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反響
大森 敬太(琉球大学医学部6年)
 沖縄の夏は暑い。日陰に入ると風がおこり、涼をとる。日のあたる場所にも風は吹き抜けているはずなのに、気がつかなかった。
 Sabanaに向かうバスの中に漂いはじめた窓からにじみ込む臭いは、バスから降りるとはっきりとした異臭になった。
 一時間後、子供たちが歌い、僕らも歌い、子供たちの中に僕らは入っていき、おしゃべりし、笑いあい別れた一時間後、臭いは無かった。
 
 存在自体はそこにある。それでも無いと感じたものが、あったことを知り、また、あると感じたものが、無かったと知る。
 何を感じ、何を知るかは僕のものなんだ。そして、その時自分が何者であったかを知る。
 ここで、新しいスタートラインに立つ。
 
 いまここから、楽しみながら、よちよち歩きで進んでいこう。
 存在はそこにあるのだから。
 
 11日間という短期間であったが、泉ヘッドコーチの下、僕らはいいチームになった。ここを原点に、Fullbackとしてこれからのみんなの背中、そして自分の背中を見ていきたい。
 さあ、いい試合にしようぜ!
 
 最後に、このフェローシップに参加できることが決まって以来、僕の拙い英語力を引っ張り上げるために多くの時間とアルコールを消費してくれたラグビー部の後輩T.I.と、同級生カズ・ジェイダ夫妻に深く感謝したい。
 ありがとう。
 
渦の中から
千田 礼子(防衛医科大学校6年)
 幸運にも、この国際保健協力フィールドワークフェローシップ(以下、フェロー)に参加させていただいてから数週間が経ちます。
 フィリピンから帰国した後、しばらく飽和状態が続き、この11日間に関することは大切な友人たちにさえ、何も語ることが出来ませんでした。それどころか、語らなければならない状況に置かれることを恐れ、なるべく知り合いに会わずに済むよう寮の自室に閉じこもったり、よく知らない街を用もないのにふらふらと歩き回ったりしていました。
 
 そもそもフェローに参加しようと思った理由は、それほど確固としたものではありませんでした。しかし、幼い頃に抱いた人生の最大の目標(アジアやアフリカの人たちの笑顔を増やすために自分自身を活かすこと)を踏まえると、医師になろう、この大学で学ぼう(総合臨床医になるための勉強ができる上に、PKOという形態で世界に貢献できると考えました)などと決意したのと同様に、今回のフェローへの応募は自分自身にとってはごく自然な選択でした。
 
 自己実現のため、学生時代に何をなすべきなのか?と焦り悩んだことは数知れません。けれども、結局は無駄な経験など何ひとつないのだから、その場その場でベストを尽くしていけばいいさ、と開き直り、好奇心が疼いた、それぞれの分野で今まで精いっぱい足掻いてきました。そして、それなりの成果を残してきたと自負していました。
 でも何かが、とても重要かつ致命的なものが自分には欠けているな、と微かに感じていました。それでもきっと、いろいろなことを経験していくうちに、それは自然と身についてくれるであろうと甘く考えていたのですが、その予測は見事に外れていたということを、フィリピンではっきりと思い知らされたのです。
 
 WHO西太平洋事務局長である尾身先生のレクチャーを受けている最中、自分がリーダーとして懸命に活動したにも関わらず、組織そのものはあまり上手く機能しなかったといういくつかの苦い思い出が、突然次々と脳裏に浮かび上がってきたため、その場で私は自分自身との対話をはじめてしまいました。
 もし私に、尾身先生のような吸引力があれば、ある種のカリスマ性があれば、あの時、もっと上手く仕事を進められたのではないだろうか?尾身先生のように自分に対する気負いのない自信や人望、そして、懐の広さを持ちあわせていない自分には、例えばある地域でポリオを撲滅するためのプロジェクトを打ち出したとしても、それを深刻な問題だと考えたことのないその地域の人たちから、問題解決のための意欲を十分に引き出すのは難しいのではないだろうか?ましてや、自分が思い描く理想のかたちを現実化させることなど到底不可能なのではないだろうか?
 
 問題の本質は自分の内面にありました。私に欠けているのは「適性」なのだろうか?始まりはその問いかけでした。そして、私のidentityとは何なのか、私は何処から来て何処へ行くのか、私が生きていく価値を何処に見出すのか。どんどん突き詰めていくうちに、私という人間の存在意義は全く見えなくなってしまったのです。
 
 これは土台作りを怠けて表面だけを塗り固めてきた罰だ、と思いました。笑顔を増やしたいなどと嘯きながら、怒りや憎しみを渦巻かせている日常。刻苦精励を厭わしく感じる怠慢。実力不足を露呈することへの恐怖。隠れていた全ての穢れが一挙に押し寄せてきたために、私は硬直し、身動きがとれなくなってしまいました。帰国しても悩み続けましたが、何の答えも得られないまま日々は過ぎていきました。そして、知り合いと顔をあわせることに対して、どうしようもない苦痛を感じていました。おそらくこのような情けない自分を見抜かれたくなかったのだと思います。
 
 そうしているうちに、突然私は人生で何度目かの脱皮を果たしました。しかし、今回はいつもと様相が違いました。バリバリと殻を破り、さらにぐんぐん成長していくのが常であったのに。殻を脱いだら「嘘でしょう!?」と叫びたくなる程に小さな、今までの自分の大きさからは想像も出来ないくらいに、踏み潰されそうなくらいに小さな自分が、抜け殻から這い出してきたのです。その大きさから再スタートしなければならないということにとても戸惑っているような、すっかり萎縮してしまって一歩も踏み出せずにいるような、そんな心持ちでした。
 
 再び歩き出すきっかけを最初にくれたのは、意外なことに「勉学」でした。何よりまず、地に足をつけたい!そんな切実な願いと、あと1年足らずで自分は医師になるのだという緊張感が微妙にマッチしたのかもしれません。
 フェローのメンバーからの電話やメール、掲示板の書き込みにも随分救われました。帰国してから皆のことをますます好きになりました。そう、帰ってきてからさらに深く、お互いを知り合えてきているのです。日常生活に戻ってから、何週間も経っているのに、いまだに毎日進歩し続けているこの関係って、一体何なのでしょう?私の大切な財産です。
 
 そして、自分の小さな悩みよりも、ずっとずっと大切なことをたくさん思い出しました。
 
 話し出すと、笑い出すともう止まらないバランガイヘルスワーカーの女性たち。ホセ・ロドリゲス病院内の作業場で人形作りをしていたメチャメチャ元気な女性たち。ただ元気なだけではなく、彼女たちがそれぞれの持ち場で確実に地域社会に貢献している姿に感動してしまった私。彼女たちにつられて、久し振りに豚のように顎が外れそうな程に笑い転げた私。
 
 NGO「Sabana」で、子供の権利条約の歌を歌ってくれた子供たち。その歌声を聴いて全身を震わせた私。「何故?」と問いかけたくなるほどに美しく輝く子供たちの瞳。
 
 最近ようやく、身近な人たちにフェローについて語れるようになりました。フィリピンの人たちの爆発するエネルギーと自分の内面の脆さについて、まとまりはないけれども、ゆっくりと口に出せるようになりました。そんな断片的な私の話を根気強く聴いてくれる人たちと一緒にあの11日間を追体験しているうちに、自分自身の存在を、今こうして生きている自分を徐々に確認していくことができました。今では伝えたいことが溢れて溢れて、むしろ聞いてくれる人たちを辟易させているようです。
 
 しかしながら、フィリピンで得た「本当に他の誰かに伝えたい!」と切実に願っているもやもやしたものは、なかなかうまくまとまってくれず、私はまだまだ混乱の真っ只中にいます。それでもひとつ確実にいえることは、この無数の、いままで自分が知らなかった種類のものとの「出会い」は、絶対に何にも変えようのない「私のしあわせ」そのものであり、「私が生きていく意味」そのものなのだということです。
 
 世界は私が思っていたよりも3倍広かったようです。そのスケールに驚かされる一方で、自分を掘り下げる作業に熱中してしまっていた私は、もしかしたら、本来あの場で得るべきものを手に入れないまま日本に帰ってきてしまったのかもしれません。それでも、それでいい、それが自分なのだと素直に考えられる私が今、ここにいます。そして、まだまだ数え切れないほどたくさんの、私を待ち構えているはずの「出会い」を確実に掴みとるために、ペタペタと足元を地道に固めながら大きな夢を見続けたい。私は今、そう願っています。
 
 笹川記念保健協力財団の皆様、そして全ての「出会い」に感謝!