鄭和提督の「西海」への7回の航海と中国の平和主義の伝統
中国は平和を愛する国家である。西暦2002年は鄭和提督(Admiral Zheng He)の「西海」(西太平洋およびインド洋を指す)への最初の航海から600周年の記念の年である。15世紀に行った7回の航海で、明朝の鄭和提督が指揮した船の全長は有名なポルトガルの探検家バスコ・ダ・ガマの船の全長の5倍であった。一度の航海では、船員3000人、船の数300隻を超える大艦隊を率いて遠征している。約1世紀後に活躍したコロンブスが率いたいかなる艦隊よりも10倍以上の規模である。全体を形容して「泳ぐ龍」と呼ばれた艦隊には9本のマストを持つ船もあり、最大の船は一度に1000人を運ぶことかできた[11]。兵士、医者、調理人、通訳、占星術師、商人、聖人が随行した。7回の航海は28年問(1405〜1433)に及び、300,000kmに近い距離を網羅した。地球を7.5周した計算になる。40の国に上陸し、最も遠くは東アフリカまで到達した(現在のソマリアおよびタンザニア)。英国海軍の退役士官ガビン・メンジース(Gavin Menzies)氏が最近発表したところによると、鄭和提督の指揮した6回目の航海では、艦隊の一部がケープタウンを周って大西洋に進出し、コロンブスが新大陸を「発見する」約100年前にアメリカ大陸まで到達したと言うことである。さらに、鄭和隊の一部が白人に先駆けてオーストラリアにも到達していたと言う人々もいる。無論、メンジース氏の新説は、さらなる証拠による裏付けや研究が必要である。しかし、つい最近本を出版した同氏の学説が世界中で専門家の注目を集めている事も確かである。
鄭和提督の航海が示すのは、その当時(15世紀初頭)の中国が「超大国」であったと同時に、世界最強の海軍力を誇っていたということである。にもかかわらず、鄭和提督の航海は平和的なものであった。彼の指揮の下、中国人乗組員は現地人と品物を交換し、植民地を争うこともなく、現地の住民を抑圧したり、富を剥奪したりはしなかった。むしろ、中国の進んだ生産技術や文化をその地域に持ち込んだのであった。
当時の中国皇帝が自国のことを「中華」つまり世界の中心と考えていたことは疑う余地がない。皇帝は自らを天の子であると称し、諸外国が世界皇帝としての彼に敬意を示して贈り物を献上することを要求した。明朝の国力、威信、文化を伝搬させるために、そしてまた諸外国より献上品を集めるために、鄭和提督の調査隊が皇帝より権限を委託されていたことは間違いない。しかし皇帝は「多く与えて少なく取るように」と提督と船乗り達に命じ、各地からの「献上品」と交換するために洋服、絹、茶、磁器など多くの中国製品を持たせて出発させた。
歴史資料によれは、鄭和提督の率いる中国海軍が実力を行使したのは3回だけてあった。一度は海賊を討伐するため、一度は自衛のためで、ただ一度だけ外国の内政に干渉したことか有ったようである。鄭和は偉大な探検家・海軍司令官であったのみならず、偉大な外交官、平和特使、海外貿易商の先駆けであった。一部の西欧人が主張するような「征服者」としての顔は一切持ち合わせていなかった。実際、彼が外国を征服して明朝の傘下に置いたことはただの一度もなかった。東南アジア諸国の人々が、今日に至るまで彼を神と崇めているのはそのためである。こうした国々では、今日でも「San Bao Tai Jian」(鄭和を称えて皇帝が与えた称号)寺院を見つけることができる。
中国政府は2005年に、Zhang Heの航海の600周年を記念して、大々的に祝賀の催しを開催することを決定している。「鄭和精神」を推進し、さらに高めて行こうというのがその目的である。中国指導部によれば、鄭和精神を構成する3つの柱は、故郷を心から愛すること、近隣諸国との間に調和と友好の輪を構築すること、科学的航海を推進すること、ということである。
中国の海洋防衛方針
鄭和提督の航海から600年が経過したが、平和を愛する中国の伝統は今日も変わらない。周知の通り、中国は独自の平和外交政策を推進している。この外交政策の主要な目的は世界平和を維持し、共同開発を推進し、平和で安全かつ中国の近代化にとって好ましい環境を長期的に提供して行くことにある。中国が覇権主義に走ることはあり得ない。現在、中国はまだ発展途上国であり、国民一人あたりのGNPは低い水準に留まっている(今年度は1000米ドルに届く可能性がある)。仮に中国がその長期目標を達成し、2050年に中進国までこぎ着けたとしても(その時点で国民一人あたりのGNPは5000米ドルに達するかもしれない)、世界においてもアジア太平洋地域においても中国が覇権主義に転向することは絶対にあり得ない。覇権主義は平和を愛好する中国の伝統に反するもので、人民および国家の利益にとって悪影響をもたらすものである。
国家の目標に従って、中国の海上防衛は防衛的な性格である。中国海軍は現在オフショア防衛を追求しており、外国からの侵攻を海上でくい止め、領土・領海の安全を守り、祖国の統一を守り、海洋における祖国の権利と利益を守ることを任務としている。現時点で中国海軍は近代化が非常に遅れており、日本やインドと肩を並べることすらできない。米国との比較は論外てある。現時点で、中国は「世界」艦隊を構築する意志はなく、空母を建造する計画も持ち合わせていない。
海洋における領土および管轄権の紛争に関して、中国は関係国との間で対話を通して平和的に解決することを望んでいる。中国とベトナムの間に発生したトンキン湾を巡る領土紛争の解決がよい例である。トンキン湾の境界画定について、両国は2000年12月に条約の署名を行った。この条約は両国の国内法によって承認されていないため、現時点ではまだ発効していない。両国の漁業水域の調整を含め、さらに調整が必要なため、条約の実施には困難が伴うと通知されている。しかし、いずれにせよ大きな成功であることに間違いはない。
領土の主権や海洋における権利を巡って生じた多くの紛争は複雑、繊細で、現状では解決が難しい場合が多い。そこで中国は関係国に対して、問題を棚上げにして海洋資源の共同探査、共同開発を進めることを提案している。
たとえば南沙諸島の紛争の場合、中国は国際法および歴史的経緯に基づいて主権を主張しているが、同時に、問題を平和的に解決することを関係各国に提案している。1995年に中国とフィリピンの間に発生したミスチーフ環礁事件(Mischief case)で明確なように、中国と特定の国との間の関係が先鋭化した場合、中国は控えめの態度をとってきた。主権を主張しつつも、過去10年間に中国は南沙諸島問題で大きな政治的譲歩を行っている。1990年には、紛争が交渉課題であることを表向きに認めている[12]。また1995年には、該当する各国との間でUNCLOSを含む国際法に基づいてこの紛争を解決する意志があることを発表した[13]。南沙諸島の問題は関係各国との二国間関係(一対一)の中で議論すべきであるという当初の立場を変更し、ASEAN諸国と1999年の10+1サミットの場で協議を行った[14]。この場では、ASEAN各国と協力して「南シナ海における行動規則」(Code of Activities in the South China Sea)が作成された。2002年11月4日には、中国とASEAN各国は共同で「南シナ海の行動宣言」(Declaration on the Code of Activities in the South China Sea)を発表した。同宣言では、該当する各国は南シナ海に関する紛争を友好的な協議や交渉を通じて平和的に解決し、紛争が解決するまで行動を抑制することを確認した。これは紛争地域での張りつめた状況を緩和する大いなる一歩であると同時に、南沙諸島問題に関する中国の柔軟な姿勢を示している。
尖閣諸島についても、中国は同様の立場に立っている。1978年に?小平が来日した際、記者会見で尖閣諸島について質問が飛び出した。これに対して?小平は「この点について我々は日本との間に問題を抱えている。両国での島の呼び名からして異っている。我々はDiaoyu Daoと呼び、日本では尖閣と呼ばれている。問題の解決には時間が必要だろう。我々よりもずっと賢明な次の世代の人々が解決する方法を見いだしてくれるかもしれない」と答えたのちに?小平は「まさにその時、領有権の問題を棚上げにして資源の共同開発に踏み出す方法があるのではないか、と考えた」と回想している[15]。中国政府は?小平の考えに賛成である。我々は共同探査、共同開発て日本との合意に達することができることを期待している。さらに中国は、合意に達するまで両国が行動を抑制し、紛争の激化を避けることを提案したい。
中国はUNCLOSの署名国であり、同条約の全ての規則および規制を厳格に遵守することを約束している。中国は航行の自由を尊重し、他国と協力して航行の自由を保護することに前向きである。1995年に、中国の外相が声明を出した。「南沙諸島の主権的権利、海洋管轄権、および諸利益は防衛するが、外国船の自由航行、および航空機の上空通過を保証する義務は果たす」[16]。ただし、いかなる海洋大国であっても排他的経済水域(または隣接海域)における沿海国の主権的権利および管轄権を尊重するべきであり、軍事行動および準軍事行動は無害通航権の原則に照らし合わせて適用対象に該当しないというのが中国の立場である。中国は紛争の解決に向けた米国との交渉に前向きである。ただし紛争が解決に至るには、これに先立って関係各国か同じ尺度を採用し、EP3−Eの事件のような船舶や航空機の衝突事故を防ぐ対策を講じなければならない。1998年に、中国と米国はMaritime Consultation Mechanism(MCMA:海洋審議機構)を設立した。EP3−E事件の後、審議会は再開に漕ぎ着けている。信用関係を構築するための対策と、危機防止のメカニズムが両国間で構築され、事故の再発が防止されることに期待している。
東シナ海における測量船の行動を巡る中国と日本の間の紛争は自由航行の原則に関連する問題ではなく、大陸棚の境界の問題である。最近の摩擦は、日本が自国の排他的経済水域の内側であると主張する海域で、近年中国の調査船の活動が活発化したことを受けて日本が反発したものである。日本としては、自国の排他的経済水域に入る場合には、事前に通告することを中国の海洋観測船に対して求めたい意向である。一方中国は、日本が一方的に宣言した排他的経済水域を認める必要はなく、自らの行動は国際法上なんら問題はないと主張している。しかし、中国政府はのちに融和的な姿勢に転じ、調査船が紛争中の海域に入る場合は互いに通告しあうということで日本との妥協を計った。2001年12月に、不審船を追跡中の海上自衛隊の軍艦数隻が中国の排他的経済水域に侵入し、最終的には中国政府への通達なしに爆撃によってこれを撃沈した。これは中国の主権的権利の侵害である。のちに両国は対話を通じて合意に達した。日本は中国の排他的経済水域における同国の主権的権利および管轄権を尊重することに合意し、中国は日本が所定の手続きを経たのち、撃沈した船を引き上げることに合意した。この件は、交渉によって紛争が解決した事例として挙げることができる。
一部の日本国民は、台湾海峡を挟んだ両者間で統一が実現した場合に中国が太平洋に直接覆いかぶさって、日本の生命線である南シナ海を通ってインド洋から中近東へ抜けるルートと、東シナ海から日本海を通って太平洋、米国およびカナダの西海岸へと抜ける2つの国際海上交通路(SLOCS)が脅威にされされるのではないかと心配している。しかし、これには全く根拠がない。統一後の中国が独自の平和外交政策を変更する必要はどこにもなく、良好な隣国として平和と発展に向けて友好的かつ協力的なパートナーシップを構築して行くという、日本との間に存在する合意を変更する必要は見あたらない。通航の自由を尊重するという中国の決意を自ら破らなければならない理由は見あたらない。さらに、中国は「平和な統一と一国二制度」の政策を取っており、台湾問題の平和解決に全力を注いでいる。「一国二制度」政策の下、平和的な統一の後も台湾は独自の軍隊を維持し、中央政府は軍を台湾に駐留させないことを約束している。人民解放軍が台湾に基地を設置しないということである(平和的解決の場合)。日本の生命線への脅威という考え方は、一体どこから出てくるのであろうか。
アジア太平洋地域における平和的でかつ安全な国際的海洋秩序を構築するためのアプローチ
アジア太平洋地域の平和と安定を維持し、SLOCSの安全を確保するため、平和的で安全な海洋の国際秩序を構築する必要がある。そのためのアプローチをいくつか示しておく。
(1)機が熟するのを待って、国連の援助のもと、関係する全ての国の間で新しいラウンドの会議を発足させる。そして、領海の基線をどのようにして定義するかの原則、海洋境界線を定める場合の原則、沿岸国の主権的権利や管轄権を守りつつ航行の自由をどのようにして確保するかに関する原則など、UNCLOSの実施に関して立場の違いが明らかになった点について議論を行う。さらに、そうした議論を通じて条約に改訂や付則を加える。この新しい会議に米国の参加が必要不可欠であることは明白である。幸運にも、米国は来年内にもUNCLOSを批准することが通達されている。公式会議を開催する前にNGO参加の会議を開催することも非常に重要であり、積極的に支持、推奨されるべきである。このような場を通して意見の集約を計り、公式会議にむけて環境づくりをしてゆくべきである。
(2)海洋における主権的権利および管轄権を巡る紛争がどのように解決したかに関する総括を行い、さらに多くの紛争を解決すべく、紛争の関係国間の交渉を促進する。現段階では2つのアプローチが考えられている。一つは、二国間交渉を通じた紛争の解決で、上述のトンキン湾紛争の例などが該当する。東南アジア諸国の中にも、このようにして対話を通じて領士問題を解決した例がある。もう一つは、国際法廷の決定に従って紛争を終結させる方法である。これも、東南アジア諸国の一部にこのような紛争解決の例を見ることができる。
(3)紛争がある地域では共同探査や共同開発を採用する。当事者である沿岸国の共通の利益に基づいて、より多くの共同開発地域を設定する。先進国や多国籍巨大石油企業などが共同探査や共同開発の推進に積極的に協力することは、沿岸諸国や多国籍企業の利益になるのみならず、アジア太平洋地域全体の平和と発展にも寄与する。なお、当然のことではあるが、共同開発のためには、関係者全員の合意が必要である。
(4)海洋における主権的権利および管轄権を巡る紛争の完全または一時的な解決を計る前に、関係各国はまず、可能な限り速やかに二国間または多国間交渉を通じて信頼醸成措置を構築するべきである。1972年に米国とソ連(現在のロシア)の間で結ばれた「海上事故防止協定」(INCSEA:Incidents at Sea)は、双方の艦船が公海上でにはち合わせになる事態を防止するのに有効であることを実証した。我々はこの成功例に学び、これを見習うべきである。「南シナ海の行動宣言」(Declaration on the Code of Activities in the South China Sea)は多国間の信頼醸成措置(CBMs:Confidence Building Measures)のよい事例である。この経験から、関係した各国は東シナ海や黄海でも同様のCBMsを構築するものと予想される。
1 |
Jiefang Daily, May 29, 2001, P.4. |
2 |
Statement of PRCs Ministry of Foreign Affairs, Dec 30, Beijing Review, Jan.1, 1972, p.13. |
3 |
Mark J. Valencia, op. cit., p.47. |
4 |
Survey of International Affairs 1989, Shanghai Institute of International Studies, May 1989, p.298, 299. |
5 |
IGCG Policy Paper, Maritime Jurisdiction in the Three China Seas, Institute on Global Conflict and Cooperation, University of California, San Diego, p.15. |
6 |
Statement by the Chinese Ministry of Foreign Affairs, June 13, 1977, p.17. |
7 |
Mark J. Valencia, op. cit., p.47. |
8 |
Xinhua Monthly, Beijing, Feb 11, 1974. |
11 |
Time magazine (Chinese version), October 2001, No.70, p.101. |
12 |
Before 1990, China held the Spratly issue was related to Chinas sovereignty and could not be negotiated. |
13 |
Vice Premier Qian Qichens statement on ARF, June 1995. See Survey of International Affairs, 1996, p.242. |
14 |
Premier Zhu Rongji attended the 10+1 meeting in November 1999. See Survey of International Affairs, 2000, p.168, 333. |
15 |
Before 1999, China held that any regulation on the South China Sea would impact Chinas sovereignty and stood against ASEAN countries initiatives to draw such a code. |
15 |
Deng Xiaoping Work, Volume3, The Peoples Publishing House, Beijing, 1993, P.87. |
16 |
Beijing Review 8-14, 1995, p.22. |
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