年生では、授業中、一人ゲームで遊ぶ子も出てきます。もうすでに、学習に興味を無くしているのでしょうか。
 中学年では、担任に反抗的な子がふえています。発達の節目から言って反抗は当然かなと思いますが、家庭では、反抗していない子にその傾向が見られるのも気がかりな事です。
 高学年では、集団で授業をボイコットしたり集団で個人攻撃をしたりするなど、徒党を組んで様々な事をしてしまいます。周りを困らせるようなことを、一人ではしないのがほとんどです。
 小学校生活の6年間を、できるだけ子どもたちの立場にたって振り返ってみたいと思います。
 
小学校に入学―すべてが学校中心の生活が始まる
 小学校に入学すると、すべてが学校中心の生活が始まります。そして、楽しい事もある反面いやな事もあると思います。しかし、これから先の長い学校生活に否応なしに慣れなければならないのが現状で、たくさんの我慢を強いられ、我慢させることが教育であると思われているのではないでしょうか。子どもたちにとって、楽しい学校生活は、保障されているでしょうか。少し具体的に診てみましょう。
 登校時の集団登校、決められた時刻に遅れると近所の子どもたちに迷惑がかかってしまいますから、気を使います。
 午前中、45分間の授業が4時間、合計すると180分間、「姿勢を正しくしなさい」と声をかけられながら硬い椅子に座っていることになります。高学年ともなれば、午後も90分間、そのような状態が続きます。
 そして給食、好き嫌いがあると毎日が辛いです。無理に食べさせられるともっと辛いです。それでも、食事指導は当たり前になっています。
 お掃除もたいへんです。ほうきや雑巾・・・使い慣れるのがやっとです。学校は、ほこりがいっぱいですし、冬の雑巾洗いはとても冷たいです。学校を美しくするには、子どもたちだけでなく、もっとたくさんの大人の手が絶対必要なのです。
 休憩時間は、5分、10分、15分、長くても20分と小刻みです。思い切り遊べる時間は、保証されていません。学習中心の生活が毎日続きます。
 服装も自由でない学校があります。
 蒸し暑い日本の夏に、教室では室温が40度近くなっても冷房設備も扇風機もありません。
 どれひとつとっても、およそ、子どもたちの要求とはかけ離れているとつくづく思います。いつか、子どもたちの本音が聞いてみたいものです。どんな、学校生活を送りたいでしょうか。自分たちの要求さえわからないくらい、学校は、大人の考えで運営されています。
 
「楽しく学びたい」から・・・「勉強はイヤ」に・・・
 「ワクワク・ドキドキ」期待に胸弾んで入学してきた子どもたちですが、一月もすれば、1日中話を聞き続ける事に疲れてきます。静かに作業を続けることにも疲れてきます。まだまだ、独り言やおしゃべりがしたい子どもたちですから。ひらがなが読めたり計算ができたりして入学してくる子は、なおさらたいくつです。
 少人数で、発言の場が多かったり個別に診てもらうことが多かったりすれば、たいくつしたりわからないことがそのままになったりしないで済みます。残念ながら、1学級40人では一人一人の疑問や要求にはなかなか答えられないのが現状です。
 
話を聴いてほしい時・・・いったい誰に
 会話は、日常的に続けられてこそ成り立つものだと思いますが、高度経済成長以後、家庭の中には様々な変化が起きて、会話のない家庭はふえています。遠距離通勤・通学・塾・お稽古事・・・そして子どもの一人部屋、家族それぞれが多忙ですれちがう生活の中では、お互いに努力をしないとコミュニケーションはとれません。まして、小学校生活の喜怒哀楽は、些細な事として片付けられてしまうのでしょうか。
 同じことは、学校生活でも言えます。手のかからない子、おとない子、理解が速い子、器用な子は担任と会話する事も少なくなってしまいます。しかし、どの子もいっぱい声をかけてもらいながら学習していきたいのです。我慢しているのです。我慢強い子は、家庭でも学校でも必ず誉められますから。
 
評価・比較され続ける6年間
 小学校入学前から、元気がいいとか体格がいいとかに始まってテストの点数が気になりだすと、塾、そろばん、くもん、ピアノ、絵画、体操、野球、サッカー、水泳などなど・・・個性を伸ばそう、英才教育をと連日のおけいこごとが始まります。
 子どもたちは、小学校の低学年から様々な選択の道を迫られることになってしまいます。のんびり、ゆっくり、いっぱい寄り道をしながら成長させてやれないものでしょうか。
 自分の好きなように好きなことを好きなだけ経験していく中でこそ、個性は発展し、才能も磨かれていくのではないでしょうか。誰とも比較されずに、自分としっかり向き合う中で評価も生まれてきます。評価は、本来自分でするものです。他者からの評価は、確認でしかありません。まして、不適切な評価は、信頼関係を損なうだけです。
 しかし、日本の子どもたちは、評価され続ける中で自己評価が出来ないままに大人になってしまっているのではないでしょうか。
 
我慢した事がいっぱいある
 わたしたちは、自分の小学生時代を思い出してみるのも大切だと思います。例えば、わたしは、給食の牛乳がとてもいやでした。脱脂粉乳は、においもいやで味も嫌で、毎日、鼻をつまんで息もせずに飲みました。「今の牛乳はおいしいですよ。」の声が聞こえてきそうですが、それは、相対的な考えであって、昔に較べてましだから「今の子は贅沢だ」につながってしまいます。そこには、発展的な考えは生まれません。育ちもしません。昔も今も、食べたくないものはあるのです。好き嫌いを改善することが、「残したらダメ。」の一言では、解決するはずがありません。様々な、学習の中で、自分自身で改善の必要性に納得した時、やっと「好き嫌いをなくすスタート」始まるのですから。
 くり返し練習させられる計算もいやでした。
 計算プリントに計算ドリル。そして、くり返し。際限なく取り組むことを要求される計算練習。そんなに練習しなくても、計算のしくみや計算の必要性が理解できていれば、忘れてもまた思い出すものです。困るのは、理解できていないのに、くり返し練習することで、機械的に操作ができるようになり、算数が得意であると勘違いをしてしまう場合もあるのです。できることとわかることは、異なるのです。
 給食指導は、多くの担任がいやがっています。たくさんの宿題を出すことも多くの担任はいやがっています。できれば、楽しい充実した放課後の話が聞きたいと思っています。指導するのがいやだった事は、される方もいやだったということだろうと思います。
 それでも、いろいろなことをがまんさせているのは、なぜでしょう。子どもたちの願いや気持ちに耳をかさないのはなぜでしょう。不思議でしかたがありません。
 
豊かな放課後は保障されているでしょうか
 大阪市では、「いきいき活動」と称して、誰でもが入れる放課後対策があります。毎日、6時まで学校にいる子・夏休みも皆勤の子もいます。
 学校の中にいれば、確かに安全かもしれません。しかし、同じ敷地内、あるいは空き教室にカバンを持ったまま通う子どもたちに、気分転換の空間はありません。また、子どもたちが豊かに成長するためには不可欠な冒険の時も場面もありません。
 毎日、習い事に通う子どもたちもいます。とても、疲れています。友だちと日が暮れるまで遊んで育った私たちの小学生時代では考えられないことです。友だちと遊びたいと叫んでいる声が聞こえてきそうです。「鉄は、熱いうちに打て」とは言っても、そんなに1度にいろいろな角度から打たれたら、どんなふうに仕上がるのでしょうか。
 毎日、ゲームづけテレビづけの子どもたちも確実にふえています。明るいうちは、外で元気に遊べる安全な場所はないものでしょうか。公園や児童館などの施設を求める声は大きいです。要求運動ももちろんしていかなければなりません。
 同時に、その地域にすむ大人すべてが子どもたちに関心を持ち、誰もが声をかけたり見守る気持ちを持ったりすることだけでもずいぶん改善されるのではないでしょうか。
 
おわりに
 2002年度からの新学習指導要領は内容が3割近くカットされて、一段と狭く浅くの内容になっています。そして、この教科書を巡っては、子どもたちの立場から危惧されることがいくつかあります。
 一つは、時間にゆとりがあることにより、一段とくり返し練習が増えるのではないかという事です。解っていることを、何度も練習することほどやる気を無くす事はありません。
 二つ目は、学習塾に追い込まれる子どもたちが増えるだろうということです。これまでも、「中学校受験は、公立の学習では範囲が足りないから。」の理由で4年生ぐらいから学習塾通いの子がいました。
 ここでも、私たちはきちんと考えなければなりません。必要以上に詰め込むことがどれだけ弊害をもたらせているか。また、発達を無視した学習内容は、できるけれどもわかっていない子どもたちを生み出している。ということを。
 学力は、子どもたちの興味や関心に十分に応えられて楽しく学べてこそ伸びていくものだと思います。そのためには、ゆったりとした時間が流れなければなりません。大人が、一定の時間に仕事をこなすのとはわけがちがうのです。
 楽しい学びのために・・・学力論争をもっともっとしましょう。
 そして、もっともっと学校を知って、子どもたちが楽しく学べる学校にしていきましょう。子どもたちの子ども時代を豊かで幸せなものにしていきましょう。
 
おひさまありがとう 〜不登校、引きこもり、拒食症を経て〜
岸 真理子
 
・高校一年生で学校に行けなくなって・・・
高校一年生の時、不登校になった。学校に行けない時の苦しみは、言葉では言い表せない。
家に閉じこもる毎日が続く中、拒食症のようになり、体が衰弱していった。精神科への入院を余儀なくされ、3ヶ月間入院生活を送る。
退院後、新学期から復学するが、再び学校に行けなくなる。
ある時、中学時の恩師を訪ね、大検のことを聞く。道が開けた思いで受験を決める。
しかし、勉強はスムーズにいかなかった。
色々な事があったが、大検に合格でき、希望の学校にも合格。が、人間関係には悩みつづけた。
 
・引きこもりから抜け出せたきっかけ
入院 家に閉じこもり、思考も進展しない最悪の状況を変えることができた。また家族から離れたことは、家族や自分自身を見つめることができる良い機会になった。
中二の担任の言葉−
    恩師より、大検について聞かされたことで、将来に向けた新たな道を開くことができた。また、「10年かかってもいいじゃないか」という先生の言葉が、心の支えとなった。
 
・不登校になった理由
直接的には、人間不信、高校受験の失敗、高校での強制的な勉強などがあり、様々なことが重なり合っていた。
しかし、基本的には自分自身に問題(“弱さ”や性格)があったと思う。
 
このような原因の発見や追及、過去の掘り下げは、苦しみの真っ只中では、あまり意味がないかもしれない。しかし、後になって、色々な事を整理していくことは、私にとって、社会の中で生きていくための大切な作業であった。
 
・体験を通じて感じたこと
「個の自分」 自分は自分。他人との比較なしに、一人の人間としてみて欲しい。
「家族の芯」 家族の一人一人が自立し、お互いを認め、支え合いながらつくる、よりどころのようなもの。
これらは、人が成長したり、生活していく上で大切なことだと思っている。
 
・自分探し
自分自身を見つめ、自分がどんな人間かを知ることによって、これからの自分らしい生き方を見つけている。
 
講座資料――「おひさまありがとう」 岸真理子著、 文芸社
 
最後に
 少し飛躍したところもありましたが、私の思いを述べました。おそらく、何時までたっても言い切れることはないでしょう。このような問題が、ありつづける限り・・・。これからも、不登校やひきこもりを経験した私の頭が、家族や学校、社会などについて色々なことを考えつづけていくでしょう。とりあえず、今、私の体験談をつづることによって、自分の中で少し整理できたようです。
 時代が流れていく中で、不登校の捉え方えも変えていかなければいけないと思っています。
 今、不登校になっている子どもたちは、私よりずっと新しい時代の人たちですし、その親たちも、私とも母とも違う時代の人たちです。私がここで述べたこととは、ずれがあると思います。ただ、親が子どもに対する思い、子が親に対する思いは、普遍的なものだと思います。時代と共に変化するもの、変化しないもの両方を考えながら、考えていかなければならないでしょう。
 そして不登校や引きこもりの問題だけでなく、社会全体が抱えている問題にも目を向けながら、明るく、楽しく暮らしていける世の中にしたいものです。







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