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船と港II
1. 東京港への変遷(へんせん)−江戸前の海の歴史
東京港の前身である江戸湊(みなと)は、江戸庶民に必要な消費物資の流通拠点(きょてん)として近世海運史上重要な役割を果たしました。幕末期、鎖国を解き開国した際、神奈川をはじめ国内5港が開港されましたが、江戸は開港されることなく、近代貿易港としての新しい発展の機会が失われていましたが、その後隅田川河口改良工事として、水路の浚渫とその浚渫土砂による月島(つきしま)や芝浦(しばうら)の埋立(うめたて)造成が進められました。大正12年(1923)、関東大震災を機に本格的埠頭(ふとう)の建設が急遽(きゅうきょ)実施され、大正14年(1925)東京港最初の接岸(せつがん)施設−日の出桟橋(ひのでさんばし)が完成しました。以後、芝浦埠頭、竹芝(たけしば)埠頭が相次いで竣工し、東京港はようやく近代港としての歩を開始し、昭和16年(1941)5月20日、ついに念願の開港が実現しました。しかし、間もなく日本は第二次世界大戦に突入し、東京港の本来の港湾機能は戦後の進駐軍による接収期間も含めほとんど停止状態になりました。昭和24年(1949)、東京港修築5ヶ年計画が実施され、豊洲(とよす)石炭埠頭や晴海(はるみ)埠頭など戦後の主要な埠頭が相次いで着工されました。昭和40年代に入ると世界的なコンテナ輸送革命の波が湧き起こり、東京港はいち早くコンテナ化への対応に取り組みました。昭和49年(1974)9月、日本で初めてのフルコンテナ船“箱根丸(はこねまる)”が品川埠頭に入港し、東京港はこのときから外貿定期航路を有する国際貿易港として大きく飛躍することになりました。東京港ではその後も物資別専門埠頭やフェリー埠頭など、時代の新しい要望に応える最新鋭の港湾施設を積極的に整備し、首都圏・東日本全域に及ぶ物資流通の合理化・効率化に貢献してきました。
「東京港開港 昭和十六年五月二十日」
昔の東京港埠頭風景
現在の東京港 資料提供:東京都港湾局
2. 台場(だいば)の歴史−台場の建設から消減まで
台場とは江戸時代に築造された砲台のことで、とくに、幕府築造の東京湾品川沖の砲台を御台場といいます。現在では臨海副都心に保存されているお台場のイメージが強いのですが、三浦半島や猿島などにも数多く造られていました。嘉永(かえい)6年(1853)8月から翌安政(あんせい)元年(1854)5月までに、江戸品川浦沖に6基の砲台が構築(こうちく)されましたが、この台場は嘉永6年6月、アメリカ第13代大統領フィルモアの親書を持って、東インド艦隊司令長官ペリー提督率いる4隻の黒船が突如浦賀に来航したのを機に、江戸幕府がにわかに海防策(かいぼうさく)の一環として品川浦沖に11基の台場を建築するという案を採択して構築された物です。これは伊豆韮山代官江川太郎左衛門(いずにらやまだいかんえがわたろうざえもん)らの献策(けんさく)によったものですが、幕閣内部に激しい反論があったにもかかわらず、幕府は緊急非常事態(再来日)に備えて、あえて決行しました。総工費約七十五万両(幕末期の米価から計算した金一両の価値は3〜4千円なので、これで計算すると約22.5億〜30億円)をかけて翌年5月までに第一、二、三、五、六番台場を完成させたましが、第四台場は構築半ばにして資金難のため中止されました。埋め立て用の土砂は泉岳寺(せんがくじ)の山、松平駿河守(まつだいらするがのかみ)の下屋敷の山、品川御殿山(ごてんやま)等を切り崩して海に運ぶため、近郷近在から多くの土方人足(どかたにんそく)が動員されました。また石垣用として伊豆・真鶴(まなづる)・三浦(みうら)の石を採石し、輸送船は伊豆・房総(ぼうそう)半島諸港の地船が徴用(ちょうよう)され、昼間の東海道(とうかいどう)の高輪(たかなわ)通りは通行止めとして脇道を通らせたりと、周辺地区の道路は大混乱となりました。工事は難渋(なんじゅう)し「死んでしまうか、お台場に行こうか、死ぬにゃ増しだよ、お台場の土かつぎ」とうたわれた程でしたが賃金は悪くはなく、「お台場で土かつぐ、さきで飯食うて、二百と四文、ありがたい、ありがたい」という俚謡(さとうた)もあります。とにかく海岸の町々は大騒ぎだったようです。現在は東京港改修工事のため第三台場と第六台場を残し撤去され、品川台場の全貌(ぜんぼう)を見ることはできません。第台場と第五台場は品川埠頭に飲み込まれ、第二台場は航路拡張のため撤去されました。これらに使用されていた石は、晴海埠頭公園などに今も見ることができます。また第四台場の石垣の一部は天王洲(てんのうず)周辺のボードデッキに姿を残しています。
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海上保安庁発行海図第1065号
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