日本財団 図書館


愛ってなんですか?
安藤 俊太郎(東京大学医学部6年)
 今回のフェローシップは本当に楽しかったと、私は心から思っている。この機会を与えてくださった全ての人々に感謝の意を表したいと思う。どうもありがとうございました。
 
§1 フェローシップの思い出
 11日間を通じて、思い出が沢山ある。忘れられないものも多い。その中で特に印象的な二つのことについて書いておこうと思う。
 
 一つは、最終日前日の昼食後のことだ。バイキング形式の昼食をとり、レストランを出てバスに乗ろうとステップを踏んだその時に、私は服を引っ張られた。驚いて見ると、服を引っ張っていたのは子供だった。汚れたTシャツとズボンを着た、痩せた男の子だった。手の平を差し出してきたその子の鋭い視線に少し恐怖を覚え、私はとっさに逃げるようにバスに乗りこんだ。席に座ると、私の座っている方と反対側の窓をコツコツと叩く音がした(私は歩道側ではなく道路側に座っていた)。さっきの男の子だった。手を口に持っていく動作、手の平を差し出す動作を繰り返す。彼は何度も窓を叩いた。「お金をあげようかな。」と私は思った。私はあまり募金、寄付といったものをしたことがなかった。インドで一度、物乞いにお金を渡したことがあるが、その時は車を囲まれたのが恐くて、早く遠くに行って欲しいという思いからお金を渡した。日本でも、自分から積極的に募金などをしたことはなかった。今回初めて、困っている人を助けよう、という動機でお金をあげようかと思った。隣に座っていた須貝さんも、彼に気づいたようだった。「小銭全部あげちゃおうかな。」と彼女は私につぶやいた。しかし、私は「そうしよう。」と彼女に言えず、私自身も結局、彼に何もあげなかった。「そんなことして目立ったらいやだな」とか「ここでお金を渡すということは良いことなのか」、「お金をあげたら、運転手とかに却って怒られるかな」とか「彼にあげたら他の子供が大挙してこのバスにやってくるかな」など、色んなことが頭を巡っていた。
 
 二つ目は、成田からの帰り道のことである。成田まで彼女が迎えに来てくれていた。その彼女と帰りの電車の中で隣同士に座り、互いに体を寄せ合った瞬間、つい先程まで体中を駆け巡っていた熱いものが、すうっと、まるで蒸気のように飛んで消えていくのを感じた。人はなぜ戦争をするのか・・・、幸せとはなにか・・・、国際協力は本当によいことなのか・・・フィリピンで考えつづけたことが、一瞬、私の頭から姿を消した。不思議な感覚だった。
 
§2 生きるとは?
 ここから先は、フェローシップを終えて今、私が考えていること、興味があることについて書きたいと思う。
 
 人はなぜ生きているのだろう。フィリピンの人たちは?アメリカ人は?これを読んでくれているあなたはなぜ生きているのですか?生きたいという動機があるから?目標があるから?
 ヒトは、生きないことを自ら選べるという意味で唯一の動物であると思う。
 私は生きることをやめたいと思わない。しかし、日々、生きるということへの渇望を感じながら生きているわけではない。何らかの目標のために生きているわけでもない。生きるためにご飯を食べているのではなく、腹が減ったからご飯を食べているのだ。つまり、本能によって生きているのだ。
 私は「〜のために生きている」といった意味づけをしたり、生き方に価値をつけたりしたくない。それは、生きることに意義や価値を与えてしまうと、どうしても社会的弱者は生きる意義や価値を失いがちになると思うからだ。たとえば、「人のために生きることは素晴らしいことだ」という風潮は、人のために生きていると感じることのできない人たちから、生きる意義を奪いかねない。「生きていること」に意味はあると思うが、「生きている意味」は無理に考えなくてもいいと思う。それよりも私は、「生きているということはそのことだけで素晴らしい」という空気の中で皆が生きていけたらいいと思う。
 比較的安全な生を送っている場合、そのこと自体に喜びを感じるのはなかなか難しいと思う。私は与えられた生をただ受け入れ、たまにはそれをかみ締め、それに幸せを感じながら生きていきたいと思う。
 
 途上国の中には、日々、付きつけられる死を乗り越え、生きている人たちがいることだろう。日々、生への欲求を確認させられている人たちがいるのだろう。途上国の人たちが生き生きとしているように感じられるとしたら、そういう側面があるのかもしれない。
 ただ、彼等の国には生きることさえもままならない人たちが沢山いる。その人たちが,「ただそれだけで素晴らしい、生きているということ」ができるように手伝い、共に生を味わうというのが、今回見学してきた国際協力であったと思う。
 
§3 生きているうえで・・・
 生きているだけで素晴らしいと私は思っているが、ここからは、私がどのように生きようかという話をしようと思う。
 私を動かす大きな力に、「興味」というものがある。国際的な仕事に携わりたいというのも、その動機は興味である。外国人への興味、外国の文化・自然への興味などである。国際的な仕事に携われば、そういったものに触れる機会を多く得られるだろうという期待があるのだ。
 私はとりわけ、外国の自然や文化に興味がある。その国の自然や文化というものは、そこにしかないものだからだ。もちろん、文化を創っているのは人であり、自然の変遷にすら人は関わっているといえる思うのだが、どちらかというと、氷河、ペンギン、オーロラ、サバンナ、砂漠、ピラミッドなど、人ではないものに私の興味は強く惹かれている。それは、「人」に対する私の考えからくるのかもしれない。
 
 私は最近まで、人は随分進化してきたと思っていた。しかし、今は本当に人が進化したのかということについて、疑問を感じるようになった。「ヒト」の本質は何も変わっていないのではないかと思い始めてきたのだ。つまり、もし私が石器時代に生まれていたら、きっとウホウホ叫びながら獣を追っていただろうと思うのだ。
 ヒトは、知識や考え方や物を残し、後世に伝えることでそれらを次々に蓄積していくことのできる特異な動物であると思う。ゆえに私は今、先祖代々の蓄積である文字やパソコンを使って、自分の考えを蓄積したいと思い、ここに書いているのだ。別に私が昔生きていた人よりも頭がよいわけではないのだ。
 そんなことを考えていると、ヒトは与えられた環境によって様々に変わるということに気づくと同時に、ヒトの本質はきっとどこの国のヒトでも変わらないのだろうと思ってしまう。アフリカ人の赤ちゃんでも、ユダヤ人の赤ちゃんでも、アメリカ人の赤ちゃんでも、日本に連れてきて、日本の母親(乳母)が育てたら、外見こそ目立つかもしれないが、きっと「日本人」のように育つのだろうと思う。使う言語も、物の考え方も。そう考えると、どこの国の人にも少しは親しみが沸くのだ。そして、色々な国の人と話せ、仲良くなれたらいいと思う。
 皆がそう考えることができたら、戦争はなくなるのだろうか・・・?
 
 私は戦争(無差別殺人)を絶対悪と定義している。そして、戦争に対する憎悪は、その様子を見たときに感じる怒りのみならず、自分の身にも降りかかるかもしれないという脅威からも起こる。もし今世界で戦争が起きたら、自分の身もどうなるか分からないという恐れがある。私は戦争(無差別殺人)によって死にたくない。
 団体の効果とは不思議なものだ。例えば、小学校でクラスの中に仲の悪い子がいたとしても、クラス対抗のイベントでは、クラス内はたいてい団結するだろう。それを通じて仲の悪かったもの同士が仲良くなることすらある。クラス・小学校という単位だけではないだろう。県・国などの構図も成り立つ。その単位は大きくなる流れにあると思う。日本/韓国・アジア、といった具合に。もしかしてどこかの星に宇宙人がいて、その星が地球に攻めてくるなどといったことがあれば、地球人は戦争などやめて一致団結するかもしれない。別の争いをもって争いを解決するという発想にはやや不満が残るが、同じ団体と認識することによって仲がよくなるという効果は応用できると思う。
 それにしても、なぜ人は戦争をするのだろう。自分がより豊かに生きるためだろうか。それとも憎しみのためだろうか。一度生まれた憎しみは、相手方の新たな憎しみを生み、増幅の一途を辿るしかないのだろうか。
 それを止める術として、今の私が思いつくのは教育である。例えば、戦争が起こった後の様子をビデオなどで見せることが、今の時代なら可能だ。もちろん和解の産む平和の尊さも含めて。愚行とよべるたいていのことは、想像力の欠如・不足に起因することは確かだと思う。想像力を補える蓄積が、今の時代にはある。
 
 幸せとはいったい何であろうか。なかなかこれといった答えが見つからない。「足るを知る」というのは、おそらく全員に共通する一つの答えだと思う。それとは別に、私なりの答えを探している。出す答えは、人によって違うのかもしれない。
 私は今、幸せの鍵を握っているのは愛であるような気がしている。幸せとは、他人を愛すること、その他人から愛されていることを分かっていること、だと思う。それは、男女の間に限ったことではない。同性(異性)の友人同士の愛、家族との愛などもまたしかりである。そして、物への愛、自分への愛よりも、他人への愛の方が人を幸せにすると私は思う。周囲の人々と愛し合いながら生きていけたらと願っている。
 
 それでは、愛とはいったい何であろう。年齢を理由に陳述を避けるのは好きではないが、これから先の経験によって、考えが変わりそうな気がする。けれど、現時点での私の考えていることも残しておこうと思う。愛とは、相手の姿・存在・行動全てを、快く肯定できること、だろうか・・・。
 フィリピンに一緒に行った仲間とまた語り合いたい。
 
§4 まとめ
 長く書いてしまったので少しまとめておこうと思う。私が言いたいのは、以下のようなことである。
 
人はみな同じ動物なんだ 生きているだけで素晴らしいじゃないか
それで幸せならなおいいな きっと幸せは人によって違うんだろうけど
私は一つの形として「愛」を提案します
といいながら、愛ってなんだかはっきりと分ってないけれど・・・







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION