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◆二
 あらためて日本と朝鮮民主主義人民共和国の関係を考えてみれば、両国の関係はきわめて異常なものだと言わなければならない。日本にとって朝鮮はもっとも近い外国であり、古来よりもっとも深い人間的な関係をとり結んできた隣国であるにもかかわらず、朝鮮半島に存在する二つの国家のうち、大韓民国と国交を樹立しただけで、もう一つの国とは今日にいたるまで国交をもっていない。この国は今日、日本がこの地球上で国交を持っていない唯一の国なのである。国の安全保障ということを真剣に考えれば、このような状態を一刻も早く解消するのがまともな政府、国民のとるべき道である。
 しかもこの国の国民には、かつて日本は植民地支配を通じて、多大の苦痛と損害をあたえている。その事実についてあらためて述べる必要はないであろう。日本は韓国に対してもながくその事実を認めなかった。しかし、一九九〇年代に入り、日本政府も態度をあらため、一九九五年八月の村山総理談話によって反省と「お詫び(韓国語では謝罪)」を表明し、一九九八年にはその村山談話の精神にもとづいて日韓共同宣言に調印した。そのような反省と謝罪を朝鮮の北部に住む人々も待っていた。しかし、南部の人々に表明されたそのような反省と謝罪が北部の人々には及ぼされていない。北朝鮮の人々の苛立ちが増していると考えられる。
 実は植民地時代において朝鮮北部は独特な相貌をもっていた。ここは朝鮮のキリスト教の中心地であった。平壌は東洋のエルサレムと言われたほどに、教会が多かった。朝鮮の教会に神社参拝が強要された時、もっとも執拗に抵抗したのは平壌の長老派教会であった。朱基徹牧師は神仕参拝を拒否し、獄死した。もとよりキリスト教は北朝鮮建国ののち政権の圧迫を受け、多くの牧師、信者が南へ逃れたのはたしかである。しかし、北の地でキリスト者が日本の植民地支配に抵抗したことは、北部の朝鮮人全体に影響を与えた事実である。
 さらに朝鮮北部は朝鮮の共産主義運動の拠点でもあった。ここには大工場がつくられ、労働者が多くいた。元山のゼネストも知られており、咸興、興南、城津、清津などの地は共産主義運動がとくにさかんであった。共産主義者は日本の官憲ともっとも激しく闘った人々である。
 北部朝鮮からは満州への移民が多く出た。その中には政治亡命者も少なくなかった。日本の植民地当局の弾圧を逃れて、満州に運動の拠点をつくることは民族主義者も共産主義者もひとしく行った。そして朝鮮民主主義人民共和国を建国した指導者金日成氏は、満州で中国共産党に入党し、抗日武装闘争を行う部隊の指導者となった。日本の官憲は金日成氏らを討伐しようと、執拗に探索した。日本の軍と警察は指導者金日成に懸賞金をかけ、彼を捕らえたら、その首を切り落として、市中にさらすつもりであった。遊撃隊の指導者を父として、遊撃隊員を母として、遊撃隊のキャンプに生まれた金正日氏にも、日本との敵対の感情が刻印されている。
 北朝鮮では、金日成の抗日遊撃隊闘争史こそ建国のイデオロギーである。一九六七年には「抗日遊撃隊員のように革命的に生き働こう」というスローガンが生まれ、それは一九七四年には「生産も学習も生活も抗日遊撃隊式に」というスローガンに取リ替えられた。北朝鮮では、日本の植民地支配に対する憎しみの記憶はいまも生々しいのである。
 
 
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