I 理念編
理念編では盲導犬の意義や世界の盲導犬育成団体の歴史、日本の育成団体の歴史などが中心に書かれています。また、社会福祉基礎構造改革の流れを背景に出てきた、利用者主体の考え方、苦情処理などについての記述もあります。
「盲導犬育成施設」はややもすると社会福祉事業とは別の離れたところにいると誤解されがちですが、法的にも社会福祉事業の二種事業として社会福祉事業法の中に位置づけられています。そういった意味でも盲導犬育成事業は社会福祉基礎構造改革と無縁ではいられません。
理念編を通して、歴史的背景や現状の認識を深めていただければと思います。
1. 要約
2000年3月9日、総理官邸には盲導犬事業を第二種社会福祉事業とする規定を盛り込んだ社会福祉法案の早期成立を陳情する盲導犬使用者と関係者の姿があった。それからおよそ3ヶ月後、21世紀の新しい福祉サービスの在り方を定めた社会福祉法(社会福祉事業法改称)が成立した。
また、2002年5月22日には、盲導犬、介助犬、聴導犬を身体障害者補助犬と定義し、その使用者の円滑な社会参加とこれら補助犬の健全な育成を期する身体障害者補助犬法案が成立した。ここに盲導犬関係者が長年待ち望んだ「盲導犬事業の法定化」ならびに「盲導犬使用者のアクセス権」が実現したのである。
社会福祉基礎構造改革の論議を経て導入された新しい社会福祉の理念は、「福祉サービスの提供者とそれを利用する障害者の対等な関係の構築」と「障害者の人権が守られ、円滑な社会参加ができる社会の実現」である。そのために、新たな制度や枠組みが導入されたり、あるいは導入されようとしている。これまでの経験則や知識にのみ頼っていては、実際的な業務がこなせないばかりか、時には社会の指弾を受けなければならないことになるかも知れない。盲導犬事業に関わる人々の意識改革が求められていると言えよう。
2.1 はじめに
あなたが、もし、盲導犬に関する本を調べてみたいと思い立ち、インターネットで検索すれば直ちに100冊以上ものリストを手に入れることができるだろう。ジャンルもテーマもさまざまである。ある人は「盲導犬は視覚障害者の歩行補助具の一つ」と書き、別の人は「心の友」と言う。またある人は「人と犬の深い絆の証明」と説明する。しかして、これらの本をすべて読んだ後に「盲導犬とは何か」と問われても、たぶん一言で答えることはできないであろう。盲導犬は時代により、国により、また関わる人々それぞれにおいて多様な姿を持っているのである。その多様さを見てみることにしよう。
2.2 盲導犬事業の歴史
人間と犬の長い共存の歴史において、犬が視覚障害者を誘導し歩行の援助をしたことは人々に良く知られた事実であった。ポンペイの壁画には、視覚障害者と思われる男性が犬に引かれて市場を歩く姿が描かれており、6世紀には、盲目であった聖ヘルブが白い小型犬に導かれフランス北部のブルターニュ地方を宣教して歩いたとされている。13世紀の中国絵画にも視覚障害者を導いて歩く犬が描かれ、15世紀以後は、レンブラントやゲインズボローなどの画家が犬を連れて歩く視覚障害者の絵を数多く残している。しかしながら、現在のイメージとはかなりの違いがあり、盲教育の専門家でさえ「盲人をひもで引っ張って歩くみすぼらしいのら犬」と決めつけていた。
盲導犬についての理論的考察は、1819年に刊行されたヨハン・ウィルヘルム・クライン神父(ウィーン盲学校の創設者)の盲教育に関する著作によって体系化が試みられている。彼は、その著作の中で、盲導犬の訓練は晴眼者によって行われるべきこと、適性犬種としてシェパードなどを挙げ、またハーネスに近い誘導具を考案してその使用を提唱している。
現在のように、盲導犬の訓練が合理的体系のもとでなされ、福祉事業として取り組まれるようになったのは、第1次世界大戦後のドイツにおいてであり、その主たる目的は大戦で急増した失明軍人の救済だった。1927年ごろにはドイツ国内で約4,000頭もの盲導犬が使用されたと言われている。
主だった国々の盲導犬事業の歴史を見てみよう。
2.2.1 ドイツにおける盲導犬事業の歴史
ドイツは、世界に誇る作業犬ジャーマン・シェパードを作り上げ、その繁殖や訓練において、常に世界をリードする立場にあった。
1914年に勃発した第1次世界大戦は、死傷者2,100万人という犠牲を払って終わったが、ドイツにおいても421万人が戦傷を受けたとされている。戦時中より、オルデンブルグ軍用犬協会会長でドイツ枢密院顧問官であったゲァハルト・シュターリンクは、失明軍人が急増する状況を見て、犬を盲人の誘導役として使用することを考え、1916年に盲導犬の訓練を目的とするオルデンブルグ盲導犬学校を設立した。この盲導犬学校の開設によって、近代盲導犬事業は始まったと言えよう。
この犬たちの真価は直ちに認められ、ブレスラゥにも分校が設置された。1925には、ドイツ盲人協会の事業の一部として承継されている。また、1923年には、ドイツ・シェパード犬協会がポツダムに盲導犬学校を開設、ドイツ政府もまた、ポツダムに国立盲導犬学校を設置して、毎月15頭前後の盲導犬を育成し失明軍人に給付した。このように、ドイツ国内においては訓練施設が大きく増加するにつれて、育成される盲導犬の数もまた著しく増加した。1939(昭和14)年には、日本にも4頭の犬が送られている。ドイツ国内には、一時期80ヶ所を越える施設が設置され、1927年頃には、前述したとおり4,000頭もの盲導犬が使用されていたと言われている。
現在のドイツにおける盲導犬事業は、旧西ドイツ国内に15ヶ所、旧東ドイツ国内に1ヶ所の訓練学校があり、1,200頭ほどの盲導犬が実働していると言われている。これらの学校はすべて民間もので、訓練レベルについては盲導犬使用者から不満の声も聞こえ、また学校運営に対する行政の監督もなく、盲導犬事業の創始国としては残念な状況にある。しかしながら、盲導犬は保険で取得できるという、他の国々では例を見ないシステムになっている。
第1次世界大戦後のドイツにおけるこのような盲導犬事業の成功は、スイスに滞在していた一人のアメリカ人女性を通じてアメリカに伝えられ、やがて世界的な拡がりを持つに至った。
2.2.2 アメリカ合衆国における盲導犬事業の歴史
スイスのベベイでシェパード犬の作業犬としての可能性を追求し、その繁殖と訓練に取り組んでいたアメリ力人女性、ドロシー・ハリスン・ユースティスは、1925年とその翌年にドイツの盲導犬訓練施設を視察し、盲導犬に対する評判が真実であると確信するに至った。そして、サタデー・イブニング・ポスト紙に「シーイング・アイ」と題して、盲導犬の働きやドイツ国内における盲導犬事業の進展ぶりを紹介したのである。その反響、すなわち、盲人からの「そのような犬はどのようにすれば手に入れることができるのか。」という切実な問い合わせは、彼女の予想を遥かに越えるものであったということである。
後に、彼女と共にアメリカで最初の盲導犬学校となる「シーイング・アイ」の創設に参加し、初代の専務理事となったモリス・フランク(当時19才、テネシー州ナッシュビルの保険外交員)から差し出された手紙もその中にあり、16才で失明したこと、盲導犬に興味を持っていること、アメリカでも盲導犬育成事業を進めたいこと、などが訴えられていて彼女の心を捕えたのだった。
この切実な盲導犬の要望について、ユースティス夫人は、当初盲導犬の育成と盲人の訓練をドイツの学校に委託することを計画していたが、ドイツ国内の需給状況からそれが無理であることが分かり、結局、彼女がスイスに持っていたシェパード犬訓練所「フォーチュネイト・フィールズ」(スイス・ベベイ)において、スタッフとともに自ら訓練に当たる決心をしたのだった。そして1928年4月、第1期生としてモリス・フランクを迎えいれた。同年6月、1ヶ月余の訓練を終え、アメリカ人として最初の盲導犬使用者となったモリスは、盲導犬バディ(仲間という意)を伴って帰国、たいへんな歓迎を受けた。モリスとバディは、アメリカ各地を訪ね盲導犬に対する評価を高める一方、訓練学校の創設準備に取りかかったのだった。
「シーイング・アイ」は1929年に設立され今日に至っている。70余年の歴史において幾多の試練を克服し、開設以来10,000頭を越える盲導犬を育成するなど大きな業績を挙げている。
現在、アメリカには10を越える盲導犬育成機関がある。
「ガイドドッグ・フォー・ザ・ブラインド(以下GDB)」とカリフォルニア州における盲導犬事業について取り上げてみたいと思う。GDBは、慈善事業家として知られたD.M.リナード、「シーイング・アイ」などで卓越した訓練能力を発揮したドナルド・ドナルドソン、そしてカリフォルニア州モロンビアに本拠を持つハースト財団の財務担当ロイス・メリヒューらが中心となって設立準備が進められ、1943年、ロス・ゴートの近くに訓練所を開設した。ミシシッピ川以西およびカナダを事業区域として活動している。1947年にはサンフランシコの北、約30マイルのサン・ラファエルに移転して現在に至っている。
カリフォルニア州における盲導犬事業とその歴史には、特筆すべきことがある。それは「盲導犬法」ともいうべき法律の制定である。
カリフォルニア州で盲導犬事業が開始されてから間もなく、州内に19もの盲導犬学校が乱立、訓練士の訓練技術が低下し、盲人から盲導犬と訓練学校に対する不信が増大した。これらの問題を解決するために、1945年に一つの法案が州議会に提出されたのである。「カリフォルニア州盲導犬委員会法案」で、盲導犬訓練士の免許制度を導入し、認定および登録を行うこと、訓練施設の基準を設けること等を含む盲導犬事業全般を監督することを目的とされた。この法案は、2年余の審議を経て、1947年に成立した。アメリカ合衆国内で盲導犬事業に関する法律をもつのはカリフォルニア州だけである。この法案の成立により、盲導犬学校は淘汰され、現在では3ヶ所になっている。
ユースティス夫人は、さらに英国の盲導犬事業にも大きな影響を与えている。
2.2.3 イギリスにおける盲導犬事業の歴史
サタデー・イブニング・ポスト紙に掲載されたユースティス夫人の盲導犬事業に関する紹介記事は、英国にも伝えられ大きな関心を呼び起こした。1930年には、ロンドンで英国の盲導犬事業にとって記念すべき会談が持たれた。ユースティス夫人、そして英国でも盲導犬事業を始めたいと情熱を燃やすマリエル・クルーク夫人とロザマンド・ボンド夫人との会談であった。その会談で合意された内容は、「シーイング・アイ」が訓練士を提供する一方、受け入れる英国側が事業を推進する組織と訓練施設を準備するというものだった。ユースティス夫人から派遣された訓練士は翌年の夏に着任、同年の秋には早くも第1期生を送り出している。その時の生徒の一人は、「盲導犬は、いろいろな方法で盲人に視覚そのものを与えるのに等しい。ジュディスは、“彼女”と同じ重さほどの金塊とも比較できよう。」と、盲導犬との初めての出逢いについて語っている。
この組織は、英国の唯一の盲導犬育成機関ガイドドッグス・フォー・ザ・ブラインド・アソシエーション(以下GDBA)の前身である。GDBAは、現在4,000ユニットの盲導犬と盲人に対してケアを行いながら、国内に9ヶ所の訓練センターと一つの繁殖センターを経営し、年間600頭もの盲導犬育成しており、単一の組織としては世界最大規模を誇っている。GDBAはまた、英連邦諸国の盲導犬事業にも指導員を派遣したり、犬を供給したりして大きな寄与をしている。
2.2.4 その他国々における盲導犬事業の歴史
その他の国々の歴史、あるいは現在の概要については、紙面の都合から割愛するが、国際盲導犬学校連盟のYearbookなどを参考に、各自で興味のある国々について調べてほしい。ここでは、ロシア(旧ソビエト連邦)における盲導犬事業について、簡単に触れておく。
ロシア(旧ソビエト連邦)に盲導犬訓練所が設置されたのは、1960年のことである。現在、ただ1ヶ所だけ、モスクワ近郊のコロムナ市クバプナにある。全ロシア盲人協会による運営がなされ、毎年約100頭前後が育成されている状況である。ラフ・コリー種などが使われている。
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