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8月17日(土)
本日のスケジュール・内容
1)中部ルソン発
2)WHO井上先生、高嶋先生とのお茶会
3)総括ミーティング
 
1)中部ルソン発
 実り多い2日間を終え、中部ルソンを経ちマニラに移動した。車中、疲れ切った我々はほぼ全員眠りこけた。マニラに着いたのはちょうどお昼時で、バスの運転手のバルさんに案内してもらい、地元の人たちに評判のフィリピン料理屋に行った。食事はおいしく、生演奏まであり、楽しいひと時を過ごした。
 
2)WHO井上先生、高嶋先生とのお茶会
 WHOの井上先生、高嶋先生とお話をする機会を作っていただいた。海辺のレストランでケーキやハロハロを食べながら、和やかな雰囲気のなか、お二人の人生について、仕事に対する思いについて、結婚について、などなど、貴重なお話を伺うことができた。お二人とも私たちの迷いや疑問、不安に丁寧なアドバイスをくださった。
 
WHOの先生たちとのティータイム
 
3)総括ミーティング
 総括ミーティングに先立ち、前夜、2グループに分かれて何を話したいかを挙げ、最終的に全体で以下の3つのテーマを掲げた。
 
1. 人の幸せとはなんだろうか
2. WHO、JICA、NGOそれぞれの長所と短所のまとめ
3. 上記の2つをふまえて、今、自分はどのように国際保健に関わって行きたいと考えているか
 
テーマ1について
栄養失調の子供やその母親たち、Smoky Mountainに暮らす人たちに会ってみて、彼らが「不幸」であるようには見えなかった。
日本の人は、自分は、果たして幸せなのだろうか。日本には自殺が多い。フィリピンでは自殺する人はいない。(補:カトリック教徒であるため)
本人たちが必ずしも自分を「不幸だ」とは思っていないとしたら、生活レベルの低さを理由に国際協力という名のもとで、そこに介入する必要は本当にあるのだろうか。
幸せとは何か、人はどういうときに幸せになれるのか、自分の幸せとは何か、そういうことを考えておくことは、将来国際協力に携わろうとする自分を支えるために大切なことなのではないだろうか。
 
[論点1]
 必ずしも不幸ではないと思われる人に対して、生活レベルの低さを理由に介入することは必要か
要請があったときに協力すべき。
要請があったときに介入するのだとすれば、知識、教育が大切。例えばポリオの予防接種が必要であることを理解している人は少ない。知識がないと出ないような要請に対してはこちらからのフォローが必要。
→JICAでは、要請の発掘も行っている。
幸せを全体のものと考えたらよいのではないだろうか。一つの幸せを競って奪い合うのではなく、全体で共有する幸せを考えたら協力の意義に納得がいく。
とにかくお金を儲けたらいいという構図のもとで、みんなが同じ方向で競い合うとしたら、みんなが幸せになるのは難しい。
Equity:公正さ、を目指して協力をしたい。たとえ本人たちが満たされていると感じているように見えても、自分たちが弱い立場にあるのはどういう仕組みによるものかを知らされていない人たちには、誰かが得をする仕組みであるために自分たちが弱い立場に追いやられていることを知らせるべき。
社会構造によって弱い立場に追いやられている場合は少なくないだろう。
→タイの農村の例。
幸せの基準は人それぞれ。その場の状況に満足しているかで決まる。その人たちが別な幸せを求めた時、自分の力ではどうにもならない場合に下から支えてあげるのがいい。介入、ではなくお手伝いが近いのでは。
幸せというのはmindの問題であって、貧しさや、最低限のニーズが満たされているかとは別な問題。だから介入によって必ずしも幸せにできるとは思わない。でも、感染症や生活環境の問題などを解決したり、社会の中で役割を持てるように支援したりすることで、その人たちが自分の力で幸せになるための「チャンス」を作ることはできる。それが協力だと思う。
幸せとは「足るを知る」の問題。
 
[論点2]
 「人の幸せ」を、介入するかどうかの判断基準にするのは適切か
介入するかしないかを考える時に、幸せかどうかを判断基準にするのは無理。幸せというのは宗教観、価値観、社会のあり方などに左右されるもの。本人たちがいくら幸せであると思っていても、平均寿命や乳児死亡率などを基準に介入すべきかを考えたらよいのでは。
介入される側が、どうして介入されるのか、それによって良くなるのか、理解している状態で協力しないとうまくいかない。意思疎通を図り、一方的な介入ではない協力を。そうでないと、幸せに近づくような協力にはならない。その点は、介入の条件として考えるべき。
コミュニティーのレベルでは要請が出てこないような、環境問題、感染症問題などはスタートの時点で要請主義でなくても、プロセスの中で要請に応じて対話しながらやっていくことが大切。そのためにはコミュニティーのリーダーの理解や協力を得ることが必要。
Smoky Mountainの母親たちは、「働いて稼ぐ」ことに価値を置いておらず、彼女たちは「稼ぐ」ことに必ずしも幸せを見出さない。そのような母親たちに対して仕事を与えて働かせることが本当に必要なのかはわからない。また、そういう母親に育てられた子供たちが、健康を害されたり、教育が不十分だったりするのはやっぱりまずいのではなかろうか。自分たちが客観的にみて不幸だと思えることを次の世代に背負わせないことは必要なのではないかと思う。
選択できることが大切。知識や情報を提供した上で、選ぶ権利、判断する権利がある協力を。先進国の価値判断を押し付けない。
幸せが、協力の価値判断にならないとしたら、なぜ、相手が幸せになるかどうかに関わらず、病気をなくしたり、寿命をのばそうとしたりするのか。
幸せにできるかどうかはわからないが、明らかに不幸であるかどうかを判断基準に、協力するのはどうか。
しかし、「明らかに生活レベルが低い」ということはあっても、それが「明らかに不幸」かどうかはわからない。そういう人たちでも、生きていて笑ったり幸せだと思う瞬間はあるのでは。
「死」は明らかな不幸だと思う。そこには最低限介入すべき。
死ぬということは全世界共通の明らかな不幸だから、それが多いところは不幸だろうということで、介入の判断基準にできるのではないかと思う。
そのレベルにだけ介入すべきか。
幸せを何らかの客観的な基準で測ることはできないが、幸せの基準を乳児死亡率などで置き換えて、介入の判断基準にすることはできるのではないか。
幸せは主観的に考えるもの。Massを考えて議論する時に全体をひっくるめて幸せかどうかということを考えるのは難しい。乳児死亡率や寿命は、幸せかどうかではなく、健康かどうかの問題だと思う。
生きているというのは最低限の幸せだと思う。幸せは生きていてこそありうるのでは。
「生きていたら必ず幸せ」かどうかは分からない。「貧しいから必ず不幸」とも限らない。幸せかどうかを判断するのは自分であり、massの話をする時に、幸せという言葉を使って議論するのは適切でないだろうか。
幸せと乳児死亡率は関係ない。幸せは介入の価値判断の基準にならない。
もし相手が幸せだったら、なぜ介入するのかは国際協力に携わる時の大きなテーマで、大きなグレーゾーンがあり、どこまでが適切な介入なのか線を引くのは難しい。明らかな不幸、明らかに寿命が短いとか、明らかに乳児死亡率が高いとか、そういったものを基準に介入していくのがいいのではないだろうか。
 
[論点3]
 相手を幸せにしたいと思って協力するのでないとしたら、どこに国際協力をするモチベーションを置いたらいいのか。
人が死んだら悲しい、乳児が死ぬことはかわいそうだから、それを助けたい。
死なないのが幸せかどうかはわからないが、苦しんでいる状態は不幸だと思う。ポリオで苦しんでいる子供は不幸、それを見ている母親も不幸。その苦しみを取り除くために何かしたいと思う。苦しみが取れたら幸せに近づくと思う。だから手を貸したい。
死にしても苦しみにしても、それがない幸せを求めているのでは。やはり、幸せという概念が関わってくるのではないだろうか。
苦しいのを取り除かれたらうれしいだろう。それはmassとしてではなく一人一人を見てのこと。だから、幸せという言葉が使えるのだと思う。
苦しんでいたらそれは不幸だろうからそれを取り除くのはいいんじゃないかという考えについて、インドでポリオの麻痺の人たちに会った経験から。ポリオの人たちの中には、幸せそうに笑っていた人もいたし、社会に支えられて孤独をそんなには感じないで生きているように見える人もいた。麻痺しているよりはしていないほうが生活はたしかにしやすいかもしれないが、そのことと、それが「不幸だから」そうならないようにする、ということは少し違うのではないかと感じた。
幸せって1つの要素からできているものではないから、1つの要素からだけ見て、この人は不幸だという判断はできないのではないだろうか。
自分の幸せとは何なのか。困っている人たちとどうやって関わっていくかを考える時、介入という言い方をするけれど実際はそういう一方的なものではないはず。結局やりとりすること、他の人とのexchangeが純粋に楽しいということに、モチベーションがあるのではないだろうか。
何を原動力にするか。人と交流する楽しさ、国境を越えたやりとりの楽しさの中で、相手が幸せになり、その中で自分も幸せになれたら、それが原動力になるのでは。どちらが先でもいい、お互いが幸せになれるような関係を考えてみる必要があると思う。
 
[まとめ]
 まず、本当は幸せかもしれない人たちに介入していくことは必要なのかを考えた。これに関しては介入、協力は必要であるという意見で一致した。
 介入するかどうかの判断基準については、幸せかどうかが介入の条件として適切かという観点から、活発な議論が行われた。幸せという言葉の使い方を含め、話は尽きることがなく、これからも各自が、あるいはみんなで考えつづけるべき課題であるということになった。何をモチベーションに国際協力をするのかについても、「自分の幸せ、相手の幸せについてしっかり考えてみる必要がある」という、はじめの問いに戻る形の結論に行き着いた。







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