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第2回 「非営利活動を事業化する」
日時: 2002年11月26日 午後6時〜午後7時半
会場: 日本財団ビル2階・大会議室
講師: 増田秀暁 株式会社スワン・カフェ&ベーカリー取締役店長
  南山達郎 「香辛酒房ぱれっと」支配人
挨拶: 町田洋次 社団法人ソフト化経済センター理事長代行
司会: 井上英之 特定非営利活動法人ETIC. シニアコンサルタント
 
■社団法人ソフト化経済センター理事長代行 町田洋次 挨拶
 本日紹介します2つの事業は、大変困難なこと、「非営利活動の事業化」に挑戦された事例です。
 スワン・ベーカリーの創業者であり、ヤマト運輸の会長であった小倉昌男さんの物語『小倉昌男の福祉革命』(小学館文庫)の中に、知的障害者を雇用し、アパートに住めるぐらい自立できる給与を払うというのが小倉さんの思いであったという一節があります。
 それまで彼らは市町村が運営する小規模作業所で働いていましたが、月給は1万円程度でした。これを事業化する決心をした小倉さんは、「よくもこれほど難しいことにチャレンジしましたね」と問われ、こう答えています。「デメリットがあるから、やる気が猛然と起こった。これが起業家精神で、経営の醍醐味です。」
 この小倉さんの70歳を過ぎての挑戦に、まさしく生涯起業家としての心意気が出ていると感銘を受けました。
 私が大変尊敬する社会起業家で、非常に困難な事業に挑戦し、事業化に成功した人が、「自分がやっているのはオセロゲームである。手前の易しい白石と、向こうの端っこのとても難しい白石をひっくり返せば、真ん中は全部白になる」ということを言っていました。
 彼は、真ん中の黒石をみんな白にすることによって、彼の独創的な事業は社会に広がり、結果社会変革が成し遂げられたわけです。
 本日の2社の事例は、障害者の自立という大変困難な事業に挑戦している例です。これを知れば、何でもできそうな気持ちが起こります。話を聞き元気を取り戻しましょう。
 
井上 今、多くの企業が社会に向き始めている一方で、非営利活動がビジネスの方を向き始めている。本日お話しいただくお二方は、障害者の方を雇用した事業をされています。障害者は、一般的には弱者であり、力を持ってマーケットではすぐに働けないだろうと思われている人たちです。
 ドラッカーが、「第1の顧客」「第2の顧客」と言っていましたが、経営者として一緒に事業をやる障害者の方たち(=第1の顧客)とどうつき合っていくのか、同時に、商品を買ってもらいお金をいただく普通の人たち(=第2の顧客)と販売側の障害者の方たちのつき合い方という2点にきちんとした事業の戦略なり経営が入ってくるはずであるという視点で、実際にどんな困難を持って、またどんな喜びを持って、このお二方がやっていらっしゃるのかという話を、本日は皆さんとシェアをしたい。
 
■南山達郎「香辛酒房ぱれっと」支配人
 
ぱれっとの理念
 恵比寿駅から歩いて約2〜3分位のところで、スリランカ料理を出す居酒屋を1991年からオープンしております。設立当初から株式会社をつくりまして、知的障害の方々とともに働いています。今年4月、特定非営利活動法人の法人格を取得しまして、企業体である株式会社「ぱれっと」と、特定非営利活動法人「ぱれっと」の2つの側面を持つ「ぱれっとグループ」を運営しております。
 ぱれっとの理念はこうです。
 「ぱれっとは就労、暮らし、余暇などの生活場面において、障害のあるひとたちが直面する問題の解決を通して、すべての人たちが当たり前に暮らせる社会の実現に寄与することを目的とする。」
 ここには2つポイントがあります。まず一つが、「生活場面において障害のある人たち」、これをあえて「知的障害」というふうに頭を打たなかったこと。
 1983年から、主に知的障害の方々の余暇、就労、地域での暮らしをサポートする活動をずっと続けてきましたけれども、この時点に至って、精神障害と知的障害をあわせ持っているケース、知的障害と身体障害をあわせ持っているケース等が多々出てきたこともあり、“知的”というように分野を区切る必要はないのではないか、もっと総合的なアプローチが必要なのではないかと考えるようになった。
 そこであえて「知的障害」という表現を外し、「障害のある人たち」という形になりました。
 二つ目のポイントは、「すべての人たちが当たり前に暮らせる社会」を目指すというところ。その背景には、何が当たり前なのかという追求、働くという場合、暮らすという場合は何がそれぞれ当たり前なのだろうかという追求ということが含まれています。
 そもそも、世の中には会社という形態が働く場所として最も多い、これが当たり前である。会社、企業体としてやることによって、知的障害の人たちが会社でも働けるということを証明していかないと、彼らの就労場所の選択肢は広がっていかないということで、1990年、株式会社ぱれっとを作ったわけです。
 
「ぱれっとを支える会」−5つの拠点
 「ぱれっとを支える会」は、障害のある人たちが地域でごく当たり前の生活ができることを目指して恵比寿を拠点に、5つの団体が様々な活動を展開しています。
(1)「たまり場ぱれっと」(余暇活動の場)
 障害のある人もない人も、誰でもが集い、余暇を通して、新しい出会いを生み出します。スキー合宿やカラオケ、ゲームなどの余暇活動、多くの仲間が参加し、一緒に楽しい時間を過ごしています。
(2)「おかし屋ぱれっと」(福祉作業所・就労の場)
 知的障害のある人たちがクッキーやケーキの製造と販売を行っています。見学者も多く、養護学校から新人研修で先生が体験で来られたりします。オリジナル製品をつくる仕事に誇りを持ち、社会人として自覚を持って、日々取り組んでいます。
 多くのお客様に大変好評で、たくさんの注文をいただいています。
(3)「香辛酒房ぱれっと」(就労の場)
 企業として、障害者と健常者がともに働き、利益を追求しています。ぱれっとでは、国際交流プログラムとして、研修生を受け入れる活動を積極的に行っています。マレーシア等からやってきた研修生が店頭に立って、お弁当を従業員とともに販売したりします。
(4)「えびす・ぱれっとホーム」(グループホーム、緊急一時保護事業)
 障害のある人たちが地域の中で快適に、そして安心して暮らせるグループホームです。やすらぎの場であることを大切にし、あくまでも彼らが主体になり、心の自立と、社会人として地域での生活やつながりをつくっていくサポートを職員が行う。
 同時に、知的障害者の緊急一時保護事業を渋谷区から委託を受けて行っており、たくさんの人たちが利用しています。
(5)「ぱれっとインターナショナル・ジャパン」(国際支援事業)
 1999年、お店でスリランカ料理を出すことをきっかけにスリランカとのつながりができ、現地の障害者が働くクッキーづくりの作業所を設立しました。これは現地でNGO登録をしての国際支援です。
 
「たまり場ぱれっと」と「おかし屋ぱれっと」
 そもそも、渋谷区で教育委員会の主催事業で行われていた障害者向けの青年教室(養護学校を卒業して職場で働く人たち、渋谷区で在勤、在住の人たちを対象にして、家庭と職場の往復だけではなく、もう一つ拠点をつくることによって、仲間を増やし地域へ出ていこうという取り組み)が月に1度しかなかったため、メンバーの中からもっと地域で日常的に集える場がないだろうかということで、「たまり場ぱれっと」という構想がスタートしました。
 そこで、余暇活動以外でウイークデーには何をしようかという話をしているときに、知的障害の人たちが職場に定着できない、職場自体がないという背景が見えてきて、それならば作業所を作ろうということで、1985年に「おかし屋ぱれっと」をつくりました。
 当時、作業所が食べ物を扱うということ自体がまだあまり例がなく、親御さんからうちの子がつくったものが売れる自信がないと言われたり、衛生的にどうかと言われたりしましたが、幸いにも滑り出しから非常に順調に売り上げを伸ばし、現在クッキー及びケーキ販売で年間2,000万円強の売り上げを上げており、福祉作業所としては非常に高い給与を払っていると思います。
 
「香辛酒房ぱれっと」
 しかし、作業所という空間だけが彼らの集まる場所になっており、また同時に知的障害のある人たちだけの働く場、つまり知的障害がなければそこで働けないという事態になっていた。
 そこで、作業所でなく世の中に最も多く存在している働く場所である会社を作ろう、そこでは知的障害者だけでなく他の障害者も働ける場所ということで、1991年、「香辛酒房ぱれっと」をオープンさせた。
 当初は48席ある27坪の、恵比寿界隈にしてはとても大きなお店であったが、開店から5年目で非常に苦しい経営状態になり、やめるか続けるかどうするかということで話し合った結果、2階にあったのを、駅の近くの1階に移ろうということで、1996年、現在の地に移転し、家賃を3分の1、人件費を半分に減らし、肩の荷を少し軽くしてもう一度仕切り直しをしました。
 
知的障害者でも就労は当たり前
 知的障害者の就労場所としての社会的使命と、それから飲食店としての営利追求という2つの側面を持って経営してきたが、現在前者がもはや12年も経つ今、あまり意識の中にありません。
 7人のスタッフの内、障害を持っている従業員4名が働いているということよりも、飲食店としての経営のほうが大変で、彼らの内、一人は主任という肩書きで、中間管理職として日々ストレスをためながら、家に帰って親に「部下が働かない・・・」とこぼし、お母さんからは「何とかしてください」と抗議されたのですが、「世の企業はみんなそうなので、親がいちいち電話するのはお止めください」とお話したくらいです。
 
なぜ株式会社にしたのか
 障害者が働くという発想が、その当時は行政から助成されないとその職場は成り立たないという発想にそのままつながっていため、行政からお金が入ったとしても、100万円なら100万円の枠内、200万円なら200万円の枠内でしかその職場は運営できなかった。
 1カ月一生懸命働いても、工賃が今月は5,000円、仕事が少なかったから3,000円とか、信じられない程薄給で彼らは働いていた。これで何が自立か、彼らを守るということよりも、彼らとともに自分も生活をかけて必死に働くべきではないかという想いで企業体という形をとった。
 働いて金を稼いで食べていくというのは決して易しいことではなく、障害があってもなくてもしなければならない苦労は、人間としてしなくてはならない。障害を持っているからといって彼らは保護対象であるという考え方は全く持っていません。働ける人たち、働きたい人たちは、やはり世の中で闘って働いていくべきです。
 僕はよく従業員に、「僕は君たちのお世話をするためにここで働いているのではない」、「あなたたちが働いてくれないと、僕も生活に困る。君らも生活をかけているかもしれないが、私も生活をかけているのでしっかり働いてくれ」と厳しく接しています。
 嫌われ役に徹しながらも、お店の経営をしっかりやっていくために今闘っているところです。
 この経済状況下で飲食店の置かれている立場は、非常に厳しく、事実、私たちのお店がある恵比寿の飲み屋街は非常に激戦区で、これから12月の年末商戦を迎え非常にシビアな経営を迫られており、ぱれっとに関しては、今なお挑戦中であります。
 現在、7人のスタッフ中、4名の障害者を除くと残りの3名のうち2名はスリランカ人が働いています。日本人の専従は私一人で、必然的にお店の経営、営業、調理の一部、経理、人材育成、彼らの指導、場合によっては彼らの生活支援まですべて私の両肩にかかっています。
 せめて私がきちんと働ける内にもう1店舗はつくりたいなと思っているものですから、早いところ僕の働きをサポートしてくれる日本人スタッフを雇用しないといけないんですが、残念ながら月5万円の薄給で働いてくれるという人はあまりいないものですから、苦しい状況が今も続いているところではあります。
 
接客業を選んだ理由
 障害を持つ人とともに働くということ、また、なぜ人は働かなければならないのか、なぜ人は働きたいと思うのかということを考えたときに、働くということイコール人の役に立つことであると、あるとき感じたわけです。
 世の中に仕事として認められるものというのは、すべからく人の役に立つものであるということです。裏を返せば、人の役に立つということを感じるということが、働く意欲につながる。
 ということは、人の役に立っているという実感を持つことができる場面というのをどうやってつくれるかというのが、店、職場を経営する我々の使命と思っています。
 そういう意味で接客業は、直接お客さんに物を渡し、サービスをし、「ありがとう、おいしかったよ」、「また来たよ」と言ってもらえる、手を振れば応えてくれるという、非常にストレートな表現が返ってくるということでは、非常にわかりやすい。
 事実彼らは、お客さんが喜んでくれるからサービスをすると言っております。これが働くことの意義なのではないかと思います。







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