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No.22/36
海に親しむ
1. カヌーとカヤックについて
 1865年(万延(まんえん)6)にジョン・マクレガーが、エスキモー・カヤックを改良して軽いカヤックを造り、ロブ・ロイと名を付けヨーロッパや中東の川や湖を旅行しました。一方北米インディアンのカヌーはヨーロッパに渡って木製に変わり、カナディアン・カヌーと呼ばれてロブ・ロイとともに普及しました。愛好者はこれらのカヌーやカヤックで旅行したり、競技をしたりしてスポーツ・レジャーとしての形を作りました。現在では専門誌が多く刊行され、またイベントなども開催されており、これらを通じて多くの人がカヌーとカヤックを楽しんでいます。現在一般に使われているカヌーとカヤックの主流は、軽くて丈夫なFRPです。軽いので容易に持ち運びが出来また耐久性に優れるので、渓流下りで岩にぶつかっても安心です。
 機械に頼らず自分の力で河川や海を渡る、一番水に親しむ余暇の過ごし方ではないでしょうか。
(1)カヌー
 カヌーは最も原始的な形が残されている船といえるでしょう。カヌーの種類は丸木舟のような形のものから、船体の片側に、船体と平行する一本の浮き木をおき、浮力を増すとともにバランスを保つ型と、2艘(そう)の丸木舟を並べてつなぎ、甲板をつけた双胴(そうどう)船まで幅広くあります。日本では、前後ともとがった形をしていて、前を向いてパドルで進む船は全てカヌーと呼ばれています。しかし、海外ではカナディアン・カヌーを代表とするシングルブレードパドルで漕ぐ船をカヌーと呼び、その他のダブルブレードパドルで漕ぐ船は、全てカヤックと呼び分けています。
 
 
(2)カヤック
 アラスカなどの極北地域に居住する人たちが昔から使用している小型ボートのことを指します。構造的には木材を組み合わせて枠とし、座席以外はアザラシなどの皮を張り、縫い(ぬい)合わせたものです。主な用途は、アザラシ、オットセイ、セイウチなどの海獣(かいじゅう)類や、湖沼(こしょう)や川に追い込んだカリブーなどの狩猟に用いられました。甲板に相当する上部には、銛(もり)や槍(やり)を収納するための支えもあります。漕ぎ手は防水性の服を着てその裾(すそ)を開口部の外側にひもで結びつけるので、そのため荒天(こうてん)でも浸水せず、転覆してもパドル操作で容易に復原(ふくげん)できます。軽量のため運搬が簡単で操縦性にも富んでいます。
 
 
2. アメリカズカップ
(1)アメリカズ・カップの歴史
 1850年(嘉永(かえい)3)、ニューヨーク・ヨットクラブ(NYYC)の創設者の一人ジョージ・シュイラーは、イギリスから一通の手紙を受け取ります。それは、世界で初めての万国博覧会が翌年ロンドンで開催され、その祝典の一環としてニューヨークの水先案内用の帆船をイギリス近海でのレースに参加させないかという招待状でした。シュイラーは、NYYCのジョン・コックス・スティーヴンズ会長以下5人のメンバーとともにシンジゲートを結成して、ジョージ・スティアーズに新しい船の設計を依頼しました。スティアーズは、当時このタイプのもっとも速い帆船の設計者として有名で、彼の手法は設計図に頼らず木の船形模型を削っていくものでした。この新しい船は、当時の海の覇者(はしゃ)として君臨(くんりん)していたイギリスに挑戦するという意味で“アメリカ”と名付けられました。翌1851年(嘉永4)8月22日、イギリスの14艇と“アメリカ”との戦いは“アメリカ”が優勝を決めました。このことから、元はロンドンの貴金属商R&Cギャラード社が制作した製造原価をカップの名前にした「100ギニー・カップ」は、優勝した船の名前をとって、アメリカズ・カップと呼ばれるようになったのです。“アメリカ”がイギリスのヨット界に与えた影響は大変大きなものでした。“アメリカ”は鋭い船首と広い船幅、ブームに固定された機械紡ぎ(つむぎ)の木綿(もめん)のセイル等の特徴を持ち、どの方向の風に対しても速いものでした。これに対しイギリスの船は、船首が丸く幅が狭く、リグが複雑でルーズフットのため風が当たると伸びてしまうリネンのセイルを使っていました。翌年のシーズンにはイギリスの一流のヨット乗りは、船を造り替え、“アメリカ”と同じようなリグに代え、そしてアメリカ人の帆走技術を身につけるようになっていたくらいです。
 近年、アメリカズ・カップの予選レースが開催されていますが、これは1983年(昭和58)、5カ国のチームが同時に“アメリカ”に挑戦したことにより、アメリカズ・カップの挑戦艇を決定する予選シリーズを急遽開催する必要があったためで、これがルイ・ヴィトンカップの始まりです。このレースの勝者がアメリカズ・カップに挑戦する権利を獲得することができ、第一回目のルイ・ヴィトンカップの勝者“オーストラリアII”はアメリカズカップを獲得し、132年間にも及ぶアメリカの独走態勢をうち破りました。これはアメリカが132年間手にしてきたカップが、遂にアメリカを離れるときでもありました。“オーストラリアII”が優勝したとき、世界中が沸き返りました。ホワイトハウスにオーストラリアチームを招いたとき、レーガン大統領は「カップの台座の留め金はあまり堅くしないように。すぐにアメリカが取り返すのだから(NYYCはカップの台座をボルトで固定していた事をふまえて)」と言ったそうです。
 
「アメリカズ・カップ本戦」 銭谷誠康画
 
(2)アメリカズ・カップ参加の意外な人物
 サー・トーマス・リプトンは、世界で最も有名な紅茶会社の一つの創設者です。彼はアイルランドの出身で、16歳でアメリカに渡り、電車の運転手や農場で働らいた後、20代半ばで帰国します。帰国後、スコットランドで小さな食料品店を開いた彼は、紅茶の取引で商才を発揮し、リプトンの名がイギリスまで響きわたるほどに事業を発展させ、40代後半にはナイトの称号を得ます。彼は後のエドワード七世となった当時の皇太子と非常に親しく、皇太子はヨットを好み、アメリカズカップ奪還(だっかん)に意欲を燃やしていたそうです。リプトン自身はヨットにそれほど興味を抱いていたわけではなかったのですが、皇太子に影響され、1899年(明治32)の第10回大会に“シャムロック”というヨットで初挑戦を果たします。彼の初勝利は第4回目のチャレンジでやってきます。それは第一レースにおいて“レゾリュート”に故障が生じ、リタイアしたため“シャムロック4”が一勝をものにしたレースです。しかしリプトンはこのような勝ち方には満足せず、再レースを提案したそうです。NYYCは故障もレースのうちとし、レースはリプトンの勝ちとなりました。最後の挑戦は5回目となる1930年(昭和5)、この時点で彼は既に80歳を越えていました。リプトンはそのスポーツマンシップと温厚な人柄から多くのアメリカ人に好かれ、ニューヨークタイムスのキャンペーンのもと、市民が1ドルずつお金を出し合い、リプトンのために彼の名を刻んだティファニー貴金属店デザインのカップを贈りました。後年このカップを記念するレースが創出されました。その名も「リプトン・カップ・レース」です。







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