日本財団 図書館


シンポジウムなると’02
「先生もトクする教室でのマンガ・アニメの底力」
●亀井鳴門市長のあいさつ
 本日はようこそ鳴門へお越しいただきました。鳴門は渦潮に代表される、豊かで美しい自然を持つ町でございます。しかし鳴門は渦潮だけではございません。学術、芸術の盛んな町でもあります。よく年末に演奏されているべートーベンの第九が日本で初めて演奏された土地で、6月1日を「第九の日」と定めまして、全国からたくさんの方々が演奏会に参加していただいております。また、大塚国際美術館という世界でも類のない陶板美術館がございまして、世界の名画1、074点が原寸大で再現をされております。
 今回のシンポジウムは、マンガ、アニメがテーマでございます。日本のマンガ、アニメは世界でも高い芸術性が認められており、最近のベルリン映画祭では「千と千尋の神隠し」が金熊賞に輝きました。ベネチア、カンヌ、ベルリンの三大映画祭でアニメ作品がグランプリを獲得したのは初めてだそうです。
 このようななかにあって、マンガ、アニメの持つ想像力、表現力を学習の場に活かそうというシンポジウムが鳴門教育大学で開催されますことは、私どもにとりましても大きな喜びでございます。今、教育界、教育の問題が大きな課題となってきておりますが、こうした中にありまして教育の場でマンガがどのように活かされていくのか、教育の場で議論をされるというのは、非常に珍しいとお聞きいたしております。
 今日は各分野から専門の方々がお越しをいただいておりまして、楽しいシンポジウムになるのではないかと期待いたしております。本日のシンポジウムが大きな成果を上げられますことを心からご期待申し上げる次第でございます。
 
●溝上鳴門教育大学学長のあいさつ
 本学は、昭和56年(1981年)に創立され、平成13年に20周年を迎え、大きな節目を迎えているところでございます。その第一歩としまして、このような立派なシンポジウムを開催していただきますことは、我々の今後の発展にとりましても大きなメルクマールになると思います。
 本学は、教育大学として創立され、教員養成はもちろん、教員の再教育についても力を入れている大学でございます。本日取り上げられる、マンガ、アニメを授業に活かすということは、我々の当面の重要な教育課題であると考えております。
 折しも今年4月から学校完全週5日制が実施され、新しい指導要領も実施されるという、いわば教育の転換の世紀に入ったわけでございます。これから我々としても、新しい教育を作っていかなければならない立場にあるわけです。
 町の本屋さんに行きましてもマンガがずらりと並んでおりますし、子供も非常にマンガ、アニメを愛好しているという実態を見過ごすことはできない、やはり教育のなかに活かしていかなければいけないということは明らかでございます。
 新しい教育の中で一番大切なのは、よい授業を作ることではないかと思います。いろいろな機構の問題、子供の生徒指導上の問題が出ておりますが、結局は授業がわからないことに起因していることが多いように思います。教師はよい授業を作ることに専念しなければならないわけでございますが、よい授業とはいったい何かということになりますと、いろいろあろうかと思います。楽しい授業であるとか、わかる授業であるとか言われるわけですが、何よりも子供が主体になって、自分で勉強し続ける力をつけていくことが非常に重要になるわけであります。その手段として、子供の表現力はすばらしいものがあるわけで、自由な発想の中で具体的に表現をするということになれば、彼らが親しみ自ら創作するマンガやアニメから授業を展開してもいいのではないかと思われるわけです。
 本日このような企画をしていただきました東京財団の方々、また大きな力をもってご支援をいただきました鳴門市市長を初め当局に対して厚く御礼を申し上げ、この会が新しい教育の世紀を開く立派な会になりますことを心から念願をいたしまして、私のあいさつにかえさせていただきたいと思います。
 
●第1部 牧野圭一・京都精華大学教授 「発想法を中心としたマンガ教育」
要点
・マンガは自分の思想と表現技術がマッチしたときに、それなりの作品ができるんだという考え方に立つと、技術ばかり教えるよりも、その発想法に着目した方がいい。
・今持っている描ける力でアイデアが伝わればいいというように考えたときには、マンガは大変な威力を発揮する。プロ級のテクニックの人と、初心者が、一緒の土俵で争うことができ、どちらが笑いをとるか、ユーモアを感じさせるということになると、勝負はわからない。
・「サザエさん」を描いた長谷川町子氏は、もうすこし絵が何とかならないかと言われた。しかし長谷川町子氏は人間の機微を透徹した目で観察し、そのときの画力で作品化した。そして朝日新聞のどの読者にも読める文字、わかる絵、わかるギャグで通した。そうすることによって国民栄誉賞を受けるほどの人気作家になった。
・マンガというのは、美しく描く、完成度の高い作品にすることも大事だが、それ以上に作者は何を言いたいのか、それが本当に伝わっているかどうかが大事である。そのように考えると、マンガは、絵でありながら、同時に文学的な要素がある。
・日本のストーリーマンガがなぜ急速にここまで進展したかといえば、絵を描く能力だけではなくて、すぐれた読者、非常に厳しい読者を持っていたからだ。そのような視覚的な読み取り能力を持った人たちの存在が表現をどんどん変えていく。
・マンガが批判される部分を持つのは、本音を伝えることに非常に長けているからだ。だから、教育現場でマンガを取り入れるときに、どこでラインを引くのかは重要な問題となる。
・しかしマンガはさまざまなことを非常にわかりやすく描くことができるものだという側面をしっかりとらえた場合には、幅の広い展開が創造できる。
・今、竹宮惠子氏は、京都府の医大から看護婦や若い医師が手術を間違いなく進行させるために、手術現場の手順や、メスの持ち方や薬を間違えないようにするノウハウを克明にマンガに描くという仕事を受けている。
・今後は、マンガの意味を正確にとらえて、いろいろな教科の中にマンガが取り入れられてもいいのではないか、
 
画期的なマンガ学科
 京都精華大学の牧野です。もともとは読売新聞に籍を置いて15年間、政治マンガを描いていました。田中角栄さんが総理のころからずっとやっていて、その間、読売国際漫画大賞とかユーモア広告大賞というようなマンガ・ユーモアに関わる企画をしました。15年終わったところで、京都精華大学の美術学部デザイン科のマンガコースで一齣風刺マンガの評価をしなさいということになって、東京から新幹線で行ったり来たりしているわけなんですね。
 初めのうちはカートゥーン(一コマ・マンガ)でよかったのですが、そのうちに、今の時代は1枚マンガだけではなくストーリーマンガ、いわゆるコミックが全盛ではないか、コミックの学科を立ち上げることができないだろうかという話になりました。マンガが出版文化の4割とか5割とかいうシェアを占めながら、大学の中に文学と同じようにマンガを研究する学科を持つところは一つもなかったわけです。今に至りましても京都精華大学にあるだけです。
 昨年、美術学部を芸術学部にしまして、マンガコースはマンガ学科に昇格しました。これは画期的なことで、スタート時、少女マンガ作家の竹宮惠子さんが最初の授業を始めた頃には、報道面でも、教室にテレビ局が同時に二つも入ったりする過熱ぶりでした。先生と学生の間をカメラが行ったり来たりしたものですから、学生から顰蹙を買うというようなことまで起こりました。それくらいコミックの授業は珍しく、注目されたわけです。
 ところが、お隣の韓国では、マンガを単なるお楽しみの印刷媒体として捉えるだけではなく、ゲームソフトとかグッズとか、そのほかレジャーランドに象徴されるようなマンガを産業として扱うという視点に立ち、大統領以下、政府、財界もバックアップしています。今は数え方によっては40、控え目に見ても20くらいの大学にマンガコースがあるということです。韓国から精華大学に留学してきている韓国の学生もたくさんいます。日本語の講義を受けられるように日本語をマスターして、それからマンガを学ぶのですから、韓国に戻ったらマンガ家になろうとか、マンガ担当の大学教授になろうとか、そういう目的意識をはっきり持った学生たちが集っています。
 精華大学でストーリーマンガを取り上げたのは昨年2000年からです。今、1年生と2年生がいるわけですね。1クラス40人ですから、80人がストーリーマンガ・コースにおりまして、カートゥーンマンガの方は1クラス20人で、4学年そろっても80人ということですね。これをマンガ家たちに言いますと、大学でマンガは教えられないでしょう、マンガはプロダクションに入って習ったらいいじゃないですか、それから専門学校があるでしょう!なぜ大学でマンガを学ぶのか、教えるのか、それだけの人数の学生がみんなマンガ家になるのですかと、矢継ぎ早に定番の質問が飛んできます。
 京都精華大学のマンガ学科は10倍を超える倍率で、すぐれた学生さんたちが集まっています。韓国、中国、台湾からも留学生が来ておりますけれども、最近ではアメリカからも1人、ブラジルからの国費留学生も来るというようなことで、内外の注目を浴びてるわけです。非常にすぐれた学生たちが一堂に集まって覇を競うというか、技術の競争、表現内容の競争をしておりますので、ここから従来のいわゆるプロダクションから生まれる作家、独学でスタートする作家という形ではない、全く新しいマンガ作家、プロデューサーといった人々が巣立つのではないかと期待しております。
 では、その学生たちはどんなことをしてるかといいますと、昨年入ってきた1年生は、4月に入学式を済ませ、5月末にはもう、本を1冊作ってしまったんです。約1カ月半で本を作って、それを五月祭という学園祭で売る。先生がこう作りなさいと言わなくても、中・高校時代から作っていて、精華に入ったらクラスで本を作ろうと計画して入ってきますから、入学式の日にみんなで作ろうと呼びかけて、1カ月で描いて、製本して、五月祭に売るというようなことをしてしまうんですね。そういう能力を持っています。
 無論、大学ですからデッサンも教えます。それから小学館で長年編集に携わってこられた山本順也氏も教師です。教授と呼ばせないで編集長と呼びなさいなんて威張っているんですが、東京の出版社が引っ越してきたようなものですから、企画、制作、編集などのシステムを一貫して教えることができるわけなんですね。
 もちろんこれからどんどんグレードを上げて、表現技術とか内容を充実させてゆきます。マンガは、その時その時の自分の感性をストレートに表現することが可能です。ですから、プロ作家としての「完成度」という高いレベルの評価基準はあるのですが、「絵」だけを切りとって見れば未完成でも、1年生の感性で書いたものが1年生なりの技術とバランスしたときには、それなりの成果物なんだ、それなりの完成度なんだと、私は評価をしています。1年生らしい表現と内容はそれなりに評価してあげて、最初から発表すること、場合によっては値段をつけて売ることまで許可しているわけなんですね。そのほかにも新聞社から「正月紙面カラーページ見開き」の注文などを受けるとか、臨床心理学者の個人的要請によるマンガ小冊子を手がけるとか、さまざまな形の仕事がありまして、それは授業に大きく差し支えない限り許可するというような形をとっています。授業をし、基礎勉強をしながら実作し、どんどん発表していくというような教え方になっているわけです。
 今日の演題にありますけれども、私は「発想」を重視しようと考えています。一昨年でしたか、1年生の最初の授業で携帯が鳴る。3時間続く実習授業でしたから、やや大目に見ていたんですね。『オイオイ、誰のケータイなんだ?鳴っているよ!』と。学生がちょっと教室の外で話をしていて、帰ってきたら「先生!私、今デビューしました」って。結局は半年後に退学して、今は東京に行って制作しているということですが、それなりの発想をして編集者に認められたときには、即、デビューしていく。この徳島が郷里の竹宮惠子さんも、大学在学中にスカウトされて作家になってしまったのです。同じ“絵”なんですけれども、ほかの表現分野、日本画、洋画など、基礎勉強を積んで、修業を積んで、画商さんがついて、その後に成功していくというような分野とちょっと違っている。
 自分の考えていることと表現技術がマッチしたときには、それなりの作品ができるんだという考え方に立ちますと、技術ばかり教えるよりも、その発想法に着目した方がいいのではないかというのが私の基本的な考え方です。
 
アイデアが伝わればいいのが、マンガの楽しさ
 昨年の夏休みに3日間、滋賀県草津市の笠縫公民館というところで、親子ふれあいマンガ大学という教室を開きました。中学・高校生もいましたが、主に小学生とその親御さんが参加されました。『3日間で必ずマンガが描けるようにします』と最初に宣言をして授業を始めたんです。具体的には、まず皆に『ペンギンが携帯電話をかけているところを1こま目で想像し、絵に描いて下さい』続いて『じゃあ2こま目に、それはどうなったでしょう?何を話していたでしょう?さあ描きましょう!』と言って、20分〜30分ぐらいで描ける課題を出します。小学生も高校生も、お母さん、お父さんも一緒ですし、その公民館と京都精華大学の私の研究室をファックスでつないで、同じ課題を大学生にもやってもらいました。
 私は、立命館大学の紀要に、「マンガの上手、下手とは一体何であるか、何をもって評価するか」というテーマで論文を書きまして、その中にこの教室の成果を取り上げました。≪OHPで作品を写しながら≫川本綾音ちゃん=小学校4年生の答えは、駄じゃれです。ペンギンさんは、“タイの形”をした“ケータイ”電話をかけているのです。お母さん世代になるとどういうことを考えるか?息子が東京か大阪の動物園に行ってるわけですが、南極にいる夫婦が、『元気にしているか?』と電話をしています。単身赴任の作品もある。南極のお母さんが出稼ぎに行ってるお父さんに電話しているのもいくつかあった。大人はそういう発想をするんですね。
 ところが、こういう作品もあります。携帯電話をかけてる白いペンギンがなぜか怒っている。『もう!!だからさあ、くどいなあ!!』っていう表情で怒っています。なぜ怒っているかという理由が2コマ目に出てくるんですけど、『白に染めてるのよ!オバQじゃないってば!!』と怒ってるわけです。このペンギン、真っ白に染めたもんですから、オバQに間違えられてるんですね。側で親子連れが見ていて、『まったく今どきの若い娘は白く塗っちゃって!!』とお母さんは怒っているし、子どもは『ママ怖い!!』。お兄ちゃんペンギンはヒューって口笛を吹いている。これは福富ゆかりさんというお母さんの作品です。
 そこで、このマンガは下手か上手かという問題です。“白塗りのペンギン”という表現は、先生にペンギンを描きなさいと言われて、≪手抜き≫で黒く塗るのをやめたのかどうか?1コマ目ではわからないですね。たばこを吸って、ちょっとななめに構えている娘だなあというのはわかるんですけども。それが2コマ目で、これは手抜きでなくてオバQ型のペンギンを表現してるということがわかるわけです。そうすると、こういうアイデアの場合には、この絵が、“このアイデアにぴったり”合っているという言い方もできるわけです。これをイラストレーターが「上手」に描いてしまうと、せっかくのおもしろい味が消えてしまうかもしれないですね。
 『いや違う、やっぱり絵はうまくなくちゃいけない』という方もいらっしゃるかもしれませんけれども、マンガの楽しさというのは、ちょっと落書き風で伝わればいいんです。「あなたの今、もてる力、描ける力でそのアイデアが伝わればいいんですよ」と考えた場合には、マンガは大変な威力を発揮します。小学生も、お父さん、お母さん、もっと高齢の方々も、同じ課題に答えることができるのです。プロ級のテクニックの方と、よくわからないけどペンギンみたいだなあ!という絵しかかけない人とが、一緒の土俵で争うことができて、どっちが笑いをとるか、どっちがユーモアを感じさせるということになると、勝負はわからない。
 
 その日は暑い日でしたから、こういう課題も出しました。『キリンさんが暑がっています。なぜ暑いのでしょうか?』1コマ目は「暑い、暑い」言ってるキリンを描きます。
 ≪OHP映写≫小学校2年生の久美子ちゃんのキリンは、耳がないけれど、首が長くて横じまがあります。なぜ暑いかというと、「太陽がいっぱいだから暑い」と表現しました。このときに、耳がなくて横じまのキリンだからおもしろいと思うか、もっと上手に描かなきゃいけないと思うのか?太陽がいっぱいあって暑いというアイデアだから、こういうキリンでもいいんじゃないかと考えたらいかがでしょうか。しかもハンカチを見ると、「暑い、暑い」という模様がかいてある。これは小学校2年生らしいアイデアだと評価してあげたらいかがでしょう。私は、そこではそうゆう気持ちで褒めました。
 久美子ちゃんのお母さんのキリンにも耳がありませんが、模様はちょっと水玉になっていまして、首にはネッカチーフをしています。なぜ暑いのかというと、日焼けサロンに行っていたから。キリンの特徴であるシマが消えて、真っ黒の黒キリンになっているわけです。テクニックは2年生とお母さんとそう違わないですが、少なくともキリンだということはわかる。暑がってることは汗によって表現されていますし、はっきり文字で「暑い」と言わせている。これが日本画やほかのイラストだと、吹き出しなしで暑さを表現しなさいと言うことでしょう。マンガはそうじゃない。暑かったら「暑い」と言えばいいし、ハンカチに「暑い、暑い」と書いてあればいいんです。なりふり構わず!「暑い」ことを伝えるのにルールはないんです。キリンが暑がってることを、お母さんはお母さんらしく、2年生は2年生らしく描きました。
 これがプロ級になるとどうでしょうか。絵画教室を開いている、真藤さんというお母さんの描いたキリンは、ちゃんと耳があって、キリンらしい模様が描いてあって、「暑い」と書いてなくても暑さがわかるように舌をだらりと出して、一角は垂れています。2コマ目には、ほかのものとは明らかに違う発想の飛躍があります。「銀河首の長いキリン」です。単に長いんじゃなく、大気圏から太陽に近づいてるくらい首の長いキリンです。もう救いがたいほど長いんですね。「やつを救えるものなどもう何もない」と書いてあります。太陽と地球、大気圏という環境を描く能力を持っています。そして、1コマ目と2コマ目の間に非常に大きな飛躍がある。「マンガはそんなにたくさん書いたことありません」とおっしゃってましたが、これは国際マンガ賞コンクールに出してもいいほどの、高いレベルの作品だと私は評価しました。
 それで、草津市のほかの公民館から同様の授業をやってくれませんかと依頼があったとき、私は真藤さんに先生になってもらいなさいと言いました。私が3日間教えて、ほかの公民館で今度は真藤さんが先生をなさるわけです。「絵の描き方」を教えるとなると、3日間で上手になることはできません。しかし、3日間で「考え方」を教えることはできるわけですね。
 今はもういないでしょうが、私が20代、30代のころですと、こんな課題を出せば、『ペンギンが携帯電話をかけるわけがないだろう!』って怒る人がいたんですよ。それから、宇宙は真空だからキリンは息ができないんだよとか、星は大気を通して見るからきらきら光るのであって宇宙空間では点になるのだとか、そういうことをおっしゃる方がおられました。それは、つまりマンガの読み取り能力がないわけですね。発想の飛躍についていけないということなんです。ハンカチに暑い、暑いとかいてあったり、太陽がたくさんあったり、そういう感覚的な表現に対しては、それなりの読み取り能力が要求されるわけなんです。
 そういうことを先生側が否定しないで、「うん、君が言ってるのよくわかるよ、こういう感じだよねえ」と。キリンに耳がないなんていうことを指摘しないで、今度動物園に行ったら頭に何かあったかちょっと見てみようか」というように2年生に言ってあげれば、キリンには角のほかに耳がついているんだっていうことを認識するかもしれないし、「模様はこういうんだったかなあ」と問いかけてあげれば、ちゃんと描くかもしれません。いや、もっと進んでる子は、「先生、そんなことは知ってるよ、だけど私は横しまのキリンの方がよかったんだ」と言うかもしれません。
 マンガの技術ももちろん教えるけれども、それは短期間で上達するものではありません。少なくとも3日間の公民館の授業で、ペンの使い方とか、ケント紙を使って、手はこんなふうに走らせなさいみたいなことを仮に教えたとしても、その成果は限られているわけですが、マンガの考え方、評価の仕方ということに重点を置いて教えた場合には、劇的な効果があるとお考えいただいていい。







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