◆三
つぎに考えなければならないのは、解放後に生まれた朝鮮民主主義人民共和国と日本との関係も敵対なものであり続けてきたということである。
朝鮮戦争に生まれた二つの国家は相互に相手を否定し、自らが唯一正統的な民族国家だと考えた。北朝鮮は「国土完整」、韓国は「北進統一」を語ったが、いずれもそれは武力による統一であった。李承晩大統領が一九五一年に語ったところでは、朝鮮は「すべて民主主義になるか、すべて共産主義になるかにかかわらず、単一体になる」ことがなければ、独立国にはとどまれない、と考えられていたのである。一九四九年中は北朝鮮の願望をソ連が禁じ、韓国の願望を米国が禁じていたが、一九五〇年はじめソ連が北朝鮮に許可と支持をあたえた結果、北朝鮮は韓国に攻め込んだ。国連安保理はこれを侵略と判断し、アメリカは韓国を助けるために参戦し、日本は自動的にアメリカのその戦争の基地となった。
日本全土が基地として使用され、国鉄も海上保安庁も、生まれたばかりの警察予備隊も赤十字も、すべてが戦争に協力した。日本人海員は仁川上陸作戦に向かう第一海兵師団を運んだLST(戦車揚陸艦)四七隻のうち三七隻を動かしていた。海上保安庁の掃海艇八隻は米軍の元山上陸の前に元山港の機雷撤去作戦に参加した。他の地域も含めれば、のべ五四隻、のべ一二〇〇人の隊員が掃海作戦に参加した。これらはすべて戦闘地域での活動である。もっとも重要なのは、朝鮮戦争の全期間を通じて、東京の郊外、横田基地と沖縄の嘉手納甚地からB−29爆撃機が飛び立ち、平壌以下の北朝鮮各都市、水豊ダムなどの発電施設などを間断なく空襲したことである。
日本政府は北朝鮮の行為を侵略とした国連決議を支持し、朝鮮戦争における韓国と米国の立場に対して「精神的に」支持したが、それ以上の「積極的な」参加はできないとした。それと同時に、占領軍の命令には敗戦国として無条件で従わなければならないからという説明のもとに戦争に対する全面協力をひそかに進めたのである。国民はそのような説明しか受けておらず、横田からのB−29の出撃に対して最後まで注意を向けなかった。
北朝鮮から見れば、日本は米韓側を全面的に支援している参戦国だということになった。一九五三年七月に停戦協定が結ばれ、ついに北朝鮮全土に対する米空軍の空襲がおわったとき、金日成首相は慶祝大会の演説の中で、「わが朝鮮人民はわれわれの平和的な都市と農村を焼け野原と化した米国の空軍基地が日本にあり、また日本が朝鮮戦争において米軍の兵器廠、後方基地であったこともよく知っています。」と述べた。それは、日本からの空襲がとくに国民的な関心事であったからであろう。
朝鮮では停戦協定が結ばれたあと、平和条約は結ばれず、以後四七年間撃ち方やめの状態がつづいている。したがって、北朝鮮と日本との関係も基本的には、敵対関係のままであったのである。その時期には、北朝鮮が日本に工作船や偽造パスポートで情報員を送り込み、米軍基地や自衛隊の基地についての情報を集める等の非正規的な活動をおこなったことは当然に考えられることである。逆に日本政府がこれを警戒し、情報員の侵入を防止するためにあらゆる手段を講じたことも想像に難くない。日本の側もまた北朝鮮の情報収集につとめてきたであろう。
南北の間にはこの間、一九六八年には北の武装ゲリラ部隊がソウルの大統領官邸の裏山にまで迫るということもあった。七〇年代の韓国民主化運動の高まりの中で、七九年には朴正煕大統領がKCIA部長に暗殺されるという事態がおこり、八〇年には光州で市民がクーデターに抗議して武器をとり、逆にはげしい平定作戦を受けるというような状況に連なった。北朝鮮もこれに介入しようとしたと考えられる。八三年のラングーンでの全斗煥大統領に対するテロルがその中でおこっている。八七年の大韓航空機爆破事件にいたるまで、真相はなお不明な点がのこるが、冷戦という大状況の中での南北対立を基礎にして、敵対している相手に対しては手段を選ばずに対応するという敵対の論理が支配していた。それが日朝関係をもおおっていたのである。
日本と北朝鮮が敵対的な関係にあったという中でさまざまな問題が発生した。一九七〇年に日航機よど号をハイジャックした赤軍派が平壌に亡命し、北朝鮮が彼らを受け入れたということも、まさにこの敵対関係の中で可能になったことである。赤軍派は国際的な革命を追求するという立場で平壊を拠点にして、日本への働きかけを進めたことが知られている。そのために日本人女性を妻として、日本に送り込んだことも明らかになっている。欧州から若い日本人を平壌に誘い、その人々を仲間に獲得することが試みられたと指摘する文献があるが、そのようなことがあってもおかしくないと思われる。その人々が説得に応じなければ、北朝鮮にそのまま滞在させることにしたのであろう。
九八年八月にはいわゆるテポドンの発射があった。日本の上空を飛び越えて行ったミサイルが太平洋に落下した。北朝鮮は衛星の打ち上げだと発表したが、それなら事前に通知するのがノーマルな国家間の関係である。それをしないということは敵対的な関係にあるということを意味する。
革命運動のためならば、敵対している国家間であれば、何事でも許されるということが、ある時代の精神であったように思われる。冷戦が終わリ、社会主義が終焉し、南北朝鮮の和解が進んだ現在では、国際関係のルール、法秩序に挑戦するそのような行動はすでにほぼ否定されている。
日本政府と国民の側から見れば、朝鮮戦争には自分たちは関係がないという気分であり、その後の敵対関係についても、自分たちにはその気はなかったということになるのである。しかし、いまどちらの側に責任があるかということではなくて、両国の関係はきびしい敵対関係にあったし、いまもそうだという事実を直視することが必要である。
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