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[質問] スタッフは何人か。収入源は。
 
飯島 スタッフは常勤が4人、学生や若い人たちのスタッフ、非常勤の人たちを入れて20人ぐらいです。事業費ですけれども、これだけの事業ですから、とても寄附や自前だけでは無理です。かなりの部分が国土交通省や市町村の受託事業になっています。
 
[質問] 公共事業なのに行政に頼みに行かなかったのはどうしてか。
 
飯島 僕らは異端なんですよ、はっきり言って。自然保護運動ではものすごく異端、だけどどこにでも顔を出します。つながりを持っていますし、それこそダム反対運動をやっている人たちから、行政と仲良くやっている人たちまで含めて、僕はつき合いをしています。僕らのような展開は、全く異端だと思います。同じようなことをやっているところは、今ないのです。
 
[質問] どういういきさつでアサザに行き着いたのか。
 
飯島 霞ヶ浦では水質汚濁がずっと問題になっていて、汚い、危ない、臭いと、何かいじめにあっているみたいだった。そのシンボルにずっとアオコがなっていたのです。
 アオコが大発生して、このままでは霞ヶ浦は破滅しますというメッセージが市民運動の一つの原動力になっていた。
 今でも、多くの市民運動には、環境教育がそうなんですけれども、このままでは危ないから何とかしましょうという訴えが主です。それでは、結局どんどんだめになるものを、これ以上だめにならないようにしましょうというぐらいしかできない。
 何が足りないのかというと、霞ヶ浦はみんながよくない、駄目だと言うけれども、そんな霞ヶ浦にも小さな可能性があるはずだと思わない点が欠けている。
 その小さな可能性をみんなで見出して自分のものにできたら、大きな可能性にもできます。
それには、創造力が必要だし、ネットワークも必要だし、柔軟な発想も必要です。自分がそれをやって、その可能性を見出して自分のものにしていけば、それはものすごく大きな可能性になっていくのだという訴えかけがなかったのです。
 そのこと教えてくれたのがアサザです。
 よく勘違いされますが、アサザで霞ヶ浦の水をよくしようとか、再生させようとか、全然考えていない。アサザが可能性を教えてくれたから、アサザプロジェクトと言っているのです。
 湖岸線をずっと歩いて調査したのがきっかけでした。湖岸一周250キロ、それまでだれも歩いていなかったので僕は歩いたのです。みんな、車で回って、水を汲んで、ここが汚れている、汚れていないとかやっていたのですけれども、僕はとにかく湖全部、すべて見たい、感じとりたいということで、初め歩いたのです。4周ぐらい歩いたのですけれども、その中で、ふとアサザに出会った。そのときアサザ群落が大きな波を消している様子を見てピンと来た。
システムが閃いたのです。
 
[質問] 行政と企業をNPOが巻きももうとしているのか。
 
飯島 NPOという枠組みを僕は意識していません。行政という枠組みも意識してないし、とにかく私がこういう事業を進めていくときにいつも思っていることは、私は何者でもない、枠組みはないと。
 それから、環境保護運動や環境保全、環境政策とかいう枠組みを全部取っ払わなければいけない。環境保護を実現するために、環境政策の枠組みの中で幾らやったって実現するわけがないのです。そのことにみんなまだ気がついていないのです。
 
[質問] 行政と戦う姿勢は、どうやっているのか。
 
飯島 今までずっと続けてきた行政のシステムと、生活者の側、自然の生物の側がかみ合わず、ぎくしゃくしてきた。霞ヶ浦でもそれは起きていますし、私は今の社会システムでは当然だと思っている。これは当然乗り越えなくてはならない問題です。
 どう乗り越えるかというと、例えば公益というものの捉え方、それに基づいて公共事業が行われるわけですけれども、公益は、社会システムが変われば違う捉え方もできるし、今ガチガチの状態で公益を調整しているものが、ちょっと発想を変えればもっと緩やかに調整できる仕組みをつくれる可能性があるのです。
 実は、私はそれをやっているのです。このアサザプロジェクトの中で、社会の再構築をしています。今までつながらないものをつなぎ合わせながら、利害関係の調整がより緩やかにできるような、弾力を持ってできるような社会システムをつくろうとしている。その中で、公益のあり方も必ず変わってくるはずです。
 ですから、私たちがそれをやっていることが、実は国土交通省や河川局、そういった人たちにとっては、私たちが言っていることを聞かざるを得ない状況をつくり上げているわけです。
 今までだったら、この事業はだめだ、こういう問題があるから絶対にだめ、それだけで押していったわけですが、私たちには別の世界を提案できますと言ってやり合うわけです。
 僕らは、実際に新しい社会をつくりつつあります、あなた達(国土交通省)も、実際私たちと一緒に新しい事業をやっているじゃないですか、評価されているじゃないですか、新しい公共事業のあり方をみずからで体感しているじゃないですか、だから、その中でちょっと昔の公共事業を見直してみませんか、そういう状況の中で新旧がせめぎ合いをしているということです。
 
[質問] 仲間の集め方は。
 
飯島 私が考えている仲間集めですが、日曜日だとか休みの日にボランティアで参加してもらうというのでもいいですが、これでは本当の意味でこういう活動は進んでいかないだろうと思います。
 私が狙っているのは、それぞれの本業(専門分野)の中で、私たちの提供した場を活用してもらう。そこで、私たちが提案した事業理念を内部目的化して展開してくれる。それを展開することによって、環境保全機能を持った新しいビジネスを展開してもらう。そういう仲間が一番欲しい。
 企業ですと、どうしても寄附しましょうか、応援しましょうとかなるのですけれども、これは、企業にもいつも私が必ず言うことです。
 やはり事業として、理念として、戦略として、それが循環していく、展開していくというつながりの中で参加を増やしていかなければ本当に社会を変えられないと考えている。
 個人についても同じことです。今の環境問題は啓蒙主義、上から押しつける、そういうイデオロギーに基づくようなやり方で、社会の中に浸透していくようなものではないんです。一人一人の生活、ライフスタイルが問題になっているわけですし、その背景にはもっと複雑な社会システムが絡んできている。
 どうしたら事業を実現し、環境保全ができるかというと、これはもう一言で言えば、新しい生き方の中にしかないということです。それぞれの人たちが見出した新しい生き方の中にしか、それは浸透していかないということなのです。
 私たちは、多くは子供たちを対象にしていますけれども、大人も含めて、新しい生き方を見出せる場を私たちが提供できるかということです。色々な人と出会う、色々な環境と出会う、事業の展開に出会うことで、新しい生き方をそこで見出すことによってはじめて、環境保全を自分自身の中に受け入れることができる。
 
[質問] 飯島さんを突き動かす使命感の源はどこにあるのか。
 
飯島 僕は、中学生時代に水俣病を知った。東京にも住んでいて、光化学スモッグの問題にもあった。トキはすでに10羽以下に減って絶滅寸前でした。野生生物は大好きでしたから、自然を守りたいという気持ちが非常に強い少年だったんですが、そのときに色々と思い悩んで出た結論が、力ずくで壊されている自然を力ずくで守ることはできない。力ずくでない方法は何かないか。それを自分は求めていきたいと思ったんです。
 実は、個人的な話ですが、私の祖母が色々なえらい人の話を子供時代に話してくれた。その中にガンジーがいて、大英帝国と闘うときに、糸車を回したり、塩をとりにはだしで1,000キロ歩いた話を聞いた。
 その話に僕は非常に感動したんです。ものすごく強大な権力に対して、裸同然のおじいさんが、小さい粗末なコップを持って塩を海に取りにいく。みんなで糸車を屋根裏部屋から出して、くるくる回す。そこにはすごい意味があると感じた。その話を聞いて、正直言ってワクワクしたわけです。
 しかしそのことは長い間忘れていました。ところが、5年ほど前にアサザプロジェクトが動き出し、たくさんの子どもたちがアサザやヨシを湖に入って植える様子を見て、思い出したのです。おばあさんがそんなことを言っていて、僕はすごく感動したな、あのときはと。
 この時は、すごくびっくりしました。私自身がずっと忘れていましたから。そのころの子供が、おれの中でまだ生きていたんだと思いました。
 
[質問] 藤岡さん、なぜNPOでないのですか。
 
藤岡 一つには、国際協力というのが嫌なのと、ビジネスでこちらが欲しいものを相手につくってもらってという形で、ちゃんとお金をもうけてといきたい。
 もう一つは、持続可能にするために、やはりビジネスのほうがいいと思う。自分たちはNPOで活動してきたんですが、自分たち自身が持続不可能になってしまうことが多かったので、ずっと続けられる形を取りたいと思い会社にしまた。
 
[質問] 自分の思いを人に伝えて、どうやって仲間集めをしているのですか。
 
藤岡 今日、着ているTシャツが仲間と一緒にやったプロジェクトのTシャツなんです。カフェ・コタカチというプロジェクトを具体的にやりました。これはエクアドルのフニン村の私の経験をシェアしないと同じ思いまでわかってもらえないという思いがあった。
 そこで9月にコーヒーの生産者とやる会議があったのですが、そこに、日本でカフェを出店したいとか、企業に就職することに違和感を持っている人と一緒にエクアドルに行って、生産者と一緒に現地でカフェを出店しました。
 そこで、生産者の人と一緒に鉱山に登ったり、植えてあるのを見せてもらった。私たちは実際コーヒーを入れるときに色々研究した入れ方があるので、そういったことを現地の人に見せたり、日本でこういうふうに販売しているんだとか、環境のことまで考えて販売しているんだよと伝えることをやった。その中で経験をシェアした人たちが、特に今一緒にやろうとしています。
 
木下 私の場合は、常勤で学生が1人と社会人の方1人と、あとの商店街の方々は役員に就かれています。
 今回みたいな保険のようなお金を取り扱うような事業は、うちの会社だけではなくて、実行主体は全国震災対策連絡協議会を商店街で立ち上げているんです。そちらのほうでマネージメントはしているんですけれども、お金の保険的な部分の情報整理とか、企業との間はうちで取り持ってやっているので人手が足りなくなってきました。
 これから、学生を増やすことを考えていますが、それとともに、色々とノウハウを持ち、経験を持っている社会人の方にご協力をいただくというのが、非常に大きな戦力になると思います。
 
[質問] 木下さんにご質問があります。なぜ商店街単位で避難させるのか。震災になったときこそ、商店街が果たす役割は大きいと思う。そういう中で、商店街の人たちだけが避難するのは、倫理的におかしいのでないか。
 
木下 対象は商店街の周辺地域の住民です。一時避難場所に避難するのが困難なケース、例えばお年寄りの方などが対象です。
 男手は、地元で復興活動をする。特に商店街のお店が倒れるかもしれない、シャッターが壊れて物をとられてしまうかもしれないといったときに、男はみんな行きません。
 そういったときには、週末だけでも自分の両親や奥さんがいるところに休みに行く。週末利用。色々な利用方法があると思います。
 商店街の環境とかやって、ではそれはどうなんだという話がある。それを、例えば早稲田でいいますと、周辺の人口が増えました。これは地域のイメージが上がってディベロッパーが環境の町早稲田に住みませんかと言って、今マンションとかを多く建っています。建築の学会とかでは、今早稲田の地域イメージは非常に上がってきているそうです。田園調布に近い形で、新興株、上昇株として、早稲田の地域イメージが非常に上昇してきています。
 どれぐらい増えたのか。一つの小学校で3クラス分は増え、地元に3つ小学校がありますので、9クラス分増えた。たくさんの方々が地元に来た。
 そういった方々が災害時において、早稲田に住んでいたけれども、あのとき死んだらよかったなと言わせないためにも、やはりよかったねと言ってもらえるまちづくりをやっているのです。
 
[質問] 今やっている事業のみで食べているのか。一足のわらじで生活をしているのか。
 
飯島 わらじは1足です。ほかのスタッフもそうです。うちの事業は、とにかく残業、残業で、あれだけの規模、あれだけの地域を、日々活動の範囲にしておりますから、常勤の専門スタッフは、他に何かをしながらではとても無理。
 
藤岡 来年事業をやろうとしているので、今は稼いでいない。今は焙煎を覚えたいので、コーヒーを輸入している輸入業者の社長の人に頼んで焙煎の仕事をやっているのですが、それだけでは足りないので、学生時代にバイトをしていた貯金を崩したり、あと生活費を入れているんですが自宅に住まわせてもらっています。
 ただ、将来はカフェスロー1本でやっていこうと思っています。今、目指しているのは、生活の4分の3はカフェスローで稼ぎ、残りの4分の1は農業と地域通貨で食べていきたい。日曜とかに農業をやって、あと地域通貨を使って、円に依存しないで食べていきたい。
 
木下 私は1足ではいきたくないと思っています。今は、もらっている給料は、交通費プラスバイト代にちょっと毛が生えたぐらいの給料なので、バリバリ家庭教師のバイトをやっている人間より、お金はもらっていない。
 自分自身、会社ではない形でやれる活動とか、日本国内にとどまらず、同じように地域マネージメントを考えているようなヨーロッパ諸国の方々とかとも交流を持ちながら、商店街が町にどうやってコミットしていくのか、そこに住んでいてよかったというような生活環境をどうしてつくり出していくことができるのか、その事業をとことんやっていきたいと思っています。
 
井上 私の場合は、わらじをいっぱい履いています。ETICというNPOで働きながら、もともとコンサルティングの仕事をしていたので、まちづくりのコンサルティングをやったり、公共経営が専門だったので、そちらのほうで色々とやっています。
 ただ、営利企業や自治体などのサポートから手を引き、こちらのほうに少しずつシフトしていきたい。今はマーケットをつくっている段階だと思っています。
 
町田 NPOで生活できるかというのは定番問題なので、ずいぶん考えましたが、結論はそれが心配だったらNPOなんかやめなさいというものです。どんなビジネスでも最初の3年は食えません。だから、NPOで食えないのは当たり前。私が知っている一流の社会起業家は、みんなそんなことを気にしていません。未来が見えるから気にならないのでしょう。生活が心配だったらやめて、他のことをやって、一生懸命稼いでください。







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