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最後に北朝鮮の日本観と日本の北朝鮮観のはげしい対立ということを考えてみなければならない。北朝鮮では、間歇的に日本批判が『労働新聞』の紙面を中心に吹き上げる。日朝交渉が決裂した二〇〇〇年の最後の数ヵ月において、日本に対する批判が連日のようにこの新聞に掲載された。一〇月八日号の「東京の真中で、なぜ軍靴の音を響かせねばならぬのか」からはじまって、一四日号、二一日号、二三日号、二五日号、二六日号、二九日号、一一月三日号、五日号、九日号、一一日号、一二日号、一三日号、一五日号、一六日号、一八日号、二一日号、二二日号、二三日号、二五日号、二六日号、二八日号に日本批判が掲載された。
そしてその上に一二月一日号には評論員論文「過去の清算がない関係改善は夢にもおもってはならない」が掲載された。この論文は次のような言葉ではじまっている。
「日本は一体どんな国なのか。日本の良心と道徳、思考方式ははたしてどういうものか。日本とつき合わなければならないのか。つき合ってはならないのか。日本を見れば、見るほど、幻滅を禁じ得ない。」
筆者は、日本ではすぐる会談で日本側が日韓条約方式の「経済協力」を提案したのに、朝鮮側がこれを拒否したと報道されているのに強い不快感を表している。
「いま日本でよく出てくるあれこれの声を総合してみれば、すべてわれわれに『問題』があるというものだ。言いかえれば、日本は『大きな善意』をそそぎ、われわれにカネを与えてまで、関係を改善しようと『積極努力』するのに、われわれが固執して、反対しているために、結び目が解けないでいるというのだ。」
筆者は清算とは謝罪と補償だと端的に述べている。
「過去の清算はしてもいい、しなくてもいいということではない。日本が、過去の罪行を認め、それに従った謝罪と補償をすることは回避できない法的、道徳的義務だ。ところで、日本は自己の法的責任と道徳的義務を履行しないでいる。まさに日本のこのような誤った態度と立場のゆえに、朝日両国は久しい歳月が経過した今日までも敵対関係から脱しえないでいる。朝日間の敵対関係を解消する最善の方途は日本が謝罪と補償をすることだ。それをはなれた朝日間の敵対関係解消というものは論議することもできないし、期待することもできない。朝日関係改善は本質において過去の清算に基礎をもち、善隣友好関係を樹立することだ。したがって、これまた過去の清算がなされるときにのみ、実現されうるのだ。」
この長大な論文は次のように結ばれている。
「われわれの感情を傷つけるようにする日本のまちがった行動が程度をこえるなら、われわれの我慢も切れるかもしれない。そのときになって、後悔したとして、なんの役に立つだろうか。後悔はいつも先にたたずである。日本は健全な思考と立場を立てて、良くない兆しがあらわれている現実を沈思熟考してみなければならず、誠実な態度で進まなければならない。われわれは以後、日本の態度を綿密に注視して見ながら、われわれの決心通りに行動していくだろう。」
これに対して日本ではどうか。日本では過去一〇年間(一九九一―二〇〇〇年)に四〇一冊の北朝鮮関係書籍が刊行されている。これは北朝鮮の指導者の著作は除いている。年平均四〇冊ということである。それまでの五年間(一九八六年―九〇年)が、年平均一〇冊であったので、過去一〇年間は北朝鮮に対して異常な関心が向けられた時期だということが分かる。この九〇年代の書物の中には私の書いた本も四冊入っているが、圧倒的な部分は北朝鮮を批判、非難、攻撃する本である。二〇〇〇年には四七冊の本が出ていて、そのうちいくつかの本のタイトルをあげると、次の通りである。『続金正日への宣戦布告 狂犬を恐れるな』、『北朝鮮拉致工作員』、『北朝鮮・日本侵略!』、『越境――北朝鮮から売られてきた花嫁』、『北朝鮮絶望収容所』、『追跡!!北朝鮮工作船』、『こんなに困った北朝鮮』、『北朝鮮・泣いている女たち』、『金正日と金大中 野心と野望』、『朝鮮統一の戦慄――呑み込まれる韓国、日本の悪夢』、『金正日の哄笑――南北は本当に和解したのか』、『北朝鮮と国交を結んではならない』。
この最後の中西輝政氏の出した本の主張をみよう。冒頭に編者の論文がある。中西氏は北朝鮮に対する五〇万トンの食糧援助に反対し、日朝交渉を急ぐ姿勢に反対すると述べている。その理由は次のように説明されている。「外国の国家機関によって誘拐された日本国民の拉致問題の解決なしに、あるいはその解決を求める粘り強い主張なしには国交の正常化などありえない。」「またミサイル発射問題においても、北朝鮮によってミサイルを撃たれた国はほかにはなく、これは一つの国家規模のテロ行為といえる行動にほかならない。」「日本に対し武力による脅しをかけてきていると考えられる明白な戦争行為である。」「まずその解決は絶対に譲歩できない根本問題である。」
「拉致問題」とミサイル問題が日本の国民の関心事だとしているが、それを「解決」するとは、どういうことなのかは説明されていない。それでいて、「隣国同士で国交がないというのもそれ自体、確かにおかしなことであり、本来国交正常化は前向きに考えるべきことである」と言う中西氏が「日木人の心の原点」として力説するのは、日本政府は、「植民地化は合法的なものであった。なぜ賠償金を支払わねばならないのか」と粘り強く主張し、「北朝鮮がいくら賠償金の話をしてきても、金の話については、『全くゼロ』という回答を常にくリかえすべきある」ということである。結局のところ、いきつくところは「北朝鮮と国交を結んではいけない」ということになるのである。
この中西氏の本が出るのとほぼ同時に『中央公論』二〇〇〇年一〇月号に坂本多加雄氏の論文「なぜ急ぐ日朝との『正常化』」が発表された。この論文も「私は、実際には、日本国民の多くは、拉致事件解決を棚上げにした『正常化』を容認するほど、道徳的にも知的にも低級ではないし、相手側に完全に屈服し、その意を迎えることにただ務めることを『現実的配慮』だなどとは考えないと思う」と述べている。だが、私には、坂本氏の主張したい最大の点は、富士山丸乗組員の解放という問題をさして、「もともと、こんな事件さえなければ、北朝鮮と関係しなければならない積極的な理由は日本側には存在しなかったのである」と述べたところであるように思えた。氏の立場は北朝鮮を相手にせずというものである。氏は、戦後平和主義を否定し、「非武装無抵抗論」を侮蔑しているのだが、結局アメリカの軍事力で北朝鮮を崩壊に追い込んでもらうように期待することになるのではなかろうか(この論文は『問われる日本人の歴史感覚』勁草書房)に収録されている)。
北朝鮮と日本とのこのような論調の対立は明らかに異常である。
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