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生き方・自分流
お師匠さんはただいま100歳!
私にとって、踊ることは生きている証そのものなんです。
 
坂東流師範
板橋 光(みつ)さん(100歳)
 
 長寿化が進み、人生80年といわれる時代だが、世の中には100歳を過ぎてもなお、現役で活躍している人もいる。東京都在住の板橋光さんがまさにそうだ。日本舞踊のお師匠さんとして、今なお弟子たちに踊りを教える一方で、週に2日はバスと電車を乗り継いで稽古にも通い、修業を続けている。「70、80歳なんてまだまだ壮年」と笑い飛ばすこの100歳の日常には、元気で長生きするための処方箋がたくさん詰まっていた。
(取材・文/城石 眞紀子)
 
 果たして100歳の方に、きちんとしたインタビューができるのか。不安と期待相半ばで自宅を訪れると、着物姿に黒髪をきちんと結い上げ、薄化粧を施したきれいなおばあちゃまが正座をして迎えてくれた。
 「毎日、朝一番で化粧を済ませ、髪も自分で染めて、結ってるの。身だしなみは気にしますよ。だって、死ぬまで女ですもの」
 この年になっても、女らしさにこだわるとはさすが。おかげで年齢よりは20歳は若く見える。だが若々しさは見かけだけではない。長男夫婦と同じ屋根の下に暮らしてはいるものの、夕食を共にする以外はお互い一切干渉なし。洗濯も、掃除も、針仕事も自分ですれば、部屋に飾る季節の花も選びに出かけるという。さらに「日本舞踊の師匠」という職業まで持っているのだから、もはやあっぱれというほかない。
 「昔から、じっとしていられない性分なの。だからお休みは土日だけ。忙しくしているおかげか、風邪も数年に1回しかひかないわ。この間は、100歳の体を検査したいと大学病院の先生がお見えになったけれど、栄養も上等で、どこも悪いところはないって、お墨付きをもらったんですよ」
 ポンポンと小気味いい話しぶりといい、心身ともに実に健やか。事前の不安は、会って3分で、ものの見事に吹っ飛んだ。
現代版「まつ」ばりの良妻賢母
 光さんは明治35年2月、東京都板橋区で生誕。小学校を出るとすぐに行儀見習いにやらされ、22歳で大工の夫のもとに嫁いだ。
 「主人とは親同士が知り合いだったんだけど、見合いもしなければ、写真すらろくに見ずに一緒になったの。その頃の娘というのは、恥ずかしくて見れないのよ、人前で男の人の写真なんて。だから結婚した当初は、“ただいま”と帰ってくるから“お帰りなさい”と言ったけど、“こんにちは”と言ったら“いらっしゃいませ”と言ったかもしれないわね。だって、顔がわかんないんですから(笑)」
 まるで昨日のことのように思い出しては、「あはははは」と大きな声で笑う。夫は腕のいい大工で、結婚5年目には早くも独立。光さんはそんな夫の仕事を手伝いながら、2女3男を立派に育てあげたというから、まさに古き良き時代の良妻賢母である。その当時のエピソードとして、こんな話もしてくれた。
 「戦争の前に、村でお宮を建てることになって、主人がそれを落札したの。職人も腕のいい人ばかりが集まってくれて、何事もなく無事に建前したんだけど、石を入れる段になって、村の建築委員長を務める旦那さんが、自分に石の材料を入れさせろと言い出してね。どうもそれでひと儲けしようと思ってたみたいなんだけど、それを断ったら、腹いせにあら探しを始めたのよ。で、一番奥の柱に小さな節が入ってるのを見つけて“節があるから取り換えろ”と言ってきたの。それで主人は頭を痛めちゃって、“俺はもう死にたい”と布団をかぶって仕事に行かなくなっちゃったわけ。取り換えるといったって、お金も日にちもかかるし、仕上げれば見えなくなるような小さな節なんだから、職人さんに悪くて言えないと。でもここで私が弱気になったんじゃ困るでしょ。それで心を鬼にして、“節があったら取り換えるのは当たり前じゃないですか。第一ここで仕事を放り出したら、世間の人には腕が悪くてできなかったと思われるじゃない。そうしたら私はもう、生まれ育ったこの土地にはいられませんよ。壊してこしらえ直すか、知らない土地に夜逃げするのか、どちらかにしなさい”と言ったの。そうしたらやっとその気になって、一からやり直してね。おかげで、私は何の後ろ暗いこともなく、今も堂々とお宮にお参りに行けるんですよ」
 家の危機の際は夫を叱り飛ばすなどは、加賀百万石の礎を築いた前田利家の正室・まつばりの内助の功。どんなときでもくよくよせず、前向きであり続ける。今日の光さんがあるのは、そんな姿勢によるところもあるのかもしれない。







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