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1995年6月号 『中央公論』
外交を弄んだ与党訪朝団騒動
重村智計(しげむら としみつ)
須之部大使のこと
 自民党の石原慎太郎衆院議員は、四月十四日に議員辞職を明らかにした。石原議員は「すべての政党、ほとんどの政治家は最も利己的で卑しい保身のためにしか働いていない」と、日本の政治状況を批判した。石原議員の指摘に同意する国民は、多いだろう。だが、日本の政治家の理念のなさと、政治の混迷は政界ばかりでなく日本外交にも及んでいないか。石原議員の言葉を借りるなら、日本外交が「利己的で卑しい保身のために」利用されてはいないか、との危惧を私は捨て切れないのである。
 私は、かつてソウル特派員時代に、当時の須之部量三大使に、週末にしばしば公邸の夕食をごちそうしていただいたことがあった。須之部大使の夕食は、性格そのままに質素なもので、カレーライスであったり、あるいはおかずが一品程度の簡単なものだった。
 その折に、何の気なしに「大使を終えられたら、何をされますか」とうかがったことがあった。「大学で教えるつもりです。若い人の役に立てばいいと思っている。役職はいりません」と淡々と語られた。「人間は、自分からポストや利権を求めると、おしまいですよ」という、須之部大使の人生観が一言一言に、にじんでいた。
 韓国大使の職は、日本の外交官にとっては最重要ポストの一つである。また、ここほど政治と関わりの深いポストもない。日本から、常に政治家が訪れ韓国の指導者と会談する。また、韓国のプロジェクトへの特定日本企業の参入に力を貸してくれるよう、政治家や日本企業から頼まれることも、少なくない。大使を終わった後の身の振り方を考え、こうした政治家の要請に協力せざるをえなくなった外交官も少なくなかった。
 だが、須之部大使だけは日本の政治家や企業の利権にかかわる要請には、常に距離を置き続けた。政治家が外交で果たせる役割と、危険を十分に理解していた外交官だった。そして、明治生まれの書生気質を感じさせる人柄が、韓国人の尊敬を集めたのだった。
日本の外交官は変質したのか
 当時の駐韓日本大使館には、気さくで優秀な外交官が多かった。その後アジア局長に転じた谷野作太郎公使(現内閣外政審議室長)や、柳井俊二公使(現外務省総合外交政策局長)などが、日韓関係改善に力を尽くしていた。いずれも、外交官としては朝鮮半島外交に初めて取り組む人たちであったが、韓国・朝鮮問題に積極的に取り組み、学ぼうとする熱意に溢れていた。
 須之部大使は、いつでも大使室の扉を日本の特派員には開いていた。前もって約束を取らなくても、時間のある限り日本人特派員の不意の訪問を、受け入れてくれた。
 その後、一九八九年から私は、ワシントン特派員として五年間を過ごした。何よりも驚かされたのは、駐韓日本大使館で出会った日本の外交官と、駐米大使館の外交官の態度と質の違いであった。駐米大使館には、まともな挨拶をきちんとできる若手の外交官が、きわめて少なかった。そのうえ、態度は横柄だった。
 駐米大使館に、駐韓大使館公使を経た親しい外交官が転勤してきたことがあった。韓国での勤務をわずか二年で終えた後、東京での勤務を経てワシントンに赴任したのだった。「もっと長くいたかったのだが、本省が帰れというからしかたなかった」という。その言葉に含まれた意味に、私が気づいたのは東京に帰ってからだった。
 韓国での勤務をわずか一年半ほどで切り上げた外務省の高官がいた。私は、五年ぶりの帰国挨拶に外務省の知人を尋ねた際に、この高官と会った。「韓国は、短かったですね」と話を向けると、予想外の言葉が返ってきた。
 「キムチやニンニク臭くなると、どうもという考えもあるようだから」。
 この言葉を聞いたとき、私はワシントンで引っかかっていた言葉の意味が、理解できたような気がしたのだった。外務省の上層部には「韓国を知りすぎて、キムチ臭くなった外交官は使い物にならない」といった雰囲気が広がっているのではないか。
 もしそうであるとするなら、とんでもない思い違いである。韓国、朝鮮外交ほどに、相手の物の考え方と行動様式を十分に理解していないと、思わぬ落とし穴に落ち、不必要な摩擦を起こしやすいものはない。日本人にはなかなか理解できない感情や物の考え方、特有の行動様式がある。韓国語を話せないキャリア外交官が、二年足らずの勤務で理解できる相手ではないのである。
半島外交に政治家が手を出す理由
 ソウルとワシントンの大きな違いの一つは、日本の政治家の往来の頻度である。ワシントンの場合はきわめて少ないのである。
 議員外交と称してワシントン入りする政治家の多くは、大使館が準備した米議員に会い、国務省や国防総省を訪問するだけだった。米国の政治家と長年にわたり友人関係を築き、ホワイトハウスや議会に自由に出入りし、手弁当でも日米関係の前進に取り組もうとする政治家もまた、まれであった。実は、こうした政治家の交流がきわめて希薄なことが、日米関係を停滞させる大きな原因の一つになっているのである。
 ところが、ソウルの場合は日本の政治家が頻繁に姿を見せた。選挙区の支持者を連れてくる政治家から、個人的な用事のため密かにソウル入りする政治家まで、一年間に韓国を訪れる政治家は相当の数に達していた。なぜ、日本の政治家は韓国には頻繁に足を運ぶのに、ワシントンにはほとんど飛ばないのか。
 日本の政治家の多くが、英語を話せないことも原因の一つではあろう。それなら、韓国語も話せない。それよりも、アメリカには日本の政治家が手を出すような利権がない、というのがもっと現実的な理由だったのではないだろうか。
 自民、社会、さきがけの連立与党三党の代表団は、三月二十八日から三十日まで、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問し、朝鮮労働党との間で四党共同宣言を発表した。しかし、この与党の代表団派遣実現までの経緯は、かつての日韓関係での政治家の動きと同じように理解しがたく、かつ唐突なものであった。
 代表団の派遣にあたって、与党側は「戦後の償い」を盛り込んだ一九九〇年の「三党共同宣言」を棚上げすると北朝鮮側は言っている、と主張した。また、「連立三党と労働党による新たな四党宣言」をまとめることで、「三党共同宣言」を「歴史的な事実」とするとの説明も行なわれた。簡単にいえば、与党訪朝団の訪問で「戦後の償い」を盛り込んだ三党共同宣言の効力はなくなる、との見通しを強調したのだった。しかし、結果はそうはならなかった。
 北朝鮮の公式声明や政策、立場を少しでも調べてみれば、「三党共同宣言」を過去のものにするはずがないのはきわめて明白だった。朝鮮問題を扱う専門家にとっては、「北朝鮮は、三党共同宣言を絶対に放棄しない」というのは、常識以前の問題だった。
 さらに、与党関係者は「国交正常化に道筋をつける」とも発言した。また、北朝鮮への軽水炉供給を行なう「朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)が発足し、日本も資金を提供することになったのに、北朝鮮へ日本の意向を伝えるチャンネルがないのはおかしい」とも強弁した。とんでもない。こうした認識は、外交音痴の発言というしかない。当時すでに、政治家が乗り出さなくても、日朝の外交接触に北朝鮮は意欲を示し、秘かな打診とシグナルを送っていたのである。日本の外務省高官が、それを知らなかったとすれば外交担当者の怠慢というしかないだろう。また、「KEDOが発足したのに、日朝のチャンネルが開いていない」というなら、外交当局が接触や交渉再開を申し入れればいいだけのことである。政治家が、乗り出す必要はなかったのだ。
 北朝鮮側は、今年に入ってから外務省スポークスマンの発言や、朝鮮中央通信、労働新聞の報道などで「日朝正常化交渉再開には、何の前提条件もない」との立場を繰り返し明らかにしていた。これは、それまでの立場とは大きく異なるものであった。それまで北朝鮮は、日本が交渉の前提条件として「核問題の解決」と「李恩恵」問題を持ち出していると非難し、この前提条件の撤回を交渉再開の条件にしていたのだった。とすれば、政治家が登場しなくても、外交レベルでの接触が可能な環境がすでに生まれていたのである。
 それにもかかわらず、日本の外務次官は与党訪朝団の派遣を積極的に評価する発言を行なった。もし北朝鮮の外交姿勢の変化を知らずに、こうした発言をしたのであれば、外交感覚のなさというしかないだろう。もし知ったうえで行なったのであれば、外交当局による交渉再開が可能であるにもかかわらず、わざわざ政治家の登場の場を作ったことになる。
 さらに、各新聞は外務省高官の話として「KEDOの設立で、核疑惑問題解決への一応の筋道ができた」と説明していた。これもまた、事実とは違う認識である。当時、米朝の軽水炉供給契約をめぐる交渉は暗礁に乗り上げ、四月二十一日の期限までの合意は不可能な状況にあった。北朝鮮は「二十一日までに合意できなければ、凍結した原子炉に燃料棒を再装填する」との立場を表明し、米国は「合意を破れば、国連安保理で制裁に踏み切る」と警告していた。さらに、韓国は制裁に踏み切る場合の対応の協議を、日米両国に呼びかけていた。外務省高官がいう「解決の筋道」は、まだついていなかったのである。与党訪朝団の派遣前にソウルを訪問した外務省の川島裕アジア局長は、四日間もソウルに滞在しながら、韓国外務省高官との会談は一日だけという、冷遇を受けたのである。
朝日報道への疑問
 与党訪朝団の派遣を決定的にしたのは、二月十六日のシンガポールでの日朝秘密接触であった。この接触には、日本側から自民党の保利耕輔代議士と外務省アジア局の竹内行夫審議官、北東アジア課の職員二人が同席した。北朝鮮側からは、朝鮮アジア太平洋平和委員会の李種革副委員長が参席した。この秘密接触の事実は、三月初めに外務省から米政府にも説明された。ところが、米政府は何のための接触かに強い疑問を抱いたのだった。保利代議士が「加藤政調会長の名代として来ました」と自己紹介したからだった。しかも、この会議で北朝鮮へのコメ支援を申し入れたが、北朝鮮側は拒否したという。
 なぜ米政府は疑問を感じたのか。日朝の政治家による政治接触なら、外務省の高官が同席する必要はないからである。また、外交接触であるなら政治家が同席するのは、あまりにも不自然だった。しかも相手は、北朝鮮外務省の当局者ではないのである。この接触について外務省は、保利代議士と竹内審議官は別々に北朝鮮側と接触したと説明している。それなら同じ日に同じ人に会うのに、それまでまったく知らなかったのだろうか。そんなはずはあるまい。外務省高官が、北朝鮮側と接触し正常化交渉再開について話し合えるなら、与党が代表団を送る必要はないのである。
 さらに関心が寄せられたのは、この接触を誰が仲介したかという問題である。外務省と自民党の政治家は、日朝貿易に携わる「朝鮮系日本人」(日系アメリカ人との表現と同じ意味である)の会社社長に頼んだといわれている。そして、この社長は与党訪朝団の特別機に同乗し、平壌まで飛んだのである。この事実は、国会でも質問された。こうなると、与党訪朝団には政治家の利権争いが隠されていたのではないかとの、疑問が生まれるのも当然であろう。日朝正常化の際には、三〇億ドルから五〇億ドルの資金が動くと推測されている。この資金を目当てにした政治家の思惑が、与党訪朝団の背後でぶつかりあっていたのではないか。
 今回の訪朝団についての報道で、もっともきわだっていたのは『朝日新聞』であった。各紙が、訪朝団への疑問を指摘する中で、唯一手放しで支持する内容の記事や解説を掲載し続けた。『朝日』の主な記事の見出しを拾うと、次のようになる。
 「米の朝鮮半島戦略を補完。与党訪朝団あす出発、安定化に一役」(三月二十七日朝刊)
 「日朝交渉再開合意。日本の役割見いだす好機」(三月三十一日朝刊)
 「筋道ついた、政府歓迎」(三月三十一日朝刊)
 この他にも、「米政府も支持」といったものや、「モンデール大使も評価」といった原稿まで、訪朝団の実現と成果を手放しで讃え続けたのだった。
 しかし、訪朝団が「米の朝鮮半島戦略を補完」との記事には、どのように補完できるのか具体的な説明はなかった。この記事にあるような「クロス承認政策」は、冷戦崩壊後は米国にとってはすでに過去の遺物なのである。こうした事実も知らずに、「米国が、自民党の話にすんなり応じた」と結論づけている。ところが、この事実を米政府の誰に確認したかについてはまったく言及していない。「欠陥原稿」というしかないだろう。
 米国には、冷戦後は体系的な朝鮮半島戦略などなくなってしまった事実を、この記者は知らなかったというしかない。唯一戦略といえるものは、北朝鮮の核とミサイル開発を阻止することである。米国は、先に説明したように与党訪朝団派遣に当初疑問の目を向けていた。その目的が、はっきりしなかったからだ。また訪朝団を派遣するのは日本の自由だとの公式の立場は示したが、「支援する」とか「期待している」の言葉は使わなかった。これは、米連邦議会の議員の訪朝のように、外交政策に影響を及ぼさないものと米国が考えていたから干渉がましい発言を控えただけのことである。
 米国が最も警戒していたのは、北朝鮮の分断外交であった。日米韓三国の協力関係を分断させようとする外交を、北朝鮮はしばしば展開した。北朝鮮のこうした外交戦略と手腕、そして米国と韓国の基本的な対応を知らないのは、朝鮮問題の素人というしかないのである。
 『朝日』の三十一日の原稿は、再び「米国のアジア戦略を補完する役割の色彩が濃厚だ」と、訪朝団の成果を強調した。しかも、この四年間日本は「独自の働きかけを・・・できないままだった」とまで書いている。とんでもない。この四年間、核問題や李恩恵問題を持ち出す限り交渉に応じないと言いつづけてきたのは、北朝鮮の側であった。
 私は、だから『朝日新聞』の記事は信用できないなどと「朝日攻撃」をするつもりはない。同じような記事は、どこの新聞でも起こりうる問題だから気になるのである。しかも、こうした質の低い記事を新聞が掲載すればするほど、新聞に対する信頼はもとより新聞の権威が失われることに危機感を感じるのである。
 多分、この記事を書いた記者は朝鮮問題の専門家ではないであろう。外務省の高官や政治家から受けた説明を、そのまま受け売りで書いたのではなかろうか。外務省の役人が言うのだから間違いない、といった考え方で記事を書かれては困るのだ。新聞は、役所の広報紙ではあるまい。役人の言ったことに少しも疑問を差し挟まない対応が、私には気になるのである。役人や外交官よりも知恵と知識あふれる専門家が、日本には大勢いるという事実への恐れをまったく抱かずに、記事を書かれては困るのである。
日本と朝鮮半島の望ましい関係
 訪朝団に成果はあったのか。四党合意文書を検討してみよう。前文には「一九九〇年九月・・・歴史的な三党共同宣言を採択した」と記されている。この「歴史的な」の表現は、日本側が「歴史的な事実として認識」との表現を盛り込もうとして、逆に北朝鮮側に「歴史的」という表現を使われてしまったという。日本側は「歴史的事実」との表現で「すでに過去のものとして棚上げする」との意味を持たせようとしたのだ。
 しかし、韓国語でも朝鮮語でも「歴史的」という言葉は、きわめて重い意味を持つ言葉である。「歴史的事実」と表現しても、重要だという意味に変わりはない。この表現は、自民党側が国会対策の感覚で社会党の立場を配慮するために考え出したものという。だが、国際関係ではあいまいな表現や玉虫色の記述は、後で問題を生じることになる。言葉の解釈や概念は、きちんとしておかなければならないのである。
 国内政治の国会対策的な感覚で、訪朝団が派遣された事実は、一九九〇年の金丸訪朝団の教訓を学んでいなかったことになる。外交問題を、国内政局の感覚で扱うのはきわめて危険であるのだ。北朝鮮側が与党訪朝団を受け入れるについては、北朝鮮側の事情があった。この「事情」には、内部対立や北朝鮮側の「弱さ」もかくされていたという。与党訪朝団を招待した金容淳書記は、政治的苦境に立たされていたという。こうした「事情」についての、情報入手やきちんとした分析を行なったうえで対応するのが、「外交」の基本である。相手の強さと弱さを検討せず、また戦略的対応と駆け引きもない行動を、「外交」と呼べるのだろうか。
 正常化交渉の再開については「徹底した関係改善のため」「自主的かつ独自の立場」でとしている。この表現は、北朝鮮側からすれば、日本側に「正常化問題と関係のない」核問題や、李恩恵問題を持ち出せない枠をはめたことになる。交渉の席で日本側が、「南北対話再開」や「軽水炉問題解決努力」を求めると、「関係改善と関係ない問題」として拒否できる根拠を北朝鮮に与えてしまった。
 日本政府はこれまで、政党の合意に政府交渉はしばられないと主張してきた。しかし、外務省からアジア局の竹内審議官が同行し、通訳や合意文書の作成に外務省の職員がかかわった以上、「関係ないとはいえない」と北朝鮮側は主張するはずだ。こうしてみると、今回の与党訪朝団の合意文書は三党共同宣言を棚上げするよりは、むしろ三党共同宣言の効力を確認する結果に終わったというしかないだろう。
 日本の朝鮮半島外交は、将来にわたる友好な関係を築ける最後の機会を迎えている。日朝正常化から、南北統一に向かう歴史の転換点でどのように日本が対応するかは、重大な問題である。日本がその選択と対応を誤ると、再び将来に禍根を残すことになりかねない。日本の政治家と企業は、日朝正常化にともなう資金供与から利益や利権を受けないとの立場を明確にすべきであろう。北朝鮮の党幹部は、与党訪朝団が派遣されれば「日本との窓口は、○○先生一本にします」と、自民党幹部に伝えてきたといわれる。両国民の利益を無視して、こうした裏のチャンネルに外交を左右させてはなるまい。利権疑惑がつきまといやすい日朝関係との訣別を、歴史は求めている。
 さらに、南北統一にあたっては最大限の協力と経済支援を惜しまず、かつ利権を求めない立場を表明すべきである。それが、百年、千年先の日本と朝鮮半島のお互いに尊敬される関係づくりの基礎になる。日本の政治家や与党訪朝団には、こうした理念づくりとその実践を期待したかった。日本は、いまその最後のチャンスに直面していると私には思えるのだ。
著者プロフィール
重村 智計(しげむら としみつ)
1945年生まれ。
早稲田大学卒業。
毎日新聞社ソウル特派員、ワシントン特派員、論説委員を経て拓殖大学教授。現在、早稲田大学教授。
 
 
 
 
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