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1996年7月号 『中央公論』
朝鮮半島「有事」はない
重村智計(しげむら としみつ)(毎日新聞論説委員)
危機に対する考え方の違い
 私は、一九七九年から八五年までソウル特派員を務めた。また、ベトナム統一直後の七五年には、ソウルの高麗大学に留学していた。この間、何回も朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が南侵するのではないか、との情報が流れたことがあった。ベトナム統一直後に、北朝鮮の金日成主席が中国を訪問し、南侵統一への支援を訴え、断わられていた事実もあとになって確認された。
 しかし、当時もし軍事的な衝突などが起きた場合に、ソウルにいる日本人はどうしたのか。実は、どうしようもなかったのである。日本の外務省には日本人救出マニュアルは、できていなかった。大使館から各企業やマスコミに来た連絡は、北朝鮮の攻撃が起きた場合は大使館や日本人商工会と連絡を取ってほしいというだけだった。その連絡網だけは、できた。しかし、個人で留学に来ていた学生や一般旅行者には、何の手段もなかった。特派員として赴任した時に、日本航空の支店長にどうなっているのですかと聞くと、日本から日航の救援機を飛ばすことにはなっているが、飛行場が閉鎖されたら終わりですから、釜山まで歩いていってくださいという。大使館の説明では、米軍の救援機に頼んで乗せてもらうしかないが、これも保証の限りではないという。
 このため、各企業は自分たちの危機の際のマニュアルを詳細に作り、対応を準備した。それにしても、最後は釜山まで歩いて逃げるしかないのであった。結局は、日本人は個人や企業の責任で自分で南の釜山まで逃げて、その後はなんとか日本にたどりついてほしいというのが結論であった。もちろん、自衛隊の救援機の飛行は韓国は絶対に認めないだろうから、それもしかたがないと自分なりに納得していた。
 ところが、その後ワシントン特派員としてアメリカ政府の危機の対応を目の当たりにした。アメリカは、戦闘や紛争が起きると必ずアメリカ国民救出のために、米軍を派遣するなど救出の対策を練る。国民の保護と救出を行なうからこそ、国家に所属し税金を納めている意味があるとの理解が徹底している。
 アメリカのこうした対応を見ると、国家や政府とは国民を守り保護するために存在するとの理解が、よくわかる。しかし、日本人には政府や国家が海外で個人を守ってくれるとの実感は希薄ではないだろうか。もっとも、アメリカ国民の保護を理由にグラナダに侵攻するなど、国民保護が軍事介入の道具に使われたことも否定できない事実であろう。
 日本では、四月の日米首脳会談以後、「極東有事」「朝鮮半島有事」などの言葉が、一人歩きしている。もちろん、火事がなくても「火災訓練」や、地震がなくても「防災対策、訓練」は必要である。しかし、それと、すぐにも火事が起きたり地震が起きるという話とは別である。災害のマニュアルは必要だが、すぐにも想定された事態が起きるように報道したり騒ぐのは問題であろう。危機管理と、国際政治についての冷徹な分析とは別問題であるからだ。
 日本の場合は、これまで事前に対応やマニュアルを作ることが、大きな問題にされた。ところが、一度危機的な状況が生まれると、いつの間にか反対論は小さくなり既成事実が勝利してしまう。日本人は既成事実にきわめて弱い国民である。
 一方韓国人は、既成事実にきわめて強い。例えば、韓国で全斗煥元大統領と盧泰愚前大統領の二人の大統領経験者が逮捕された。日本人の感覚からすれば、いまさらいいではないか、と思いがちである。もちろん、韓国内にもこうした意見がないわけではないが、少数派である。韓国で既成事実に対抗する論理は、大義名分と正統性である。韓国人の政治判断には、常にこの二つの価値観がつきまとう。二人の元大統領には権力を握る名分も正統性もなかった、という理屈である。
 正統性論と名分論は、権力に対抗する二つの武器であったのである。日本では、特に政権の正統性が問われることはない。しかし、韓国では常に「正統性」が問題にされ、名分のない行動や決定は否定できるのである。これが、既成事実に対抗できる理屈になる。その結果、韓国の政治には常に不安定性がつきまとうのである。
 ともかく、新聞やテレビで「危機」「朝鮮半島有事」「北朝鮮制裁」「竹島」「米国」「日米摩擦」「北朝鮮崩壊」などの文字を見ると、日本人は「危機」の具体的中身は何かについての検討もなく、何かわかってしまった気分になりがちだ。つまり、言葉についての具体的で詳細な規定と、概念の説明が不必要になってしまうのである。
 例えば、新聞やテレビはよく「米国は、日韓合意に満足している」「米政府は、北朝鮮は崩壊すると展望している」・・・などの記事を平気で報じる。しかし、よくよく考えてもらいたい。米国とは誰のことをいうのだろうか。
 アメリカの新聞はこうした記事の書き方をしない。アメリカの新聞は「クリントンadministration(行政府)」とは使うが、「クリントンgovernment(政府)」とは、まず使わない。アメリカ人は「司法、立法、行政」の三つを統合した概念を、政府と呼ぶからである。言葉の概念に対して、きわめて厳格なのである。
 だから、「米政府」「米政府筋」「米消息筋」のような主語を使った日本の新聞記事は、マユにつばをつけて読む必要がある。アメリカの新聞記事の主語は「ホワイトハウス」か「国務省」か「国防総省」か、必ずはっきりさせている。政策を立てたり、方針を決定する部署や機関を明示する。だから、友人のアメリカ人記者によると「朝鮮半島有事」とか「北朝鮮崩壊」の表現は、よく理解できないという。「有事」と「崩壊」が具体的に何を意味しているのか、わからないからである。
朝鮮半島有事とは
 朝鮮半島での「有事」「崩壊」とは、何か。次のような事態が、まず考えられよう。
1. 戦争が起きる
2. 北朝鮮で核兵器が完成する
3. 日本にミサイルが飛んで来る
4. 北朝鮮から難民が来る
5. 北朝鮮でクーデターが起きる
6. 金正日書記暗殺
7. 金正日書記亡命、退陣
8. 北朝鮮で大暴動が起きる
 まず、有事とは何かを考えてみたい。これは、日本の安全や経済社会に影響を及ぼす事態といえよう。さらに、国際社会や韓国にとっての有事と、日本にとっての有事とに分けられる。
 日本にとっての直接の有事は、北朝鮮からミサイルが飛んで来る場合か、日本と北朝鮮が戦争をする場合である。しかし、北朝鮮には日本に届くミサイルはない、とみていい。とすれば、日本にとっての直接の有事は、まず起こりえない。
 このほかには、難民が大量に日本に押し寄せるかどうかの問題だ。後で詳しく説明するが、この可能性もほとんどない。
 それでは、日本にとっての間接的な有事としては、何が考えられるのか。朝鮮半島で戦争が起きることであろう。その場合に、米軍にどのような協力ができるかの論議が盛んだ。集団的自衛権を認めるか、認めないかの論議もある。しかし、自衛隊が朝鮮半島に足を一歩たりとも踏み入れることは、韓国民が認めないだろう。日本が再び、朝鮮半島を侵略する口実を与えることになる、と韓国人は考えるからである。このため、自衛隊が戦闘行為はもとより朝鮮半島への輸送などの任務を負わされることは、決してないだろう。
 とすれば、議論になっている日本の民間施設の利用などの後方支援問題になるその問題を、賛成、反対を含めアメリカのように事前に徹底して論議するのは意味のないことではない。民主主義のプロセスである。だが、既成事実に弱い日本の体質からすると、こうした事態が起きたとたんにマスコミが一斉に有事対策を報じ、一夜にして反対論議は吹き飛んでしまうのではないだろうか。
 それよりも、実はこうした間接的有事は、日本の一般国民にとっては「有事」ではなく「有利」と「有助」の問題として浮上してくるのである。この問題は、後で詳しく検討したい。
 それでは、直接、間接の「有事」の事態が避けられるとすれば、北朝鮮「崩壊」の事態は近い将来にあり得るのだろうか。これもまた、近い将来に直ちに起こり得る可能性はない。たとえ、北朝鮮から大量の難民が流出しはじめても、それで国家が崩壊するわけではない。べトナムのように、むしろ逃げたい難民は逃がしたほうが負担が軽くなるだけである。
 実は、食糧難で国家が崩壊し吸収された例は、最近の国際政治では見当らない。餓死者が出るほどの食糧難になれば、国連の機関が乗り出し、各国も支援せざるを得なくなる。アメリカでさえ、韓国の反対にもかかわらず人道的支援は行なうとはっきり明言している。
 もちろん、北朝鮮が今のままの経済・政治体制を取り続ける限り、いずれ崩壊するであろうことは誰もが予測するとおりである。だが、崩壊は混乱や日本にとっての危機という意味での有事にはつながらない。崩壊は、その瞬間に統一を意味する。韓国が、北朝鮮の国民に対する責任を負わされるのである。
北朝鮮崩壊説
 北朝鮮崩壊についてアメリカ政府高官や在韓米軍司令官の発言が相次いだ。特にラック在韓米軍司令官は三月三日の米下院安全保障委歳出小委での証言で、北朝鮮の崩壊について「もはや崩壊するかどうか(if)という問題ではなく、いつか(when)の問題である」と述べ、崩壊が近いような発言を行なった。彼より前に、ペリー米国防長官やドイッチ米中央情報局(CIA)長官も崩壊の可能性に言及しており、一連の発言が注目された。また五月はじめには、アメリカを訪問した日本の議員団にキャンベル国務副次官補が、「北朝鮮は、六、七ヵ月耐えられるかどうかだ」との認識を明らかにした。
 こうした崩壊説について、クリストファー米国務長官は「早期崩壊を示す兆候はない」と述べ、崩壊説を否定した。つまり、崩壊説は「米政府」の判断ではないのである。「米政府高官」の間でさえ、判断は分かれているのである。これをどう考えたらいいのだろうか。
 実は、ワシントン特派員の経験からすると、毎年一月から四月頃までの時期は、北朝鮮脅威論や核開発の危険がニュースになる時期である。この時期に、来年度(十月〜九月)の予算の審議が議会で行なわれるからである。国防総省やCIAは、冷戦が終了してからというもの、毎年予算の削減を求められている。CIAにいたっては、その存在意義すら問題にされる。その予算審議の時期を乗り越えるためには、北朝鮮のような予測不可能な国がなお存在することを強調する必要があるのである。
 ラック在韓米軍司令官が証言したのが、歳出小委である事実に気が付いただろうか。これは、「決算小委員会」のことである。決算審議に関連した委員会での証言だったのである。キャンベル副次官補の発言も、こうした国防総省の政治的意図がなかったといえば、嘘になろう。同副次官補は、国防総省の所属である。それなら、日本の有事協力を強く求めている機関である。日本の議員に、朝鮮半島の危機を強調するのは当然であろう。そうした相手に会うのに、自分たちが反論したり論争する材料も持たないというのでは、バカにされるだけである。
 一方、クリストファー国務長官はなぜ「崩壊の兆候はない」と発言したのだろう。実は、北朝鮮外務省は国防長官やCIA長官、それにラック司令官などの「崩壊」発言について、非公式に抗議の意向を伝えていた。アメリカの国防関係者が北朝鮮の「崩壊」を口にすれば、北朝鮮内部では「アメリカが、北朝鮮を崩壊させようとしている」と受けとめられる。特に軍部はこうした考えをしがちだ。そうなると、アメリカとの関係改善を進める北朝鮮外務省にとっては、困るのである。
 こうした北朝鮮の意向を理解したため国務省はクリストファー長官に「崩壊は絶対口にしないでください」と、釘をさしていたのであった。国務省の朝鮮問題担当者によると、北朝鮮の食糧難はきわめて厳しいが「年内にも崩壊するような状況にはない」と、判断しているという。『ニューズウイーク』誌(日本版五月二十二日号)は、北朝鮮有事問題に関する記事を掲載したが、「崩壊説」の言葉が何を意味するかいまだに統一された見解がない、との専門家の言葉を紹介している。この言葉の概念に対するこだわりは、さすがである。「指導層の交代か、内戦か、難民の流出か」。
戦争はなくミサイルも届かない
 最近こそ、朝鮮半島で戦争が起きる可能性はない、と明言する専門家も増えたが、二年前は私を含むごく少数の専門家が発言していたに過ぎない。本当に、戦争が起きる可能性はないのか。軍事専門家の多くは、その装備と兵力から常に可能性と危険性を警告している。北朝鮮が、兵器を国産化しミサイルまで改良した実績を考えれば、軍事の専門家が戦争の危険を警告するのは当然であろう。しかし、戦争をするためには、訓練も弾薬も必要で、またなによりも石油が不可欠になる。
 実は、朝鮮半島の研究者や軍事専門家は、北朝鮮がいかに石油不足に直面しているかについての理解を欠いていた、と思われる節がある。私は、新聞社に入る前にしばらく石油会社で原油と製品の輸入の仕事をしていた。それだけに、北朝鮮の石油事情は徹底して調べた。石油の量がわかれば、経済力と軍事力をある程度判断できるからである。
 昨年北朝鮮が輸入した石油の量はわずかに、一〇〇万トンに過ぎない。しかも、これは原油の量である。さらに、これは全量中国原油である。これだけの数字と事情で、石油関係者なら、「これは、相当ひどい」とすぐわかる。
 何がひどいのか。中国原油の場合は、ガソリンや軽油、ジェット燃料など軍事や生活に欠かせない軽質分が二〇パーセント程度しか、取れないのである。いくら精製しても、一〇〇万トンの原油から生産される軽質分は三〇万トン以下である。あとは、重油である。中国原油は、世界でもこの重質分が多い「悪い原油」なのである。
 軍事専門家の中には、北朝鮮が最高で一五〇万トン程度の石油を輸入していることを理由に、この程度の石油があれば戦車のタンクを満タンにし、ソウルまでなんとか到達できるとの計算もある(『軍事研究』一九九四年六月号「目標ソウル占領」)。実は、残念ながらわずか一五〇万トンの軍事用の石油でさえ北朝鮮にはないのである。
 しかも、これは原油で年間一五〇万トンという数字であり、軍事用の石油は年間三〇万トン未満にしかならない。これはまた、常時三〇万トンの石油があるという意味ではない。訓練もせず、通常の輪送トラックや連絡用の自動車の燃料に一滴も使わず、石油を貯めれば一年で三〇万トンは貯まりますよという数字でしかないのである。三〇万トンは、政府高官の車はもちろん、輸送トラック、バスや飛行機の燃料に使えば、すぐになくなってしまう量である。
 北朝鮮の兵力は、一〇〇万人。日本の自衛隊は二四万人。約四分の一の自衛隊が、年間に消費する石油の量は一三〇万トンである。戦争を予定していない自衛隊が、平常の訓練と活動だけで一三〇万トンの石油を使っているのに、戦争をしようとする一〇〇万人の軍隊に回される石油が最高三〇万トンでは、あまりにも少なすぎるのである。
 このほかに製品として輸入している分があるのは、間違いないであろう。それも、北朝鮮の荷揚げ施設と石油タンクや外貨事情を考えれば、どう多く見ても年間五〇万トン以上は輸入できないのである。この数字は、北朝鮮に入る製品用のタンカーの国際記録を追えば把握できる。
 軍隊は、訓練がなければ戦争はできない。その訓練用に消費される石油まで計算すれば、北朝鮮が備蓄に回せる量はごくわずかである。もちろん、これまで長い間かけて備蓄の水準は維持しているであろう。その備蓄にしても、多めに見積もった韓国の計算でも七〇万トンである。しかし、北朝鮮の貯蔵施設をどう計算しても七〇万トンの石油を常時備蓄しておけるだけの、石油タンクは見あたらない。ここ数年の北朝鮮の石油輪入量を考えれば、備蓄も相当切り崩しているとしか考えられないのである。
 近代戦では、石油を湯水のごとく使わなければ、戦争はできない。この意味では、北朝鮮はすでに攻撃能力を失っているとみていいだろう。北朝鮮から亡命した元外交官の高英煥氏も、日本の新聞に「北朝鮮には韓国攻撃の意思はない」と証言している。
 それでは、ミサイルは日本に飛んで来ないのだろうか。実は、射程一〇〇〇キロのノドン・ミサイルを開発したとの発表は、アメリカの国防総省の推測に過ぎない。北朝鮮の地上でのエンジン・テストの衛星写真と、一九九三年五月に日本海で行なった発射実験から、射程一〇〇〇キロのミサイルを開発したとの推測が広がった。しかし、ちょっと待ってほしい。わずか、一回の実験で射程一〇〇〇キロのミサイルが開発できるわけがない。
 しかも、このノドン・ミサイルの内容はまったく明らかにされていないのである。すでに、ノドン・ミサイルの存在が推測されてから三年以上が経過したが、それが多段式のミサイルか一段ロケットなのかも、明らかにされていない。アメリカの偵察衛星はもとより情報網に、何もひっかからないということはまず考えられない。
 そのためか、最近になってアメリカの情報関係者も、ノドン・ミサイルはまだ開発段階にあり配備されていない、との判断を下すようになった。つまり、日本に届くミサイルを北朝鮮は開発できなかったのである。私がワシントンにいたときに、アメリカの「憂慮する科学者同盟」が北朝鮮のミサイルについての報告書を作成した。それによると、北朝鮮が有するミサイル技術では、射程一〇〇〇キロのミサイルの開発はきわめて難しいという。またスカッド・ミサイルを改良したと考えると、スカッドのエンジンを四基束ねないとこうした推力は得られないという。しかし、この開発も簡単ではない。このスカッド改良型のミサイルの弱点は、液体燃料である点だ。このため、燃料を注入し始めから発射まで時間がかかり、もし完成したとしても発射前に偵察衛星で発見される可能性が高い。
難民は来ない
 北朝鮮崩壊説では、日本に北朝鮮から多くの難民がやってくるという指摘がされる。このことについて、「日本には、逃げない」と断言する亡命者は少なくない。亡命者の一人によると、「北朝鮮の人々は、日本人を信用していないから、絶対に日本には行かない」という。そのとおりであろう。日本人の多くは、韓国人の反日感情を知っている。同じ感情が、北朝鮮にないとでも思っているのだろうか。
 北朝鮮の人々にとっては、日本人は在日朝鮮人を差別し、朝鮮人をいじめる悪い人たちである。植民地時代の日本の官憲の非道な行動は、必ず教えられる。また、最近の日本はアメリカや「南朝鮮」と手を結び、北朝鮮をいじめ崩壊させようとしている存在である。そんな日本に、北朝鮮の人々が喜んでやってくるわけがないのである。
 「日本の電子製品や日本のカメラなどを見て、北朝鮮の人も日本が進んだ豊かな国であることは知っているはずである」から、日本に大量に逃げてくるとの主張もある。これはあまりにも「天動説」ならぬ「日本中心思想」である。日本を「いい国」と考えているのは、国際的には少数派であるという現実を見落としている。
 北朝鮮が崩壊したり、食糧難の事態が深刻化した場合に、難民が逃げるのは中国である。日本には、まず来ないのである。
 戦争が起きると韓国から多くの難民がやってくる、との意見もある。これも考えられない。日本人と韓国人の決定的な違いは、自分の国家を失った経験があるかないかである。国家を失うことが、いかに惨めなことかを身をもって知っている。だから、もし北朝鮮が南侵した場合には、逃げるよりも銃を持って戦うはずである。これが、韓国人の愛国心である。一九五〇年の朝鮮戦争の際に、韓国は滅亡の一歩手前まで追いつめられたが、それでも大量の韓国人が難民として日本に来たわけではなかった事実を、忘れないでほしい。また韓国人は、同胞を捨てて日本に逃げたという汚名には耐えられない人たちである。
金正日書記が全権掌握
 五月、韓国の済州島で日米韓三国の外務次官補級の会議が、開かれた。この会談で、三国の見解が唯ひとつ一致した問題があった。それは、金正日書記が北朝鮮の党と軍と政府機関を完全に掌握している、との認識であった。この認識は、北朝鮮の崩壊などの「有事」が当面ないとの理解につながる。
 それでは、金正日書記へのクーデターはないのか。可能性は否定できない。だが、クーデターや暗殺防止のために、あらゆる方法が講じられており、きわめて難しい。まず不可能である。金正日書記に会見するときには、厳しい身体検査に加え、筆記用具さえ携帯を禁止される。また、許されない限りメモを取ることもできないのである。
 では、金正日書記は金日成主席の死から二年近くなるのに、なぜ後継者に就任しないのか。やはり、儒教の伝統に従い三年の喪に服しているとみていいだろう。朝鮮半島の伝統では、三年の服喪期問中は大きなことをせず静かにしていることが、義務付けられる。北朝鮮の国民の多くが、金日成主席への尊敬の感情を持っている状況では、親不孝とみられることはできないのである。最近、中国外務省の高官はこの問題について「三年鳴かず飛ばず」ということわざがありますから、と説明している。
 この問題についての最も興味ある証言は、金日成主席が日本財団の笹川陽平理事長に語った「なぜ、金正日書記を後継者にしたか」の理由である。金主席は、「朝鮮の政治で、最も難しいのは老人対策である」と述べ「金正日書記は、その能力を備えている」と明言したという。朝鮮の社会で、最も発言力ある「圧力集団」は老人グループである。だから、金日成主席と、抗日独立闘争を戦った老人たちが最もうるさいグループになる。この人たちを、納得させないと北朝鮮の経済改革と開放政策の採択は難しい。
 この老人グループを納得させ、新しい政策を打ち出すには、三年近い時間が必要になるのではないだろうか。金正日書記の側近といわれる若手グループがいくら老人たちの追放を考えても、老人たちのほうが党の序列でははるかに上にいるのである。まず、時間をかけるしかない。
 同じようなことは、三星グループの李健煕会長の場合にもみられた。彼は父親の死後、ほぼ三年間人前に姿を見せず引きこもっていた。三年が過ぎてから、本格的な活動を開始し三星グループをさらに飛躍させたのであった。
 金正日書記の主席就任の遅れに関連して、軍が力を握ったとの観測が出ている。これは、北朝鮮外務省が水害への国際機関などの支援を一度拒否した際に、「軍が反対している」との声明を出し、北朝鮮の国連大使も同じような発言をしたことから言われだした。
 しかし、これは逆の意味を持つ現象と判断すべきである。もし、軍が全権を握っていたら「軍がうるさい」とか「軍が反対している」などの発言を、外務省ができるはずがないのである。むしろ、こうした発言ができ声明を出せることのほうが、変化なのである。つまり、軍の力がそれだけ低下した証拠とみるべきであろう。その後、北朝鮮外務省は再び国際機関からの支援を求めており、軍の主張が退けられたことになる。
予想されるのは「有利」と「有助」
 実は、国際政治の現実では北朝鮮を誰も引き取りたくないから、崩壊させたいとは考えていないのである。とすると、北朝鮮ほど強い存在はない。韓国も、中国も日本も、アメリカでさえ北朝鮮を崩壊させ引き取ろうとは考えていないのである。
 韓国はなぜ、北朝鮮の崩壊を望まないのか。ドイツ統一で、西ドイツは毎年一〇兆円の資金を東ドイツに投入せざるを得なくなったからである。韓国の国家予算は、約八兆円である。とても、ドイツのような負担には耐えられない。もし、数年以内に北朝鮮が崩壊する場合には、北朝鮮の住民の南への移動を禁止し、北朝鮮部分で経済を回復するよう自助努力を求めるしかないと考えているようである。統一朝鮮は、韓国に再起できないほどの経済負担を強いるかもしれない。これは、韓国にとっては悪夢である。
 中国もまた、大量の飢餓難民が国境を越えてくる事態を恐れている。このため、最大限の食糧支援を行なう方針という。中国外務省高官によると、中国は昨年北朝鮮に穀物七〇万トンと石油一三〇万トンの供給を約束したという。北朝鮮の食糧不足は、約二〇〇万トンといわれているから、これは大変な量である。食糧の場合は、半分が友好価格で残りは国際価格である。石油は、五〇万トンまでは無償で残りは国際価格という。
 このうち、石油は一〇〇万トンしか引き取らなかったという。北朝鮮への穀物供給の方法について、中国は他の国や国際機関からの供給をみたうえで、最後に供給するという。つまり、中国は不足分を見たうえで調節の安全弁の役割を果たそうとしていることになる。
 実は、北朝鮮の崩壊では周辺諸国が北朝鮮の国民の面倒を見たり、難民を世話する事態は生まれないのである。崩壊は即統一を意味する。北朝鮮の国民は、その時点から「韓国民」として扱われるのである。とすれば韓国は直ちに食糧や治安の責任を負わなければならなくなる。また、韓国民である以上は彼らを難民として扱わせるわけにはいかないし、国際的にも難民とは認められない。このため、日本がまず求められるのは、どのようにして韓国を助けることができるかの「有助」の問題である。日本は、統一の経費のかなりの負担を求められることになろう。
 一方、万にひとつ戦争が起きた場合には、日本「有利」の現象が生まれる。先に指摘したように、戦争が起きても日本に難民が来る恐れはない。むしろ、日本経済は再び「朝鮮特需」を迎えることになる。やや不謹慎な話だが、隣国の最大の不幸は日本経済に「特需」をもたらすのである。
 日本での朝鮮半島有事論争は、アジアの隣人から見れば、日本人はいかに自分たちのことしか考えない国民かと映りがちである。もし、戦争や崩壊などの有事の場合には、アジアの隣人のために何ができるかを考えるべきであろう。それが、アジアの大国が負う宿命であるし、アジアとの商売で日本が利益をあげていることに対するお返しでもある。有事と同時に「有助」の問題が論じられない限り、アジアの人々は日本をアジアの面倒を見てくれる隣人とは考えないであろう。もちろん、「有助」が求めるのは軍事的な協力ではない。
北朝鮮崩壊の真の原因
 北朝鮮の崩壊説をめぐっては、食糧難や経済混乱が指摘されている。しかし、これはあくまでも現象的な問題でしかない。北朝鮮を真に崩壊に導く問題は、「主体思想と唯一領導制」にある。だが、この思想とシステムを守っている限りは、短期的な崩壊は避けられるのである。強固な思想的締め付けと、党を中心にした中央主権的管理は政治の面ではなお強い力を発揮するが、経済面では北朝鮮経済の混乱と疲弊を加速することになるのである。
 北朝鮮は、経済開放・改革に踏み出さなければ、やがてその経済は行き詰まる。しかし、開放・改革策に乗り出せば、金日成主席を批判し否定しなければならない。同じ問題は、中国でも起きた。中国は毛沢東の個人責任を問題にしたが、毛沢東思想は批判の対象にしなかった。しかし、北朝鮮の場合は金日成主席と「金日成主義・主体思想」を区別して処理することは、不可能である。不可分の関係にあるからだ。もし、北朝鮮の開放・改革路線が金日成主席批判に向かえば、金正日書記を排除する「大義名分」が生まれることになるからである。だから、いまなお北朝鮮では「改革」と「開放」の言葉の使用は、禁止されている。もし、そうした政策を取る場合には「進歩」か「前進」の言葉しか使えないだろう。かろうじて、「改善」を使えるかどうかである。
 北朝鮮が、経済困難に直面している原因として次の四つが考えられる。
1. 社会主義の矛盾
2. 主体思想と唯一領導制
3. 社会主義諸国の崩壊
4. 冷害と水害による農業不振
 このうち、根本的な問題は主体思想と唯一領導制である。これは、党がすべてを決定するシステムである。例えば、外国との合弁企業を設立しても、労働者の採用から賃金や商品価格の決定はもとより、外国人の住居や技術指導の方法まで、すべて党が干渉し決定に携わる。これでは、市場経済は生まれない。北朝鮮が、いくら外資を導入し合弁企業を増やしても、それを活用し拡大できるシステムにはなっていないのである。北朝鮮経済の行き詰まりを避けうる道は、金正日書記の決断と政治手腕、それに韓国の経済面での全面的な協力しかない。
相次ぐ亡命事件
 北朝鮮の空軍パイロットが、五月二十三日に、ミグ19機を操縦して、韓国に亡命した。彼は「北ではもう生活できない」と語り、自由にあこがれて亡命したという。しかし、この言葉はにわかには信じられない。空軍パイロットいえば、北朝鮮でも極めていい待遇を保証されている。食糧難や生活の苦しさ、自由へのあこがれだけで逃げてきたとは思えない。逮捕される危険などの、逃げざるをえない切迫した事情があったのだろう。だから「北では生活できなくなった」のである。
 一三年前にも、北朝鮮から李雄平氏がミグ19を操縦して逃げてきた。当初は、彼も上空で韓国のラジオ放送を聴き、自由にあこがれたと言っていたが、女性問題など個人的な理由が後になって明らかになった。かつてソ連から、北海道に戦闘機で亡命着陸した空軍パイロットも、夫人との仲違いが最大の理由であった。相次ぐ亡命事件で、直ちに北朝鮮が早期崩壊するわけではない。
 実は、亡命には命をかけるだけの理由があるだけに、自由への「あこがれ」だけでは決行できないのである。北朝鮮は、一三年前のパイロット亡命の際も沈黙を守った。今回も、返還要求のようなことはしないだろう。亡命の事実が北朝鮮国内に知れわたっては困るのである。
著者プロフィール
重村 智計(しげむら としみつ)
1945年生まれ。
早稲田大学卒業。
毎日新聞社ソウル特派員、ワシントン特派員、論説委員を経て拓殖大学教授。現在、早稲田大学教授。
 
 
 
 
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