東京港のあゆみ
東京港は昔、江戸湊(みなと)とよばれ、江戸に住む人びとに必要な物を運びいれるため重要な役目をはたしてきました。
江戸時代の終わり頃(幕末期)に、江戸幕府は外国との交流を閉ざす“鎖国”をやめて、神奈川をはじめ5つの港を開港しました。しかし、江戸湊は開港されませんでした。
大正12年(1923)の関東大震災をきっかけに本格的なふ頭建設が始まり、大正14年(1925)に東京港最初の接岸施設、日の出桟橋(さんばし)が完成しました。
それからは、芝浦ふ頭、竹芝ふ頭がつぎつぎに完成し、昭和16年(1941)5月20日に、東京港は近代的な港として念願の開港を実現しました。
台場の移り変わり
海上保安庁発行海図第1065号 |
上の図は、昭和10年(1935)と昭和28年(1953)の東京港の台場の様子(海図)です。埋め立てが進んで、台場がしだいに姿を消しています。 |
昭和初期の台場
現在の台場
この東京港に大正15年(1926)10月、国の史蹟に指定された2つの人工島「台場」があります。台場とは、江戸時代に造られた砲台(ほうだい)のことです。
嘉永6年(1853)、アメリカのペリー提督率いる4隻の黒船がとつぜん浦賀に来航し、驚いた幕府は江戸を外国からまもるための策として、急いでこの台場を造りました。当初の計画では海上に11基、海岸に1基の計12基を造る予定でしたが、資金が不足し、実際には5基が完成しただけでした。
戦後、東京港を利用する船舶が増えるにつれ、東京港の整備が進められました。それにともない、台場は昭和40年(1965)までには埋め立てられたり、撤去されたりして、今では第三、第六台場を残すのみになりました。また、第四台場の石垣の一部を、天王州アイル周辺で見ることができます。
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