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2 海洋のトライレンマからデグレデーションサイクルヘ
 部族の間で生じた悲惨な虐殺が世界の耳目を集めたルワンダの内戦(1994〜1995年)は、隣国のザイール(現コンゴ)やタンザニアを巻き込んで拡大し、推定50〜100万人の犠牲者と100万を超える難民を発生させた。もともとのルワンダは、「アフリカのスイス」と呼ばれるほどの景勝国で、マウンテンゴリラの生息地としても有名であった。国の東部は牧草地帯でツチ族が牧畜を営み、中央部は肥沃な土地が多くフツ族が農耕を営んでいた。国の西部は山岳地帯でコンゴと国境を接している。1950年代までは、人口200万人程度で村の長を中心とする政治は安定し、ツチ族とフツ族の間の結婚等もあって穏やかな同化が進んでいた。ところが、1960年代以降、人口が急増し始める。1980年代には600万人、1990年代には800万人と、人口が爆発的に増加していった。これには先進国からの開発援助が関係しているとする見方がある。援助国から政治システムの近代化を求められ、村の長政治が終わり民主政治制度が導入された。より多くの利益を得るために、両部族とも数が必要となった。開発援助によるささやかな豊かさの中で、人口増加が加速されていった。この結果、一人当たりの農地面積は1/3にまで減少し、農地と食料を求めて部族の移動が始まった。資源の乱獲、牧草地と山岳地帯の農地化がやがて環境を破壊し、食料の枯渇を加速させていった。フツ族の大統領が誕生すると、ツチ族は愛国戦線を結成し、対立は深刻な事態へと進んでいった。国営「丘の上放送」が「ツチ族を殺せ、ツチ族を殺せ、」の呪文のような電波を流す中で、フツ族による大虐殺が発生し、ツチ族がそれに報復する内戦となった。ルワンダの内戦に、不適切な開発 環境の破壊 平和の破壊、の構図が齎す戦争の典型を見ることができる。
 まったく逆の例がスーダンに見られる。イギリス植民地の時代、北スーダンはイスラム教社会、南スーダンはキリスト教社会で、交流が許されていなかった。1956年の独立と共に、南北で内戦が勃発した。内戦による環境破壊が食料危機を招き、飢えた子供たちと難民を大量に生み出すことになった。国際的な食料支援と和平働き掛けによって、凡そ30年続いた内戦は一旦収まったものの、1980年代になって国内に石油の埋蔵が確認されるや、「略奪可能な資源が武力紛争を招く」形で再び燃え上がった。軍事支出は和平前の3倍にまで膨れ上がった。観測史上4番目となる高温となった1994年の熱波が、早魃となってスーダンとそれを援助する国際社会の苦悩を絶望的なものとした。スーダンでは、政治の不在と戦争 環境破壊 食糧枯渇 開発の破綻、の流れの後で、異常気象が追い討ちを掛けたのである。
 化石燃料の大量使用による大気中の二酸化炭素量の上昇が温室効果ガスを増大させ、それが世界各地に熱波を発生させているのだとすれば、スーダンを襲った異常気象はまさに国境を越えた環境と平和の破壊そのものではないか。
 「開発」を優先させ過ぎると「環境」が劣化し、「環境」に力を入れ過ぎると「開発」が滞り貧困が「平和」を損なう。「平和」の獲得のために軍事を優先し過ぎると「環境」の保護が蔑ろになり「開発」も遅れる。これが「開発−環境−平和」を巡るトライレンマである20。このトライレンマを放置すると、不適切な「開発」が「環境」の悪化を招き、「環境」の悪化が「平和」を脅かし、「平和」が破綻して「開発」が後退するという、次々に全てを悪循環に陥れるデグレデーション・サイクルに入っていく。所謂、“負の連鎖”だ。
 2001年に実施された国連環境計画(UNEP)の分析では、地球温暖化により、農業被害、エネルギー損失、生態系被害、水質汚染、環境難民などで、2050年時点で3,042億ドルの経済損失が予測されるという(表1参照)。経済損失が富の不均衡と格差を助長すると、富める者に対する貧しい者の不公平感がテロを生じさせることもあるだろう。事実、スーダンはかつてウサマ・ビンラーディンがテロ活動の根拠地としていたことがある。そのため、アメリカは1998年のケニアとタンザニアの大使館爆破事件の後、スーダンの薬品工場を化学兵器工場と判断し巡航ミサイルで攻撃している。また、アル・カーイダがパキスタンからスーダンに資金を移したとの報道もある。21
 
表1 地球温暖化による経済損失予測(2050年時点)
死亡・移住 863億ドル 生態系被害 405億ドル
沿岸域喪失 467億ドル エネルギー損失 231億ドル
水質汚染等 467億ドル 大気汚染 154億ドル
農林業被害 425億ドル 異常気象 30億ドル
  合計 3,042億ドル
(出典;UNEP Our Planet(2001)参照)
 
 この様なテグレデーション・サイクルが海洋を舞台として大規模に発生することか危倶される。沿岸域乱開発によるサンゴ礁と沿岸漁業への影響、乱獲による漁業資源の枯渇と海洋生態系の破壊など、危倶が現実となっているところもある。
 サンゴ礁の消滅は1990年代から危倶されてきた。海水温上昇と陸上からの沿岸域開発による汚染が原因とみられ、2000年末までに世界のサンゴ礁の27%が消滅したという22。サンゴ礁の消滅は生物多様性と沿岸漁業に甚大な影響を及ぼす。アジアでは10億人が沿岸漁業で食料を得ている。海洋の環境破壊はテロと同じで国境を越えてやってくる。
 漁業は捕獲漁業と養殖漁業に大別できる。捕獲漁業についてみると、50%が持続可能限界まで捕獲され、15%が過剰に捕獲されており、7%が既に枯渇状態であるという23。漁業は重要な食料供給源であり、人間の摂取する動物性蛋白質全体の20%を占める。食料としての漁業の需要は世界的に伸びており、現在の年間総需要量は9,250万トンであるが、2010年までに1億2000万トンになると見積もられている。これに対して、世界の捕獲漁業と養殖漁業を合わせた総漁獲量は1998年で1億2700万トンであり、1980年からみて70%増加している。しかし、内訳でみると、捕獲漁業はこの内の72%、つまり9,144万トンである。捕獲漁業は、1950年代から急速に増大し、世界の持続可能漁獲量1億トンに達した後1990年代に入って横ばい状態となり、1997年以降は著しく落ち込んできている。つまり、漁業生産の増加分は養殖漁業によるものであって、捕獲漁業は需要の伸びに反比例して大きく減産しているのである。捕獲漁業の減産は高価魚種の乱獲、混獲魚種の廃棄、それによる生態系の破壊、加えて海洋汚染が原因であるとされる24。ほとんどの回遊性魚種は沿岸域で幼魚期を過ごすため沿岸域汚染の影響を受けているとの話も聞く。前述した日本近海のサバやイワシの例のように、既に枯渇が危惧される魚種もある。
 表2に主要漁場における捕獲漁業の状況を示す。
 
表2世界の主要漁場における捕獲魚業の状況
  漁獲可能量 限界到達年 平均水揚げ量 状況
北東大西洋 1,200万トン 1983年 1,000万トン 過剰漁獲
北西大西洋 400万トン 1971年 300万トン 過剰漁獲
地中海・黒海 200万トン 200万トン 限界漁獲
北東太平洋 400万トン 1990年 300万トン 過剰漁獲
北西太平洋 2,600万トン 1998年 2,400万トン 回復中
南西太平洋 100万トン 1991年 100万トン 過剰漁獲
(出典;FAO(2000))
 
 漁業資源の減少は海洋を舞台とした「開発−環境−平和」のトライレンマを深刻なものとする。
 国連海洋法条約の発効によって、世界の海洋の49%には何れかの沿岸国の管轄権が及ぶことになった。「遠洋漁業」の呼称は他国の排他的経済水域での漁業と呼ぶ方が相応しい。沿岸国による「海洋の囲い込み」への危惧が現実化するような事態となれば、安全保障環境は一気に緊張することになるだろう。海洋には「略奪可能な資源」が存在する。排他的経済水域は、Freedom of SeasがFreedom of Seizeとなる危険性を孕んでいるのである。
 「開発」と「環境」の問題はセットとして理解されやすい。しかし、「平和」と「環境」はとかく両対極にあるもののように考えられがちだ。「開発−環境−平和」のトライレンマの克服を新たな安全保障として捉えることが必要となっている。
 
3 海洋世界のパラダイムシフトとシーパワー
 歴史上、海洋にはその時代に卓越したシーパワーによって形作られる特徴ある海洋世界が幾つか出現してきた。興隆した海洋世界は、やがて新しいシーパワーの波に飲み込まれ大きくそのパラダイムを変化させ、新たな海洋世界が創出された。それは人類社会の文明の興亡とも似ている。本項では、歴史上現われ消えていった海洋世界を、シーパワーの面から回顧すると共に、今日の海洋における国家および国際社会の海洋との関わりの在り方を考察する25
 
「閉鎖的な海洋世界」
 歴史上最初の海洋世界を地中海に見ることができる。紀元前480年、ペルシャとアテネの間で生じたサラミスの海戦は、大陸からの勢力ペルシャと海洋の勢力アテネとの争いであったといえる。勝利したアテネが一時期地中海東部を支配するが、やがて、マケドニアの征服によってその支配力は消滅する。その後、紀元前265年から始った第1次〜第3次ポエニ戦争でカルタゴを滅ぼしたローマが地中海西部に制海権を得る。サラミスの海戦は、大陸勢力と海洋勢力の地政学的な対立に起因する戦いの発祥であり、ポエニ戦争は、海洋における覇権を巡る戦いの発祥であったといえよう。ローマのシーコントロールにより、ローマに敵する海軍力は消滅し、地中海はローマが独占するところとなったが、ローマには地中海から外海に出るシーパワーはなく、やがて地中海はローマによる閉鎖海と化していった。
 地中海には、「大陸勢力と海洋勢力との戦争」→「シーパワーの誕生」→「海洋勢力の覇権を巡る戦争」→「シーコントロールによる海洋世界の誕生」→「閉鎖海化」、という歴史が流れていった。これを「閉鎖海洋世界」と呼称することができるだろう。
 
「トランスナショナルな海洋世界」
 永く地中海が「閉鎖海洋世界」となっていた頃、アジアの海からアラビア海に掛けて、コスモポリタン的な海民が織り成す「トランスナショナルな海洋世界」が広がっていた。1957年のことであるが、中国の南京にある明の時代の造船所跡から、全長11.07メートルの巨大な木製の舵棒が発見されている。明の時代といえば、永楽帝の命を受けた鄭和が、「宝船」を旗艦とする大艦隊を率いて南海大遠征を繰り返している。遠征は7回を数え、遠くアフリカ東岸にまで達した。発見された舵棒が鄭和の「宝船」のものであったか否かは別として、西洋による大航海時代よりもはるか以前のアジアに、巨大な船舶を造りだす技術があったことを示すものとして興味深い。シナ海からイント洋を経てはるかアラビアに至るまでのユーラシア大陸東南の海洋には、インドや中国の古代帝国の昔から、アジアのボーダーレスな海洋民族の自然律的海洋自由を基調とするシーパワーが作り出す広大な海上交易圏が栄えていた。その海洋世界は、ヴァスコ・ダ・ガマによるインド洋までの航路の啓開によって一変することになる。
 
「海洋自由の海洋世界」
 さて、その後の地中海に話は戻る。地中海はルネサンスの春を迎えていた。オスマン・トルコ帝国の隆盛によって、地中海世界とオリエントの陸路による交易が脅かされるようになると、ルネサンスの活力は閉鎖海洋世界を中世の頚木から解き放し、外海へと導き出していくようになった。スペインとポルトガルによる大航海時代が始まり、航海術、操船術、造船能力は飛躍的に向上していった。そのような中でオスマン・トルコ帝国の進出はやがて地中海へと迫ってくるようになった。その頃、地中海のローマ海軍は完全に縮小されていた。敵のいない海軍はローマにとって巨大な浪費家以外の何者でもなかったのである。
 トルコ軍によって東ローマ帝国の首都コンスタンチノーブルが陥落、さらにキプロス島が奪われると、キリスト教連合はトルコ海軍の地中海侵入を阻止するため、ヴェネツィア、法王庁そしてスペインから派出された海軍部隊をもって神聖同盟連合艦隊を編成することになった。この時、常備艦隊を有していたのはヴェネツィアだけであった。法王庁とスペインは急ごしらえの海軍の編成とその司令官人事で手間取り、出港を大きく遅らせてしまうという失態を演じている。1571年、ペロポネソス半島のレパント沖海上で、トルコ艦隊と神聖同盟連合艦隊との大規模な海上戦闘が生じる。レパントの海戦である。トルコ艦隊230隻、神聖同盟連合艦隊208隻のカレー軍船を主体とする史上最大の艦隊決戦となった。決戦は神聖同盟連合艦隊が勝利し、トルコ艦隊は壊滅する。レパントの海戦以降、海軍力もまた閉鎖海となっていた地中海を抜け大西洋へと進出していくことになる。大西洋、イント洋への航路は既に啓けていた。「航海自由」(「海洋の自由」が慣習化されるには今暫くの時間を必要とするのだが)と「占有」に海軍力が結び付き、シーコントロール可能なシーパワーを持った海洋国家が、広い海洋を舞台としてシーレーンを確保していくことになった。「海洋自由の海洋世界」の誕生であった。やがて、「海洋自由の海洋世界」のシーパワーが「トランスナショナルな海洋世界」を飲み込んでいく。
 
「パワーバランスの海洋世界」
 海洋から見た場合、両次大戦はSLOC(Sea Line of Communication;海上交通路)を巡る戦争として捉えることができる。太平洋、大西洋、インド洋のシーコントロールを目指して両陣営の作戦が繰り広げられた。第2次大戦が終わり、冷戦の時代、世界の海洋はアメリカ海軍とソ連海軍の戦略的対立の場となった。海洋利用の基本は海洋自由であったが、軍事的対立構造が常に支配していた。覇権が生じなかった故に、海軍力が減少することはなかった。しかし一方で、海軍力増強のエスカレーションを回避するための信頼醸成等の努力があって、海洋の戦略環境は固定され安定していた。これを「パワーバランスの海洋世界」と特徴付けることができるだろう。
 
「管理の海洋世界」への模索
 冷戦構造は、アメリカを中心とした西側陣営による海上展開兵力の増強などのパワーバランスを崩す試みによって崩壊した。冷戦の終結は「パワーバランスの海洋世界」を消滅させることになった。
 同時に、グローバルな経済活動が海運界をボーダーレス化し、また海洋資源を求めてあらゆる国が海洋との関わりを深めるようになり、その結果、海洋の古い問題が表面化すると共に新しい問題もまた生じるようになった。国連海洋法条約が発効し、海洋管理に関する様々な協定や取極が締結され始めた。新しい「管理の海洋世界」が生まれつつある。
 「管理の海洋世界」へのパラダイムシフトは、次に示す二つの不確定項を確定化する過程において進行していくことになるだろう。プロセス如何によっては、「管理の海洋世界」は「混沌の海洋世界」へと向かうことになる。
−国連海洋法条約の示す理念の行方と海洋管理レジーム
−海洋管理と海軍力の関係
 国連海洋法条約には、「持続可能な海洋開発」と「海洋を巡る紛争の平和的解決」という理念と、「国際協力」という基本原則がある。「海洋管理」は、この理念と原則に結びつく。また、1992年のリオデジャネイロにおける「国連環境開発会議」(地球サミット)で採択された「アジェンダ21」の第17章では、資源・環境保護のための予防的アプローチの必要性が強調され、2002年のヨハネスフルグにおける「持続可能な開発に関する世界会議」(環境開発サミット)では予防と回復のための実施文書が示された。「持続可能な海洋開発」、「海洋を巡る紛争の平和的解決」、「国際協力」、「予防と回復」のための海洋管理レジームを創設する英知が人類に問われている。
 さて、国連海洋法条約の審議は、海洋自由を維持したい海洋国家と、沿岸海域における資源の管轄権を要求する沿岸国家の主張の狭問の中で難航した。国連海洋法条約が審議された時代は冷戦の時代であって、海洋は海軍戦略の角逐の場となっていた。米ソ両大国は、安全保障を優先し、海軍力のプレゼンスに努めた。海軍部隊の展開のためには「航行自由」は絶対条件であり、それは、管轄海域の拡大を図る沿岸国の主張とは相容れないものであった。沿岸国の海洋における管轄権拡大の要求は止まることはなかった。それぞれの思惑を背にした審議の結果、海軍活動の自由を維持したい国々は、国家管轄水域を認めた上においてそこにおける航行の自由を確保し、これに対して沿岸国家は、排他的経済水域などに管轄権等を及ぼし得ることとなった。「航行自由」と「管轄権」との関係が総合的に審議されたとは言い難い。国連海洋法条約は海洋の安全保障に関わることを審議から外すことによって成立し得た面がある。国際海洋学会(International Ocean Institute;IOI)の故エリザベス・M・ボルゲゼ名誉議長はこれを「国連海洋法条約と海軍の離婚」と称した。しかし、安全保障を抜きにして海洋の総合的な管理はあり得ない。海洋のトライレンマを克服することができないからだ。国連海洋法会議で審議されなかった諸々の課題、つまり、海洋の安全保障と海洋開発あるいは海洋環境に関連する諸問題を解決することこそが海洋管理を実行するための前提条件であるはずだ。
 今になって、排他的経済水域における海軍活動、領海内における軍艦等の無害通航権、等々、管轄権や主権と海洋自由を巡る主張の対立が表面化してきている26。これらの対立は、沿岸国家と海洋国家の歴史的な問題、つまり、海軍によって影響力を及ぼし得る海洋国家と、そのような海軍を持たない沿岸国家との間の、海洋権益と国家防衛を巡る相克に起因しているものが多く、根は深い。海洋国家と沿岸国家に共通する安全保障観と、そこにおける海軍力の意義を見出すことが重要である。
 海洋に幾つかの「海洋世界」が生じてきた。「海洋世界」は、その時代の支配的な海洋力、即ちシーパワーによって形作られ、秩序を維持してきた。パワーバランスの消滅した海洋を「混沌の海洋世界」とせず、持続可能な開発と紛争の平和的な解決を可能とする「管理の海洋世界」へとパラダイムシフトさせるためのシーパワーが創出されなければならない。
 

参考文献
20
詳しくは拙稿「オーシャニック・トライレンマ」『Ship and Ocean Newsletter』(SOF、No.6,2000.11.5)。
21
『読売新聞』2002年9月4日(朝刊)。
22
ワールドウオッチ研究所『地球白書(2002〜2003年)』(エコ・フォーラム21世紀監修、家の光協会出版、2002年)16頁。
23
前掲『OECD世界環境白書』136−138頁。
24
漁獲量の減産と環境・乱獲については同上138−140頁参照。
25
詳しくは拙稿「シーパワーのパラダイムシフト」『波涛』(1998年3月。通巻第135号)。
26
例えば、ブラジルなどによる排他的経済水域での他国海軍演習の禁止や、中国などが主張する軍艦の領海内通航事前通報許可制度など。詳細を記す論文として、Commander Robin Warner, RAN "Environmental Concerns: Their Impact on the Law of the Seas and Naval Operations" The Navy and Regional Engagement (Canberra: Australian Devense Force Academy,1996) p.46.がある。







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