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ふれあい助け合い 東西南北
さわやかインストラクターから
 
 全国でふれあい・助け合い活動についてアドバイスを行うさわやかインストラクター。今号からはそんな皆さんから活動の状況や個別の課題、心温まるふれあいエピソードなどを寄せてもらいます。
 
5000団体の立ち上げに取り組んで
NPO法人流山ユー・アイ ネット(千葉県)代表
さわやか福祉財団草の根推進プロジェクトリーダー
米山 孝平
 
 1998年2月5日のさわやかインストラクター会議に堀田力理事長から、「2000年4月からスタートする公的介護保険制度の5年後、つまり2005年までに、公的介護のあるところに必ずふれあいボランティア活動もあるように、『全国に5000のふれあいボランティア団体の実現と、担い手1200万人の参加』を達成しよう」という方向性が示され、そして、この活動を推進するために、さわやかインストラクターを各都道府県に4名程度配置することとし、200名の養成教育を目標とする、という「ふれあい組織づくり推進大綱」が提示されました。
 97年11月に財団からこの推進大綱の担当者としてスタッフ参加の要請があり、微力ながらお引き受けした次第です。当時のさわやかインストラクターは、総勢20数名、この大きなプロジェクトに取り組むために、財団が一丸となって取り組もうとの意気込みを背景に、2005年戦略プロジェクトが船出しました。
 公的介護保険制度とふれあいボランティア活動は、まさに車の両輪であり、高齢者が人としての尊厳を保って、地域社会の中でうるおいのある老後を輝いて送るには、身体介護だけでなく、心の部分を担うふれあい活動がどうしても必要です。全国3200余の市町村に洩れなくたくさんのふれあいボランティア団体を実現すべく、各地で「地域たすけあい研修会」を開催しながら、現在では、総勢103名のさわやかインストラクターが活動しています。
 2005年までの折り返し点も過ぎたところで、これからも市民互助団体はじめ、近隣助け合い、時間通貨や地域通貨などの活用等、いろいろな形態のふれあいボランティア活動を展開しながら目標に向かって活動を進めていきたいと思います。各地で活動しているさわやかインストラクターのご健闘をお祈りします。共に頑張りましょう!
 
けんかでない建設的な議論をしよう
NPO法人 たすけ愛 京築(福岡県)
阿部 かおり
 
 山と海が近くにある行橋に越してきて、すぐに活動を始めてから8年が経とうとしています。地域を変えるのは、3者といわれ、「よそ者」「ばか者」「若者」だそうです。
 私の出身は関西なので、れっきとしたよそ者、そして、おせっかい好きな世話焼きばか者で、まだ34歳の若者? なのです。2人目の子どもが障害児なので、将来上の子が嫁に行った先の草の根団体で活動した時間を、九州にいる妹が自分の地域の団体で引き出して使うことができるという時間預託に賛同して活動し始めたのでした。その時間預託も、今は、愛情の論理で組み立てられる「時間通貨」という形でしっかりと、全国のあちらこちらで動き始めています。
 地域で活動するにあたって一番大切にしていることは、家族に軸足をおいて、おばちゃんとして地域を見渡し、地球レベルでもの申すこと。おばちゃんから見える世界はいろいろな角度で、しがらみもないので、行政の施策や福祉の仕組みの隙間がよく見えるのです。それをいかに地球レベルに持っていくかは、さわやか福祉財団からの情報や、自分のアンテナで集める「人財産」によって決まるのです。一つの出来事も、上から横から下からあらゆる角度で見ることで、気が付くことがあります。それを話し合う場合も建設的な議論にしないと意味が錯綜します。
 日本人は、争いごとを嫌う人種なのか、議論をする会議は好まないようです。けんかと議論は紙一重、相手の悪い所を感情的に指摘するとけんかになってしまいます。
 例に挙げれば、「Aさんのこういうところが嫌だからこうなったのよ」というものも、議論に置き換えて見ると「Aさんはこの件に関してはどうお考えですか」とすれば、同じことでもより建設的会話になるのではないでしょうか。ただし、ここで注意すべきは、声の大きい人の意見が正しいとは限らないということです。一人ひとりが、議論できる場をつくり出していけるかで、会の運営の方向がしっかりするかどうか決まるようです。
 行政にとって便利なNPOとしてではなく、対等な会話をしながら、地域の社会資源としてのポジションを確保することが可能になってきました。その時には偽りの剣ではなく真剣を抜いてきっちりとした議論が必要。地域を見つめた活動が、その真剣になり得るのではと考えています。
 
何も拒まず、何も求めず一生を終えたある知的障害者の方
NPO法人 さわやか徳島(徳島県)
副理事長 麻野 信子
 
 現場の活動では、忘れられない出会いがたくさんあります。こんな方の人生をご紹介したいと思います。
 その方は、2歳の時、高熱を出し、命は取り留めましたが知的障害を残しました。言葉の学習が遅れ、3歳ぐらいから障害者施設で生活するようになりましたが、敗戦直後の障害者施設はとても悲惨な状況だったと聞きました。言語的表現が十分できず声を出すたびに“うるさい”と縛られ、個室に閉じこめられるといった生活を送ったそうです。そして、声を出すことさえ抑制され、そうした生活を送っているうちに、20歳を迎えました。
 彼は、生まれて初めて性に芽生え、施設の職員を好きになりましたが、彼が女性を愛することなど、およそ理解されず彼は病気と診断されました。そして精神科病院に収容され、そこが彼の過ごす場となりました。
 病院に送られた彼は、恋の苦しさと環境の変化に死ぬほど驚き抵抗したと思います。その空しい抵抗は、保護室という暗い個室に収容される原因となりました。20歳の時に写したというただ一枚しか無い彼の写真は、とてもハンサムで背の高いすらりとした青年でしたが、彼は、そこで日光と遮断され、背中が曲がるくる病になりました。
 そして、彼は、昨年6月に60歳で永眠し、その一生を終わりました。
 彼と私とのお付き合いは、永眠する2年程前のことでした。お会いすると、とても澄んだきれいな目をした穏やかな方でした。その後月に1度ほど、好きな菓子を持って訪問しました。その施設はとてもきれいな海にある小さな島で、面会するときは連絡船で島に渡ります。そして、2年が過ぎようとしたころ、彼の容体が急に悪くなり、2か月後に永眠しました。
 死が近づき本人しか乗り越えられない峠の時期。私が身体を拭き頭を洗っていると苦しげな呼吸の合間でうっすらと目を開き、私をじっと見つめています。そして、声の出せないはずの彼が突然大声で泣きました。主治医に「この方の泣いたのを聞いたことがありますか?」と尋ねますと、40年間過ごした施設で一度も泣き声を耳にしたことが無いと。愛おしくて一緒に泣きました。
 そして、次の日、頭を洗っていると「おかあさん」と、彼が言ったように聞こえました。驚いて手を止めるともう一度「おかあさん」と・・・。確かに彼は言いました。その日から、私は、こっそりその方の「おかあさん」になりました。それから間もなく意識が無くなり、日曜日の夕方、静かに呼吸を止めました。それは、本当に静かな死でした。彼は、最後まで、何も拒むことなく、何も求めず、残した言葉は「お母さん」とただ一言。彼は、目に見えないプレゼントを山のように私に残して“さよなら”をしました。こうして彼とは2年間という短い出会いでしたが、私は、彼の生き方を尊敬し、とても愛していました。彼の一生は、戦後の日本の貧困な福祉制度の中で、社会が選択したものでしょうか。







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