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発想が明確で、それにふさわしい絵であればよいマンガ
 実はプロのマンガの世界にもそういうことはあるわけです。風刺マンガを描いている山藤章二さんは非常にうまい方だとされています。一方、「サザエさん」を描いた長谷川町子さんは、ご存命のころはずっと、『下手だ、もうちょっと絵が何とかならないか』と言われたんですね。それから、東海林さだおさんは、たしか早稲田大学の漫研から出た人で、絵の勉強は全くしませんでした。むしろ文学系の方がたまたま絵もちょっと描いたという感じなんです。ですから、人間の骨格とかデッサンとか、そんなものは無視して描いている。
 しかし、【デッサンとは何だ】と、日本画、洋画、イラストレーター、マンガ家、いろんな人に正面から聞くと、ずばりと答える人はあまりいません。ですから私は、それは透徹した観察力であると、(これもマンガ家流の乱暴な切り口ですが―――)ずばり!明確に言っています。
 【透徹した観察眼】ということになると、「サザエさん」も人間の機微を透徹した目で観察し、それを長谷川町子さんのそのときの画力で作品化したのだ。と、私は位置付ける。ただ一つ彼女は、朝日新聞のどの読者にも読める文字、わかる絵、わかるギャグで通したわけです。そうすることによって国民栄誉賞を受けるほどの人気作家になられたわけですね。東海林さだおさんも、サラリーマンの生活というものを透徹した目で見て、それを彼の画力で表現している。同じような作家で福地泡介さん、園山俊二さんなども、いわゆる石膏デッサンを習得された方ではないんです。それでもマンガ家はプロとして第一線に立てるんです。
 そういう作家を育てたのがサトウサンペイさんです。サトウサンペイさんは大阪の大丸の宣伝部にいらっしゃった方ですが、やはりデッサンの勉強はしてない。横山泰三さんに朝日新聞の屋上に呼び出されて、「君はデッサンがなってない、もっと勉強したまえ」とお説教されて、画塾に通ってデッサンをやったというようなことをエッセイにお書きになってます。けれども、そういうふうにやったからサトウサンペイさんの絵がもっと魅力的になったかどうかは別問題なんですね。サトウさんの何とも言えない≪ホンワカ空間の≫お色気マンガには、サトウさんのお人柄そのものが線と形に出ていて、嫌味がない。そういうマンガをお描きになっているという点において、これは頂点をきわめてると言っていいわけなんです。私の場合はそういう解釈をマンガに対してしているわけです。(まだ十分には、ご本人が納得されませんが―)
 美術的な追求ももちろん必要ですけれども、何を表現をしているか、どんな発想で描かれているか、何を伝えようとしているのかが明確で、そのアイデアに相応しい絵で表現されているものは、よいマンガだと言ってもよいのではないでしょうか。
 1コマ1コマが高いテクニックで描かれたマンガもあるんです。フランスのエンキ・ビラルさんの作品はストーリーマンガですが、1こま1こまが立派な絵画です。実にしっかり書き込んである。一見、理想的な仕上がりに見えますが、そうすると、1コマ見る毎に視線が止まっちゃうんですよ。次のこまに行くとまたじいっと見入ってしまうんですね。だから、何の物語かって言う前に、『絵』そのものに見とれてしまう。
 ところが、手塚治虫さんの絵であれば、映画のようにすうっと視線が移って行くわけですね。相当のスピードで見られるように描いているわけです。日本のマンガのよさっていうのは、読者と一体化して読者のリズムで作家も描いているから、何の抵抗もなくどんどん読み進むことができる点にあるのではないでしょうか。ですから、絵画的に大変な能力を持っていると、絵としては確かにすぐれているかもしれないですけれども、ストーリーマンガ、4こまマンガとして最高のものかどうかは、これはまた研究の余地があるわけですね。これは、私個人の意見であります。そのほかにもたくさんのご意見を持った方がいらっしゃるわけですけれども、そのたくさんの意見を持った方々のそれぞれの思いをぶつけ合う場所がなかったんですね。
 これだけ大学がたくさんあっても、マンガ文化を語り、研究することはないんです。こんなことを私が東京で言いますと、先輩は「おまえは理屈っぽいからいいマンガが描けないんだよ」って必ずおっしゃいます。「そういうことを言ってる暇があったら、1こまでもマンガを描けよ、マンガは理屈じゃないぞ」と言うんですね。しかし、これだけたくさんマンガ家がいたら、理屈ずくめの人が何人かいてもいいんです。
 京大環境学科の高月絋先生は、国際会議で環境問題について語るとき、自分の描いたマンガを発表に使用されるということです。ペンネームはハイ・ムーン。(社団法人日本漫画家協会会員)!!そうやってマンガのエッセンスを導入して、ご自分の研究とか発表とか生活の中に取り込んでいる方たちはたくさんいるわけです。
 私は、「マンガ大学」では小学生にも自信を持ってもらいたい、お母さん方にも自信を持っていただきたいと考えているので「お弟子さんでもいいから誰か講師を紹介してください」と要請されても、私自身が行くんです。なぜなら、こんな理屈をこねて教える先生は、まだ育っていないからです。それに、マンガを教えるというと、技術を教えるっていう人が90%です。描き方を教えるんですが、「描き方はもういい、耳のないキリンでよろしい」という考え方をするのは私だけかもしれない。アイデアでいきましょうという話をしてるんですけれども、それでは精華大学の学生たちはどんなふうに、“大学生らしい”ことをやってるのかという質問が当然出てこようかと思います。ほかのマンガ研究所とどこが違うのか。せっかく4年制大学でいろんなことを教えながら、それらしい成果は上がっているのか。当然それに答えなくてはなりません。
 
コンピューターで描くマンガ
 どんなことをしてるか、一つの例をもって象徴的にお話ししたいと思います。今年4月から2年生になる学生で、アメリカからの留学生パトリシア・マークリー、通称パティは、日本在学中に本国での同時多発テロ事件という衝撃的な事件に遭遇しました。すぐに帰りたくても学費ぎりぎりで来ているわけですから、遠い日本で故国の大事件を傍観するしかありません。
 私の授業の冒頭、彼女は「先生、5分ください」と言って立ち、「皆さん、あのテロ事件に対し、何か発言したくありませんか。私は何か言わずにいられません。それをマンガで表現したいと思います。でも、私の技術だけでは表現し切れませんので、みんなの中で私の意見に賛同する人は参加してください」と呼びかけました。8人の同志が集まり、「みいぃるネット」というグループを作って、テロ事件に対する発言をマンガですることになりました。毎晩10時に守衛さんが来て、「もう、帰りなさい」って言うまで描いていました。
 彼女らは、アメリカ的価値観とアジア的価値観の二つを考えました。2冊の本を作ろうというわけです。ご異論はあろうかと思いますが、太陽の国の価値観と月の国の価値観っていうのがありまして、その二つの価値観がぶつかるお話だそうで、今、印刷所に回っています。190ページぐらいと言っていました。たいへんな量であったのですが、昔はペンで絵を描いて、吹き出しの中には別に文宇を切り取り貼り込んでいたんですが、今はコンピューター上のソフトを使って、きれいにできるようになりました。ハーフトーンもこのソフトから、市販のスクリーントーンではできないような表現効果を得ることができる。そんなことがコンピューターでできてしまうとは、私の世代では【夢にも考えられなかった】ことなのです。
 それで、彼女らは自分たちの思いを、つまり【二つの価値観があるんだ】という思いをだれかに訴えたいと思いました。まず、小学生に見せようと考えました。一定期間でスケジュール通り、システマチックに作り上げる必要がある。そこで、「先生、この前見せてもらったソフト、何とかなりませんか」という注文を受けました。そのソフトが、今日この後デモンストレーションをしていただく、セルシスという会社のソフトです。今、日本のアニメーションプロダクションの現場約80%で使われている、「レタス」という有名なソフトがありますが、アニメーションだけではなくてコミックの世界にもその考え方を導入した。
 私の授業でデモをしていただいたときには、参加した学生の間から“悲鳴”が上がりました。自分たちがあんなに一生懸命勉強した技術が、こんなに簡単にコンピューターで作られてしまっていいのか、そういう反応でした。アンケートをとったら、自分は使いたくない、あくまでもケント紙にペンで描くという学生が半分いました。どっちかというと、技術面で苦労している学生は、カッターで細かく切って貼りつけるなんてことしなくても、コンピューターでやればいいじゃないかと思ったようですけれど、技術で抜きん出た人たちは、冗談じゃない、こんなのでやられてたまるかっていう気持ちがあるんですね。どっちかに偏る必要はないのですが、そういった画期的技術ができ始めたことは確かです。
 パトリシア・マークリーの国では、マンガは日本とは逆から開きますから、こまを逆に並べかえるか反転させる必要があります。反転させる技術はコンピューターの特技ですし、吹き出しを英語を入れるため横長にするのもコンピューターの特技です。
 このデモは企業宣伝だとお感じになるかもしれませんが、授業が終わった後や春休みの時間を使って、毎日10時までかかって制作するようなときには、学生たちはこのような技術力を使いたいわけですね。しかも、教室にコンピューターを並べてやっていて、Aさんが「ここまでできた」と言うと、ほかの人がのぞき込んで「そこはとった方がいいんじゃない」「そこはもっと濃くした方がいい」「爆発はもっと大きくした方が好き!」などと、互いに画面を見ながら指摘することもできるわけです。
 今、産学協力ということが言われまして、医学や工学では大学と研究所との提携がそれなりの成果を上げています。文科系、芸術系の学校と企業というのは、仮に結びつく意欲があっても、そこから成果が生まれることはなかなか見えてこないのですが、今回は昨年暮れにデモをしてから学生が自主的に作品を作る過程の中で、企業側も一つの手ごたえを感じられたと言ってくださいました。全く新しい学科である「マンガ学科」という世界でも、しっかりしたプログラムソフトを作ったら、世界中に日本のマンガが流布していって、その制作過程までが注目される状況になったときに、大変な力を発揮するのではないかと思います。これに対して、学生もいろいろ注文をつけます。タブレットを使って描いていくわけですけど、今のところケント紙にペンで描くときのような心地よさや抵抗感(手応え)があるわけでないので、私はその手に伝わる抵抗感まで再現してくれませんかと開発チームの方々に申し入れています。素人であるがゆえの非常に理不尽な要求も、マンガ研究所、企業とのつながりの中で実現してくのではないかと予測しています。
 それでは、ちょっと時間をいただいて、どんなソフトを作るかを見ていただきたいと思います。
 
―川上陽介セルシス社長によるソフトのデモンストレーション(省略)―
 
 これを私の授業でデモしたときに、学生から悲鳴が上がったと言いましたけれども、例えば一つ、集中線を描くだけでも大変な技術が要るのです。ストーリーを構築して読者に伝える過程で、直接関係ないテクニックの不足で挫折するようなことがあったわけですが、不器用で、ペン入れ作業やパースなどが、どうも上手く描けない人を、こういうシステムは救ってくれるわけです。
 
優れた読み取り能力を持つ読者がマンガを育てる
 マンガというのは、美しく描く、完成度の高い作品にすることも大事ですが、それ以上に作者は何を言いたいのか、それが本当に伝わっているかどうかが大事だ。そう考えますと、マンガは、絵でありながら、同時に文字的要素があるのではないかと考えているわけです。例えば源氏物語のような作品をマンガ化する場合でも、小説の文脈や薫りというものを阻害しない形で「絵」を描くことも理論上は可能なわけです。物語に相応しい絵が文字に伴っていれば、原作のイメージを損なわないで表現することは可能なばかりでなく、相乗効果を期待することもできるはずです。吹き出しと文字が入った絵全体が、「絵文字的」な伝達能力を持ってるんだという考え方をしています。
 現代の読み手というのは、そのこまに何がかいてあるかを読み取るだけではなくて、通常の方程式型物語であれば、数ページめくっただけで結末を読み取ってしまう。この最後はこうなるんだよということが、たくさんの物語を読んでいるとわかってしまったりする。作者は、よほど能力を持っていないと、読者の読解力、リテラシーの能力に負けてしまうようなことが起こる。
 日本のストーリーマンガがなぜ急速にここまで進展したかといえば、絵を描く能力だけではなくて、すぐれた読者、非常に厳しい読者を持っていたからだと考えます。「作者にお便りを出しましょう」とか、「今回はどの作品が一番よかったですか?」というアンケートがあって、週刊誌の発行された直後に人気がわかってしまう。編集者は、人気の落ちた作家は容赦なく切り捨てていくというすさまじい世界を作り上げることによって、どんどん日本のマンガが磨き上げられてきたと考えていいわけです。作者だけがすぐれていたからではなくて、読者も編集者もすぐれていたために、そのやり取りの中でどんどん作品が向上していったと考えるべきです。
 例えば、ピカソやミロがすばらしいといったときに、100人の鑑賞者が100通りの見方をして全く解釈が違ってしまうような鑑賞の仕方があると思いますが、マンガの場合は多少はそういうことがあったとしても、おおむね正確に物語は伝わっていく。作者が何を言おうとしていたかという、中心的なポイントは外さないということがあると思うんです。マンガという形式そのものが、非常に文字的な伝達能力を持っているというふうに考える。マンガの厳しい読み取り能力を持った人たちが表現をどんどん変えていくのです。
 皆さん、これが≪一般日刊紙の誌面を示し≫普通の新聞だというイメージがあると思います。しかし、≪タブロイド版スポーツ紙を示し≫東京の満員電車の中や、数珠繋ぎで、ほとんど人の隙間からしか向こうが見えないようなラッシュの状況の中で、キヨスクにある新聞をぱっと見たときに、今日はイチローだとか、今日は宗男だとかいう見出しが目に飛び込んでくるように作られているわけです。私は読売新聞社時代、新聞は文字で表現するものだ、文字で伝えるんだと言われ続けてきました。マンガといえども、感覚的表現のキャプションはいかんというようことを言われたんですが、今やマンガ家でなくても、そういう紙面作りですね。
 皆さんは新聞がカラー化したのがいつだったか、覚えておられるでしょうか。新聞はなかなかカラー化できませんでした。カラーに目を奪われて、文字列から伝えられる本当の姿が見えなくなるのではないかという懸念があったと思うのですが、それに踏み切ったのが産経新聞で、亡くなられた先代社長の英断によって果たされたと聞いております。大変な闘いがあった末に新聞も変化していったんですが、それは文字文化の中に映像的、感覚的な要素が色濃く取り入れられて、それで読者は直感的に今日一日のニュース、出来事、意見などを知ることができる。
 スポーツ紙の一面を見た途端に、≪スポーツ紙一面のレイアウトを示し≫これはタイガースに好意的に書いてある記事だということがわかる。タイガースがたとえ負けても、この新聞を見れば勇気づけられる内容の記事がある。偏った報道であるとか、そんなことは関係ないんです。昨日、タイガースが負けたが、ここには沈んでいる心が引き立つような記事があるんだという印が、巨大なカラー見出しにちゃんとあるわけです。
 そういったことを恐らく皆さんが無意識に読み取っておられて、ラッシュの中でお金を払って買い、満員電車の中でこうやって(折り畳んで)見ているんです。≪しぐさを見せ≫こうやって見てるわけですから、状況を読みこんだ編集と伝達の仕方というものがあって、読者とともに前向きに変化する。こうして一般紙も影響を受け、おだやかにカラー化していくわけですね。見出しの下にこんなカラー写真があるなんていう紙面は、ちょっと前までは考えられなかった。それは新聞社が変えたというよりも、【タブロイド版スポーツ紙と読者が変えていった】のだと考えています。
 今やパチンコの世界はほとんどマンガキャラで埋められておりますが、この「パチンコの新聞」に書いてある文字も色使いも≪OHPで見せる≫、今日はギャンブルをやるんだという意欲に対応するように、ぎらぎらと表現されている。これは美的であるとかけしからんとか、そういう評価の対象ではないわけですね。今日はパチンコで勝つぞという人のために編集されているわけで、そういう【欲望にストレートに応えている】わけなんですね。デザイン的、美的完成度が追求されているわけではない。
 
社会の様々な局面で役立つときがマンガ文化の根付くとき
 マンガが批判される部分を持つのは、本音や欲望を明確に、ときにストレートに伝えることに長けているからです。ですから、教育現場でマンガを取り入れるときに、どこでラインを引くのかは確かに重要な問題かと思いますけれども、【文字だけがすべてではない】ことは、繰り返し申し上げた。
 今、伊丹市美術館で武田秀雄という関西出身マンガ家の展覧会をやっています。この作家の作品は大英博物館で展示されました。マンガ作品も珍しいと思いますが、日本のマンガ家でそういうイベントをやったのは初めてだといいます。一齣マンガの世界ですけれども、『くりからもんもん(倶利迦羅紋紋)』という入れ墨をテーマにした連作で文芸春秋マンガ賞の対象になりました。昔で言うエログロナンセンスの世界なんですが、サディスティックでありエロチックであり、すさまじい内容の作品を描いているんですね。こういう世界もマンガの中にはあるということです。多摩美術大学の彫刻科を卒業した人ですから、動物や鳥の骨格を克明に描いて、それをマンガにしている。すべて大型の版画で制作されています。≪OHPで作品集の一部を映写≫
 「マンガ」と一言で言われますけれども、こういうマンガもあります。実は私もこちらの世界の作家です。手塚さんという物語マンガの天才が出現する前は、こういう一コマ・マンガがマンガであって、物語や劇画マンガはマンガではないような言われ方をした時期もあったのです。今はマンガといえばストーリーマンガであるということになっていますが、本当はもっと豊潤な内容を持った非常に幅の広い、奥の深い世界であります。
 私は、川崎市民ミュージアムに二十数年間で二十何万点も蓄えられてきたマンガ(読売國際漫画大賞の応募作がストックされている)は、世界中のマンガ家の【アイデア世界遺産】だと言い切っています。一コマ・マンガに込められているアイデアは、人間のストレートな欲望や願いを凝縮したものです。そういったものが、今までは単なるマンガ上のアイデアだったのですけども、工学とかバイオテクノロジーといったさまざまな科学技術の進展によって現実のものになろうとしている。つまり、人々のストレートな願いが思いがけないスピードでどんどん実現する時代に入ってきました。今日は、ロボット工学とかバイオテクノロジー研究に対してマンガがどう関わっているかというようなことは、お話しする時間もありません。
 京都精華大学のマンガ学科の卒業生は、マンガ作家になるだけではなくて、マンガの描ける看護士さんとして、患者さんをマンガで癒すことができるとか、自分の扱っている法律をわかりやすく描いて依頼者に説明する。またはハイ・ムーン(高月)先生のように、ご専門の環境問題を国際会議で発表するとき、自分の執筆したマンガを使うとか、ご町内でマンガのうまい奥さんのイラストが町内の回覧板に必ず載っていて、やわらかく表現されているとか、そういうさまざまな局面で社会の役立って欲しいと願っています。長者番付に載るような流行作家も大切ですが、マンガ文化が本当に社会に根付くのは、そのような卒業生が巣立ってからのことになるのかもしれません。
 私が第一線の現役作家である竹宮惠子先生に、わざわざ鎌倉から京都まで来て大学で教えてくださいと頼み込んだ、そのきっかけになったのは『エルメスの道』(中央公論社)という本です。有名な世界的ブランドであることは、説明する必要もないかと思いますが、エルメス社の社長に依頼されて会社の歴史=社史を描いたものです。竹宮さんは、ここではご自分のスタイルを抑えて、社史に徹しています。いわゆる楽しい夢のある創作マンガ物語というだけでなくて、一つの企業の社史をまとめられる能力を持った作家であれば、大学で教えたいに違いないと勝手に考えまして、鎌倉まで訪ね、是非そういうノウハウを学生に伝えてくださいとお願いしました。竹宮さんはさらに今、京都府立医大の外科医から依頼を受け、看護士さんや若いお医者さん(インターン)が手術を間違いなく進行させるために、手術現場の手順や、メスの持ち方とか、薬を間違えないように受け渡しするノウハウを克明にマンガに描くという仕事を受けています。優れた作品によって、医療現場の方々が【イメージを共有し、医療ミスの減少に資する】ためか?と想像しています。
 マンガが今まで学校の教育現場に取り入れられなかったのは、あまりにも強い伝達力があり、切れ味が鋭いものですから、どうしても性表現とか暴力表現というものばかりが目について、マイナス面だけが強調されてしまったのです。マンガは非常にわかりやすく描くことができるものだという【本質】をしっかりとらえた場合には、幅の広い展開が期待できるわけです。ですから、精華大学にちょっと変わった学科があるというだけではなく、本当のマンガの意味を正確にとらえていただいて、いろいろな大学の教科の中にマンガが取り入れられてもいいのではないか?それが小・中・高の教育現場に浸透してもいいのではないか?そういう提案をさせていただきました。どうもありがとうございました。







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