5 犬の歴史と盲導犬の歴史
1. はじめに
生物は地球上の環境ときわめて密接な関係を持って存在し、自然の生態系は特定の生物が極端に増減することなく動物、植物、微生物が一定の比率を保ち平衡状態を維持しています。これは物質の環境とエネルギーの流れが順調に調和がたもたれているからです(光岡、1990)。これらの中で生活している生物の個体、ここで犬や人を例にとって考えてみますと、従来は自然の環境の下に、量や質としては十分とは言えないまでもバランスのある生活を営んでいたものを、人は文明を求め、村落や街、都市を作り、集団生活をより豊かにとすすめてきた結果、人も犬も共に自然の生態系から離れ、従来と比べて、別の見方をすれば、特殊な環境に適応しながら現在に至っていると言えるでしよう。
ここで皆さんと学んでゆく内容は、大きく分けて二つあります。一つは、今述べた地球上の生き物である人と犬が、どの様に出会いどの様に共生して来たかという事、即ち家畜化の歴史を学ぶこと、二つ目は、人を含めた環境の変化に応じて、犬が自己を保つためにどの様に適応しているか、又適応し切れていない場合どんな問題が生じるか等、解剖学・生理学・衛生学をふまえて飼育管理のポイントを学ぶことです。
2.1 犬の歴史
キーワード:生き物のあり方の全体像、人と犬、家畜である犬
2.1.1 家畜の歴史
人間の歴史の区分で旧石器時代は、氷河期をいく度か経過しなければなりませんでした。50万年余りの自然との異常にきびしい闘争であり、この長い間の苦しい時間は、人類にとって、家畜獲得にいたる素質を開く前提条件であったと考えられます。それは狩猟と採取によるその日暮らしの時代であって、人類は財産としては自分の体と家族と粗雑な石器しか持っていなかったころ。北からおしよせてくる氷河や極度に寒い気候と闘い、地上を横行していたマンモスやシベリア・サイ、オオ・カバ、野牛など巨大な動物、間氷期には剣歯虎、洞窟ライオン、縞ハイエナ、洞窟熊のような猛獣の来襲におびえ、自然洞窟に身をひそめ、飢えては荒野に出て、小動物や昆虫、植物の根や果実を採取し河川や海の魚介をあさってやっと生活し、獲物のないときは断食の生活であったと思われます。このような時代においては、人類も野獣も対等の存在であって、人類自身は野獣に対して優越感は持ち得ず、このあたりに動物や植物、自然界のものに霊魂や精霊が宿っていると信ずるアニミズムの発生の根拠があると考えられています。
旧石器時代後期には氷河が北へ後退し、氷原がなくなりツンドラ地帯となりトナカイが多くなりました。当時のクロマニヨン人は、フランス南部のドルドーニュのラ・マリ洞窟壁画などからうかがえる様は野生トナカイの群れに寄生生活を営み、彼らはトナカイを追い求め移動生活していたのではないかと思われています。彼らの住居であった洞窟の壁に彼らが狩猟の対象としていた見事な彩色の動物画からうかがえる事は、彼らがそれらの動物を注意深く観察し、その結果それらの動物の習性や行動をよく理解する事ができたということです。
この壁画は彼らの狩猟の幸を祈るためのまじないとして描かれたものとも思われます。まだ動物を馴化したり家畜化するにいたっていません。しかし彼らの注意深い観察から得られた知識や、その捕獲の経験がしだいに蓄積され、その事が後の時代になって動物の家畜化へとつながったと考えられます。例えば今日でもカナダの北部で狼が共同して野生トナカイの群れをたくみにあやつってその最後尾にいるものを捕食する様子が観られ、クロマニヨン人もこのことを観察していたに違いなく思われます。また狼が羊を捕らえることを観察した結果、この狼を馴化するようになったのではないかとも考えられます。
中石器時代に入り、石器も細石器の製作技術が発達し、温暖化により森林が発生し弓矢を使って狩猟を行い果実の採取、湖水海岸では貝類を常食し、この環境下で人間は動物の家畜化の第一歩をふみだしたと思われます。この時代には野生の羊の群れに人間は寄生生活していた事は確かで、トナカイの場合と同じくその群れの移動に伴い家畜化された犬が不離不即の関係で人類最初の家畜「犬」の登場となります(加茂儀一、1973)。
ここで家畜とは何か、とあらためてまとめてみます。家畜とは、単に野生生活から人間生活の中に移され、馴らされた動物をさしては言いませんし、又飼育中に繁殖することが出来てもこれも家畜とは言いません。家畜とは人間の生活に役立つように品種改良され飼養繁殖管理されている動物を指します。役立つ面から言うと畜産物生産、畜力利用、能力利用、愛玩、実験などに活用されています。
ただここで、視点を変えて考えてみることも大切かと思います。それは、今まで述べた流れから言いますと、一寸人間がすぐれていて家畜化された動物が劣っているかの様に思えるかもしれません。しかし、人間の都合で、飼いやすい、おとなしい動物を利用しているだけであり、又彼らの持つ力によって人間は生命を保ち得ている面を決して忘れてはならないのです。人間の都合で生物を分類する事を、「人為分類」と言いますが、家畜という言葉はその様な意味からするとその最たるものと言えるかもしれません。
生物学的分類では、系統分類又は自然分類と言い、皆さんも以前、生物の時間に習った、生物の進化の系統によった分け方です。例えばヒトとチンパンジーは最近分かれた、さかのぼればアメーバーから進化してきたのだ等々の分類の仕方です。又ここで一つ注意しておかなければならない事があります。さっき使った「進化」という言葉です。これは生物学で普通の様に使われていますがこの反対語は退化ですし、その延長線上に「下等動物」「高等動物」等と言う価値観の入った用語があるわけです。
生物学的には、人の方がバクテリアより複雑だと言えますが、複雑イコール高等というのも一方的であり、はたして生物がしだいによくなっているのか、次第に高等になっているのか、それは実際にはわかっていないのです。せいぜい「変化」あるいは「多様化」が実体にあっているといえます。今では、進化はその様な意味に使われており、進むと言う意味は含まれていないのです。これらの変化や多様化の意味の背景と成るのは、動物の
外形や解剖学的な分類だけでなく遺伝子解析による分類が導入されることにより、進化のみちのりで、一見原始的で下等にしか見えない動物が、基本的に重要な性質を支える遺伝子が、この段階でほとんど出来上がってしまっており、その基本を少しずつ変更するだけで、多様な動物が生まれている事が分かって来たという事があるからなのです(井出利憲、2002)。
2.1.2 犬の歴史
犬は系統分類からいうと哺乳類で食肉目から次の様に分けられた位置にあります(図1)。
図1 犬の系統分類上の位置
犬には200以上の種類があり、同じ種類でも、離れて異なる環境地域に長い間住む内に姿や性質も変わってきます。又人に飼われるようになった犬は人の移動と共に他の地域で数多くの種類ができるようになったのです。犬の種類に壁がなければ交雑がすすむわけです。オオカミ、コヨーテ、ジャッカルは家畜犬と交配が可能です。子犬はいずれも両親種と戻し交配も可能です(今泉吉典、2001)。
また、犬の種類を純粋に保つため、人間が管理して繁殖している種類を品種と言います。品種はもともと亜種が複雑にまざりあったものであり、系統的に分類するのはむずかしいと言われています。犬の品種は今、世界で約300あると言われています。イギリスのケンネルクラブは143品種、アメリカのケンネルクラブは146品種、日本のケンネルクラブは174品種をそれぞれ公認品種としています。日本ケンネルクラブ学術教育課・松明氏提供による2002年6月1日現在の情報に基づくものです。
犬はいつごろから人の家畜になったのでしょうか。考古学的研究によると約3万年前には人類の住居の周囲で暮らしていたようです。アラスカのユーコン地方で少なくとも20,000年前の犬の化石が発掘されており、アジアからアメリカインディアンの祖先が渡ったのは約26,000年〜28,000年前なのでアジアから犬も共に移動した可能性が強いと見られています。その他14,000年前のドイツ・オベルカッセ遺跡、12,000年前のイスラエル・ハヨニム遺跡、同じく12,000年前のイスラエル・エインマハラ遺跡からは片手を5ヶ月令の子犬の身体にのせて埋葬された女性の骨が発掘されており、同じ12,000年前のイラク・パレガモス遺跡、9,500年前のドイツ・、コニンショーベン遺跡、9,250〜7,750年前のイラク・ジャルモ遺跡、9,500年前の中国、同じく9,500年前の日本・神奈川県夏島遺跡、8,500〜6,500年前のチリ・フェル洞窟等で骨や歯が発掘されています(猪熊 泰、2001)。
エジプトでは5,300年前の王朝時代より家犬の姿が遺物に現れており、4,100年前の第11王朝の王ウアフ・アンク=インティフ2世の石碑に表された犬達はそれぞれ名前が書き添えてあります。これは今日のところ犬の名前の記された最古の例です。人間の友となった家犬に対する人々の親愛のほどは、彼らに固有の名前をつけることで表されており、又2,500年前まで浮き彫り、壁画等に表され、殊に狩猟の場面では必ずと言ってよいほど家犬の活躍が描写されています。ナイル川上流エジプト第7州の州都は後世ギリシア人にキノポリテス、即ち犬の街と呼ばれ、多くの犬のミイラが残されています(黒川哲郎、1987)。
日本では唯一、犬5頭と狩人が共にイノシシ狩りを行っている様子が銅鐸に描かれています(図2)。これは国宝として東京国立博物館に保管されているもので学名を袈裟襷文銅鐸(けさだすきもんどうたく)と言い神戸市立埋蔵文化センター所長・宮本氏の解説によりますと、この銅鐸は香川県出土大橋宅伝、弥生時代(紀元前3世紀〜紀元3世紀)の中期、±1世紀の作品と見られているとの事です。日本でも2,000年前に犬と人が、この様に共同作業が行える緊密な関係が成立していた事がうかがえるわけです。
図2 犬5頭と人がイノシシ狩りをするところ
皆さんが盲導犬と言う家畜にかかわる仕事を選択しようと、今この講義を聴いてもらっていますが、いろいろな観点からこの様に人と動物・家畜としての犬等に関して考える機会は、今後あまり無いのではないかと思います。そこで、ここに二人の著者の家畜(犬や猫など)への考え方、感じ方と、一人の盲導犬ユーザーの体験したエピソードを一部紹介して、家畜・犬の歴史について述べ、たどりついた今の結びとしたいと思います。
コンラート・ロレンツ著「人イヌにあう」より
「私は今日、朝食に揚げパンとソーセージを食べた。ソーセージもパンも揚げラードも可愛らしい子ブタのころを知っているブタからとったものである。ひとたびそうした思いが去って良心との葛藤がなくなると、私はブタについてそれ以上考えることをそっと避けてしまう。もし自分で殺さねばならない仕儀にたちいたったなら、私は、おそらく魚かせいぜいのところ心理段階でカエル程度の動物しか食べられまい。このようなやり方で殺戮の道徳的責任を避けることは、もちろん偽善的である。しかし、食用に飼っている動物に対する人間の態度は、いずれにせよ矛盾したものである。又ふつうあっという間もなく殺されてしまう日まで安楽で快適な生活を送らされ、そのあげくに食われてしまう家畜と人間の関係よりもっと悪く思えるのは、それ以外の目的で飼われている動物に対する人間の態度である。走れなくなった馬の運命は考えるだに哀れである。加えて子ウシを屠殺してしまう冷酷や、乳の最後の一滴を出しつくし、もはや借金をせずにはやっていけなくなった母ウシ自身の運命も、人と家畜の連帯のかんばしくない一面である。(略)二種類の動物だけが捕虜としてでなく人間の家庭に入りこんで強いられた奴隷の身分とは別の身分で家畜となった。イヌとネコである。事実その関心のすべてをこれほど徹底的に変えてしまった家畜はイヌ以外にはなく、イヌのすべての魅力は、その友誼の厚さと、彼が人間と結ぶ精神的連帯の強さにある。」
オーストリア人であるローレンツは医学を学び、比較解剖学と動物心理学で博士号を取得した動物行動学の草分け(1973年、行動学でノーベル賞を得た)であるローレンツのストレートな文が胸を打ちます。
二つ目はチャップマン・ピンチャーと言う英国人が自分の愛犬であるチョコレート色の雌のラブラドール・レトリーバー、ディドを飼っていたのですが、彼に言わせると、彼女の身になって考えているうちに、彼女が犬全体を代表して伝えたがっているらしい考えや意見もだんだんわかるようになったのでディドが書いておきたいと考えているであろうことを人間の言葉に翻訳した上で代筆したスタイルをとっています。前のローレンツの行動学者らしい立場からすると、ずいぶん犬に入れこんでおりこの種の本にありがちな辟易する点は全くない訳ではありませんが、動物学と植物学を学んで社会では軍需省に努めた後に記者として防犯、政治、諜報活動を取材研究してきただけあってなかなかの観察力です。ここに彼自身の言葉でつづった、「チャンプのまえがき」より一部を紹介します。
「ワインのない生活は太陽のない生活と同じとよく言われます。わたしは犬についても同じように感じます。地球上の多くの動物の中で、人と犬は、まれにみる親密な関係のもとに、何百世紀にも渡って暮らしを共にしてきました。気質のうえでも、犬ほど人に近い動物はいないと思われます。犬も人も、もともと群れて生きる動物であるため、両者の心が求めるものが似ています。だからこそ、親密な関係が成り立ち、実際に長い間うまくやってこれたのです。人間と同様、犬はつねに仲間とともにいて、触れあいや愛情を求めてやまないのです。他者から必要とされ、評価されることが人間の本性に根ざした欲求であれば、それは犬についても同じことが言えるのです。したがって、犬の行動をよく観ると逆にわれわれ自身についての多くのことが分かって来ます。例えば、孤独を愛する者もいるし、群れたがる者もいる。攻撃的な者もいるし、臆病な者もいる。人好きのする者もいるし嫌われ者もいる。怠け者もいるし、働き者もいる、等々です。人間は犬と生活を共にすると犬の行動によって学ぶことが多くあります。人間は犬の能力について認識を新たにし、さまざまな事柄を犬の視点からとらえることが出来るようになるものです。犬のきわめて率直な、だが、いくぶん皮肉で、からかい気味な態度は、人間に多くのことを教えてくれます。相互理解が必要とされるいかなる関係においても、正直であることがなによりも重要です。人間同士の関係で心から正直になれることはまず無理でも、少なくとも自分の犬に対しては正直になれるものですし、犬が表すことは、心からのものとして、人間も心から受け止めるのです。(中略)人間は姿まで作られて衣服、化粧、装飾品、髪型、体型等、又空想、読書、テレビドラマ等自分の生活がどれだけ絵そらごとに費やされているか、人間は本来の自分自身でなく、あらまほしい人物像に自分を一致させることに人生の大半を費やしているとすれば、よけいに、犬が自然のままの姿で陽だまりにすわっているだけで、それを眺め人間の心はなごむのかも知れない。」
ピンチャーが軍関係からジャーナリストとして仕事をして来たこともあってか、ローレンツとは別な面での人間の複雑さと犬の持つオネスティについて感動している様子が伝わって来ます。
そして、もう一つ、昨年2001年9月11日にニューヨーク・ワールド・トレード・センター北棟にテロによりハイジャックされた旅客機が激突した際に、実際にあった事を紹介したいと思います。視覚障害のあるコンピューター技師オアマール・エドルド・リベラさんは盲導犬である4才のラブラドール・リトリーバー、ドラドと共に、激突した階より25階下の71階にいたのです。人々が逃げまどう中、障害物をよけながら階段を下りてゆくのは不可能と感じたリベラさんは、せめてドラドだけは助けようと、リードをはずし、頭をなで、体を押し、行くように指示を与えたのでした。ドラドは階段の逃げる人々の波に消えていったのですが、その数分後、地獄の様な混乱の中から、ドラドはリベラさんのもとに戻って来ました。階段の中で同僚の女性の助けを得たリベラさんとドラドは、人々が押しのけてゆく中、注意しながら1時間かかって地上に脱出し、間もなくビルは崩壊したとの事です。もし崩壊が少し早ければ、リベラさんやご主人の元に戻って来た誠実なドラドは共に瓦礫の中に消えてしまったかも知れないのです。人間と犬の絆には胸を強くうつものがあります。
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