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44歳で始めた日本舞踊が生きがいに
 戦後は戦後で、面倒見のよさを見込まれて、町会の婦人部会長や保護司、民生委員などのボランティアにも長く携わってきた。そんな光さんが、初めて自分のための時間を持ったのは、子育てが一段落した44歳のとき。子どもの頃から興味があった日本舞踊を習い始めたのである。以来56年、ひとときも休まず、踊り続けてきた。「“坂東富三仙(ふみのり)”という名前を取ったのは、60歳を過ぎてから。それからは公職はすべて退いてこの道一本。お弟子さんは多いときには40人ぐらいいたこともあったわね。今残っているのは10人ぐらいだけど、長い人はもう30年以上の付き合いなんですよ。だから、お弟子さんというよりは、もうお友達のようなもの。お稽古の合間にお茶をいただきながら、あれこれおしゃべりするのがまた楽しくって」
 そして、入れ替わり立ち替わりやってくるお弟子さんたちに教える合間を縫って、自らも身も細るほど相手を想う女心をうたった新しい曲を覚えようと、現在も師匠の元に通う。稽古は真剣そのものだという。
 「今のお師匠さんで3人めになるわね。よく50年以上も踊っていて、まだ教わることがあるのかって聞かれるんだけど、踊りというのは自分勝手なことをやってると型が崩れていくものなの。だから師匠には見てもらわないと。また、人に教わるという緊張感がいいの。人間って、いくつになっても緊張する時間がないとダメになっちゃうでしょ」
 まさにその通りだが、100歳の口からこういう言葉を発せられると、一瞬、ドキリとさせられる。それにしても、光さんがこれほどまでに踊りにひかれた理由はどこにあるのだろうか。
 「日本舞踊って、奥が深いの。型の意味を覚えて、それを自分の体で表現して観ている人にわかってもらう。それもただ動くのではダメね。心のうちに持っているものが出てきて初めて、人様を引きつけ、人様に感銘を与えられるようになると思うのよ」
 とにかく踊りのことになると、目がらんらんと輝き、話が止まらない。ついには身振り手振りを交えて、踊りのツボを伝授してくれたほど。それがまたピンと伸びた背筋といい、腰の入りっぷりといい、年齢を感じさせない軽い身のこなしだから恐れ入る。
 
昨年5月、99歳の時の発表会では「松島」を踊った
 
100歳の誕生祝いには子ども、孫、ひ孫が一堂に会した
生活訓は怒るな、転ぶな、風邪引くな
 「老いとは衰弱することではなく、成熟すること」と言ったのは、90歳を超えてなお現役の医者である聖路加国際病院理事長の日野原重明さんだが、光さんには、この言葉がピタリと当てはまる。やはり生涯現役であり続ける人たちには、共通点があるものだ。それは一つには生きがいを持っていること。そしてもう一つはたゆまぬチャレンジ精神。
 「好きな踊りを続けるために、毎朝30分は柔軟体操をやってるの。病は気からっていうでしょ。もうダメかもと思ったら、ホントにダメになっちゃうもの」
 光さんにとっては、今や踊りは命であり、生きている証そのもの。「私はね、動けなくなっても布団の中で踊ってると思うの」というから、引退はこの世を去るときと考えているのかもしれない。そうでなければ、100歳を過ぎてなお、これだけ自立した生活が送れるものではない。
 「あとは怒るな、転ぶな、風邪引くな。そして時々は、若い人とこうしておしゃべりをして、エネルギーをもらう。長生きの秘訣はそれに尽きるわね」
 そう言って、また心から楽しげな笑顔を見せた。いやいやどうして、エネルギーをいただいたのはこちらのほう。今日一日を精一杯、イキイキと生きることがいかに大切かを改めて教えてもらったように思う。ありがとう光さん!そしていつまでもお元気で。
 
踊るときはこうやって腰を落とさないとと、実演つきで解説







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