◆二、経済建設への軍隊の動員
一九八〇年代後半の北朝鮮にとって、南北経済格差の急速な拡大ほど深刻な問題はなかった。経済力の格差は国力の格差、とりわけ通常戦力の南北格差を意味せざるを得なかったからである。それを解消するために、第三次七ヵ年計画(一九八七〜九三年)では、「社会主義完全勝利の物質的、技術的土台」を構築し、「堂々と世界の先進諸国の仲間入りをする」ことが企図されたのである。しかし、社会主義陣営の崩壊に伴う対外経済関係の破綻が、その希望を完全に挫折させた。
九一年以後、最も重要なソ連からの原油や小麦の輸入が激減し、対ソ貿易は一〇分の一の規模にまで縮小した。外貨獲得のために、北朝鮮は資本主義市場に参入せざるを得なかったが、その準備も整っていなかった。そのため、九三年一二月の労働党中央委員会総会において、姜成山総理は経済計画の未達成を公式に確認しただけでなく、翌年以後の二〜三年間を「緩衝期」と規定し、「農業第一主義、軽工業第一主義、貿易第一主義」を掲げる「革命的経済戦略」を採用したのである。
しかし、それにもかかわらず、九四年七月の金日成主席の死去、九五年以後の相次ぐ自然災害など、その後も、北朝鮮は連続的な不幸に直面した。そのため、九六年一月一日の三紙共同社説は、「我々は現在最も困難な環境の中で社会主義を建設している」と強調し、全党員、軍将兵、人民に「苦難の行軍」を要求したのである。事実、九五年以後、北朝鮮は国際的に食糧支援を要請せざるを得なくなったし、軽工業生産が低下して、貿易第一主義も実行不可能になった。
九五年以後の三年間は朝鮮戦争以来最も困難な時期であった。外部で体制崩壊が盛んに論じられる中で、北朝鮮指導部に残されていたのは、経済分野においても、軍隊への依存を拡大することであった。九七年四月、金正日は「苦難の行軍で勝利しようとすれば、農業生産を高めなければならないが、人民軍隊が動員されなければ、この問題を解決できない」と言明し、「人民軍隊は今年の農作業に一人残らず参加せよ」と命令したのである。事実、五月の田植え以後、人民軍が農作業に大々的に動員された。
九八年には、「苦難の行軍」に続いて「最後の勝利のための強行軍」が開始され、農業分野だけでなく、発電所建設、石炭採掘、自然改造事業などに軍隊が本格的に動員された。電力生産の正常化のために、前年一〇月、金正日はすでに北倉火力発電所の電力設備補修工事と一〇カ所余りの浸水坑の復旧工事に軍隊を動員していた。しかし、一月一日に錦繍山記念宮殿を訪問した後、人民軍第三三七軍部隊を視察して、ついに「すべての軍人を経済建設の突撃隊に押し立てる」方針を表明したのである。
安辺青年発電所第二段階工事、泰川水力発電所のほかにも、江原道および平安北道の土地整理事業、价川―泰川湖水路、東海と西海の製塩工場などの建設に軍隊が動員された。こうして、九月九日の建国五〇周年記念日を前に、軍隊を先頭に立ててあらゆる難関を突破するという「金正日式政治方式」、すなわち「軍事優先(先軍)革命領導」が出現したのである。八月三一日に打ち上げられた「人工衛星」は、国民に希望と勇気を与える祝砲であるとともに、新たな献身を要求する信号弾でもあったのである。
建国五〇周年記念日が北朝鮮国家の再生と再出発のための機会として設定された以上、当然ながら、そこで提示された新しい経済戦略は重工業優先の民族経済への回帰であった。九月一七日の「労働新聞」と「勤労者」の共同論説は、「自立経済か、対外依存経済か」という根本問題を提起し、軽工業や貿易への偏重と「改革と開放」を批判し、「自立だけが生きる道である」と結論したのである。軍隊を経済建設に動員し、労働者を「第二の千里馬大進軍」に駆り立てる自力更生の経済戦略が「強盛大国」建設の道となった。
さらに、九九年一月一日の三紙共同社説は「今年を強盛大国建設の偉大な転換の年として輝かせよう」と題して、金正日の軍事優先革命領導の下での思想、軍事、経済大国の建設を呼び掛けた。また、六月一六日の「労働新聞」と「勤労者」の共同論説は「我が党の先軍政治は必勝不敗である」と題して、軍事優先政治こそが、金日成死後、五年間の試練を克服した「我々の時代の最も威力ある理想的な政治方式である」と宣言した。それは「革命と建設のいかなる困難な課題も解決できる万能の政治」だったのである。
著者プロフィール
小此木 政夫 (おこのぎ まさお)
1945年生まれ。
慶應義塾大学大学院博士課程修了。
韓国・延世大学校留学、米国・ハワイ大学、ジョージワシントン大学客員研究員などを経て、現在、慶應義塾大学教授。
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