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◆一、軍重視の政治体制の誕生
 金日成死後の北朝鮮における最も重要な変化の一つは、その権力構造における軍部の台頭である。一九九四年七月九日に発表された国家葬儀委員会の名簿(二七三人)の配列は一五年前の第六回党大会の配列とほぼ同じであったが、二年後に開催された中央追慕大会の名簿では、朝鮮人民軍の李乙雪元帥、趙明禄総政治局長・次帥、金永春総参謀長・次帥の三人が労働党政治局員と政治局員候補の間に割り込んで、注目を浴びた。例えば李乙雪の序列は第七七位から一挙に第一一位に上昇したのである。
 また、その間に、金正日委員長の軍部隊視察が繰り返された。北朝鮮の文献によれば九五年一月一日に人民軍二一四部隊を訪問してからの五年間に、それは実に四三〇回に達した。さらに、九五年二月、三月に労働党中央軍事委員会の補充人事が判明したのに続いて、一〇月には軍首脳の階級昇進、新しい指導部の形成(崔光国防相、金光鎮第一次官、金永春軍総参謀長、趙明禄軍総政治局長)が進行した。また、九七年二月から四月にかけて、金正日は側近の軍人四人を次帥に、五人を大将、八人を上将に任命するなど、中将、少将を含めて一二九人を昇進させた。
 しかし、金正日委員長の軍重視の方針が公式かつ明確に表明されたのは、九七年二月一五日の金正日誕生五五周年慶祝中央報告大会でのことである。金永南政治局員・副首相が読み上げた朝鮮労働党中央委員会、朝鮮労働党中央軍事委員会、共和国中央人民委員会、政務院の共同祝賀文が「金正日同志は革命軍隊が革命の主体の核心勢力、主勢力をなし、軍隊がまさに人民であり、国家であり、党だという独創的な軍重視思想を提示し、主体的な軍事建設偉業を勝利に導いた」と指摘したからである。
 この時点で、朝鮮人民軍はついに朝鮮労働党と同等の地位に置かれ、金正日が党と国家と軍隊の統率者であることが明示されたのである。同年一〇月八日、朝鮮労働党の人民軍、道市、省その他の代表会の推戴によって、金正日が「朝鮮労働党中央委員会総書記」ではなく、「朝鮮労働党総書記」に就任したのも、同じ理由に基づくものである。金正日の地位は単なる「中央委員会総書記」以上のものだったのである。「金正日総書記=朝鮮労働党」という意味で、これは労働党中央委員会の地位の著しい低下を示していた。
 また、そのような金正日の軍重視思想を「軍重視の国家政治体系」として確立したのが、九八年九月の最高人民会議における憲法改正であった。なぜならば、新しい憲法の下では、国防委員会が最高人民会議常任委員会や内閣よりも上位に置かれ、金正日が推戴された国防委員会委員長が「国の政治、軍事、経済力量の総体を統率、指揮する国家の最高職責」(金永南演説)であると説明されたからである。
 「国家主権の最高軍事指導機関であり、全般的国防管理機関」と規定された国防委員会が、政治、経済を含む国家の総体を統率、指揮する理由は改正憲法にも必ずしも明記されていない。憲法の構成から「軍事優先」の基本路線が推定されるのみである。また、最近の北朝鮮の文献は、新しい政治体系を「国家機構自体を軍事体制化するものではなく、国家機構体制において軍事を優先視し、軍事分野の地位と役割を最大限に高める」ものであると説明している。第三世界のいわゆる「軍事政権」とは異なるという主張である。
 以上見てきたように、北朝鮮における「軍重視の国家政治体制」の形成は、金日成死後、軍部自身が独自の権力基盤を開発したためであるよりは、一九八〇年代末以来、北朝鮮が直面する内外の危機状況の下で、軍部の役割が積極的に拡大された結果であった。軍部の比重の増大は否定すべくもないが、それは軍部の金正日への反逆や「権力共有」を意味するものではない。「金正日総書記=朝鮮労働党」という新しい形態で、金正日による軍部掌握が保証されたのである。
 事実、九一年一二月の金正日の人民軍最高司令官就任以来、軍重視の方針は既に段階的に実行に移されていた。前述の軍人事や軍部隊視察は金正日の元帥就任(九二年四月)と同時に開始され、一九九三〜四年の核危機の中で進展したのである。従って、一九九二年四月の人民軍創建六〇周年の閲兵式で金正日元帥が「英雄的朝鮮人民軍将兵たちに栄光あれ」と叫んだのも、九三年三月に「準戦時状態」を宣布して核拡散防止条約(NPT)を脱退したのも、軍重視の政治体制形成に向けての前進と無関係ではなかったのである。
 
 
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