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◆「拉致疑惑」の問題化
 「拉致疑惑」はどのように明らかにされ、問題となってきたのであろうか。
 日本の中でこの問題が最初に話題になったのは、一九八〇年の新聞報道によってである。
 一九八〇年一月七日、サンケイ新聞は一面トップの記事で、「アベック3組ナゾの蒸発」「富山の誘かい未遂からわかる」「警察庁が本格捜査」「外国情報機関が関与?」「同一グループ外国製の遺留品」との見出しをつけて、報道した。七八年夏、福井、新潟、鹿児島でおこった三組のアベック蒸発事件と富山の未遂事件について、警察庁が一月六日に「同一犯人によるものと断定した」、「富山の現場に残された犯人グループの遺留品が、国内では入手不能なことや、失跡当時、現場に近い沿岸でスパイ連絡用とみられる怪電波の交信が集中して傍受されていることなどから、外国情報機関が関与している疑いも強く出ている」と書かれていた。アベックを連れ去る理由としては、その戸籍を入手して、何らかの“工作”に利用しようとしたのではないか、と推定されているとしている。
 この日は富山の未遂事件をくわしく紹介し、翌八日には、三組のアベック連続蒸発事件をくわしく紹介した。九日には、「ナゾの連続蒸発二年半前に類似事件」「戸籍取得が目的だった」として、「久米豊」さんの事件を紹介している。この事件の際、警察が在日朝鮮人を逮捕し、久米さんをだまして連れだし、工作船に乗せたという自供をえたと書いている。久米さんは戸籍謄本二通を所持していた。
 こうして、政府承認の(1)、(4)、(5)、(6)、(7)の四件・七人、未遂一件・二人の事件がはじめて拉致疑惑事件として明らかにされた。警察からえた情報をもとにこの記事を書いたのは、同社の記者阿部雅美氏であった。
 だが、一九八〇年という年は、前年一〇月に朴正煕大統領が暗殺された直後で、五月には、全斗煥将軍のクーデターがおこり、光州では民衆抗争、ソウルでは金大中氏らが逮捕され、軍法会議にかけられるという年であった。そのせいか、アベック「拉致」事件の報道は一紙だけの報道にとどまり、社会的にはほとんど注目されずに終わったのである。
 次に報道がなされたのは、この一九八〇年六月二〇日におこった拉致事件の報道で、それは一九八五年六月二八日に韓国国家安全企画部から発表された。北朝鮮スパイ辛光洙と彼に包摂された在日朝鮮人金吉旭、方元正を逮捕した。辛は大阪の中華料理屋で働いていた日本人原敕晃さんを一九八〇年に宮崎海岸から拉致して、原さんになりすまし、原名義のパスポート、運転免許証などを取得したという内容だった。各紙は一斉にこの日の夕刊でこの内容を報道したが、朝日新聞はそのさい「過去にもら致事件?」として、警察庁が七八年のアベック蒸発事件などの関連に注目していると書いた。翌日、さらに朝日新聞は、辛光洙事件は西新井事件との類似性があると報道した。西新井事件とはこの年三月に警視庁が摘発したもので、日本国内の北朝鮮工作員が一九七九年に、北海道出身で二〇年間家出状態にあり、山谷に住み着いていた小住健蔵さんと接触し、彼になりすまして、旅券と運転免許証を取得して、工作を続け、八三年日本から出国したというものである。このとき、また「久米豊」さん事件も報じられた(朝日新聞、一九八五年六月二九日)。
 この辛光洙事件が政府承認の事件(8)である。なおこのとき話題になった西新井事件は政府承認の「拉致疑惑」事件には含められていない。北朝鮮は辛光洙事件の発表に対して、一切の関与を否定する声明を発表した。しかし、辛光洙事件の報道も日本国内では特別の反応をよびおこさなかった。
 直接日本とは関係がないが、有名人の「拉致」として注目を集めたのは、韓国の映画監督申相玉と女優崔銀姫の件である。彼等は北朝鮮から脱出して、一九八七年三月一五日に記者会見をおこない、自分たちは一九七八年に北朝鮮に拉致されて以来、北朝鮮の映画づくりに協力させられていたと発表した。
 重要な変化は一九八七年一一月二九日の大韓航空機爆破事件ののちに生じた。実行犯の一人として金賢姫なる女性が日本人蜂谷真由美の偽造パスポートをもって逮捕された。八八年一月一五日、韓国国家安全企画部の捜査結果の発表の場に同席した彼女は、北朝鮮に拉致されてきた日本人女性に日本人化教育を受けたと語って、衝撃を与えたのである。一月二二日外務省の田中北東アジア課長が訪韓し、失踪アベック三組の女性の写真を見せたが、金賢姫は会ったことがないと否定した。二月二−六日、警察庁の捜査官が訪韓し、金賢姫から事情を聴取した。二月七日の安企部の発表によれば、「李恩恵」とよばれたこの女性は、三歳の男子と一歳の女子をのこして、日本の海岸から拉致されてきた三〇歳程度の離婚した女性(誕生日七月五日)だとのことであった。日本の警察はモンタージュ写真を作成して、関係者を探しはじめた。
 新聞各紙は社説をもって、この事件を取りあげた。二月九日の読売新聞は「李恩恵」事件の「真相解明を急ぐべきであり、北朝鮮側によるら致が事実とあれば、わが国は北朝鮮に対し、原状の回復を求め、同時にその責任の所在を明確にするための適切な措置をとることが必要である。わが国からわが国民をら致するような国にたいしては、・・・毅然として対処すべきである」と書いた。朝日新聞も同日の社説で、「事実とすれば、日本の主権にかかわるきわめて重大な事件である。他の国の機関が、日本国内から力ずくで日本人を連れ去るといった理不尽なことが許されるはずはない」と書き、三組のアベック事件についても拉致疑惑があると指摘した。
 『正論』三月号には、八〇年一月の産経新聞の連日の記事を書いた阿部雅美氏が「九年前に取材した“真由美”の教師」という文章を書き、アベック三組、未遂一組と「久米豊」事件について再論した。
 三月二六日、日本共産党の橋本敦参議院議員が予算委員会で拉致問題を質問した。これは国会での最初の質問であった。そのとき取りあげられ論議されたのは、李恩恵事件、一九七八年の三組のアベック失踪事件とアベック誘拐未遂事件、辛光洙事件などであった。これらの資料は橋本氏の秘書であった兵本達吉氏の調査により集められたものであった。城内康光警備局長は熱心に答弁し、立ち入った内容を与えた。
 日本共産党は北朝鮮労働党との対立を経て、北朝鮮の体制をきびしく批判する立場に立っていた。橋本議員は、一連の拉致事件は「北朝鮮工作グループの犯行だという疑いがぬぐい切れない」とし、そうだとすると、これは「誘拐された国民に対する重大な人権侵犯、犯罪行為であると同時に、我が国の主権に対する明白な侵害の疑いが出てまいる」ので、「主権国家として断固たる処置を将来とらなくてはならぬ」、これは「もう既に国民世論だと思う」と述べた。
 これに対して梶山静六国家公安委員長は「一連のアベック行方不明事犯、恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚でございます。解明が大変困難ではございますけれども、事態の重大性にかんがみ、今後とも真相究明のために全力を尽くしていかなければならないと考えております」と述べ、宇野宗祐外務大臣は、同じ意見だとして、「このような今平和な世界において全くもって許しがたい人道上の問題がかりそめにも行われておるということに対しましては、むしろ強い憤りを覚えております」と述べた。林田悠紀夫法務大臣も「重大な関心を持ってこれを見守っており、これが判明するということになりましたならばそこで処置をいたしたいと存じております」と述べた。これは日本政府の最初の判断であった。
 だが、このような警察の捜査活動の結果が国会質問でとりあげられるという展開も、それ以上には発展しなかった。まさにこのとき日朝交渉を求める動きが高まると、「拉致疑惑」は後景に退き、第一八富士山丸事件が問題として急浮上した。この事件は一九八三年におこった事件である。その年一一月一日同船の船長紅粉勇氏と機関長栗浦好雄氏は、北朝鮮の一兵士が密航しようと船にもぐりこんだのを知らずに乗せて帰った。自分たちに責任があると思っていない同船長らは一一月一五日北朝鮮に寄港したが、密航幇助の容疑でそのまま逮捕投獄されてしまったという事件である。
 一九八八年八月一五日の土井たか子社会党委員長の声明からはじまった日朝交渉の提案は、九月八日に発足した朝鮮政策の改善を求める会にうけつがれ、翌八九年三月、同会は、声明「政府に朝鮮政策の転換を求める」を発表した。その月のうちに、竹下総理は国会で、朝鮮との過去の関係に対する「反省と遺憾の意」を表明し、その線上で、九〇年九月二八日、金丸、田辺訪朝団の朝鮮労働党との三党共同声明が発表されるにいたった。一〇月一一日、小沢自民党幹事長、土井社会党委員長が訪朝して、第一八富士山丸関係者紅粉、栗浦両氏を引き取って、日本に帰った。翌九一年一月三〇日、日朝国交交渉本会談がはじまるのである。
 これに対して、日朝交渉開始に対して反対する側が拉致問題に注意を向けていた。現代コリア研究所所長佐藤勝巳氏は一九九一年四月に著書『崩壊する北朝鮮―日朝交渉急ぐべからず』(ネスコ・文藝春秋)を刊行したが、その末尾で、次のように書いている。
 「非合法に北朝鮮に拉致されているとみられている日本人は現在判明しているだけでも、石川県の漁民三名(一名北で死亡)、福井、新潟、鹿児島各県のアベック各一組六名、三鷹市元職員一名、大阪の中華料理店のコック一名、金賢姫の日本語教師李恩恵、最近表面化したヨーロッパから拉致されたと推定される三名の計十五名にのぼる。」
 「日本人が拉致され、テロリストが日本人のパスポートを使用するということで、日本の主権が侵されている典型的な例だ。昔なら、これだけでも戦争になったのではなかろうかと思える。だが、日本政府は、なぜか問題にしていない。」
 「北朝鮮が日本人を拉致したり、日本人の旅券を使用しテロをおこなっているのは、日本の国際信用を悪用した許し難い主権侵害なのである。しかるに、わが外務省は、『李恩恵』問題を事実上棚上げにして、その他の拉致や偽造旅券問題を非公式会談でも取り上げていない。」
 ところで、開始された日朝国交交渉の過程において「拉致疑惑」問題は取り上げられるにいたった。一九九一年五月一五日、埼玉県警は李恩恵は埼玉県のTYさんであることが判明したと記者会見で発表した。TYすなわち田口八重子さんである。(注)
 
(注)『サンデー毎日』二〇〇〇年一一月一二日号は北朝鮮問題取材班の記事をのせているが、その中で、「李恩恵」の生年月日が韓国安全企画部では一九五七年七月五日だと発表されたのに、日本警察が同定した田口八重子氏の戸籍では生年月日は一九五七年八月一〇日であると親族が語っており、食い違っていると指摘されている。
 
 ただちに五月二〇日にはじまった第三回交渉の席上、日本代表は李恩恵(田口八重子)の消息調査を求めた。北朝鮮側は激しく反発した。八月三〇日にはじまった第四回交渉のさいも、本会談に先立つ非公式会談で日本側は「李恩恵」の調査を要求した。
 一〇月、金賢姫の手記『全告白・いま、女として』上下が文藝春秋から出版された。そのまえがきに、金賢姫はこの年五月一五日、日本の警察に写真を見せられ、李恩恵を確認したことが述べられた。第二七章には「李恩恵先生との出会い」が語られている。
 李恩恵には一九七九年に三歳の息子と一歳の娘がいたが、どこかの海岸に遊びに行って、浜辺を散歩しているとき、北朝鮮の船に拉致されたと書いている。一九八一年七月にはすでに彼女は朝鮮語を話すようになり、金賢姫の日本教師となったという。
 一九九二年一一月五日、第八回交渉のさい、日本側は、非公式会談であらためて「李恩恵」の所在確認を求めたが、北朝鮮側はこれを拒否し、そのまま日朝交渉は決裂するにいたった。「拉致疑惑」問題は日朝交渉の決裂の一つの要因となったのである。
 一九九四年村山内閣が発足すると、北朝鮮との交渉再開を求める動きがおこった。この年七月、在日朝鮮人女性朴春仙さんの手記『北朝鮮よ、銃殺した兄を返せ!』(ザ・マサダ)が刊行された。この手記の主張の重点は、帰国してピョンヤン放送局のアナウンサーになっていた兄がスパイ容疑で処刑されたことを告発して、北朝鮮を批判するところにあったが、それとともに、彼女が一九七三年から三年間ほど同棲した男が一時日本を離れていたあと、一九七八年に戻ってきたこと、一九八一年に再会したときには日本人名のパスポートをもっていたこと、その男が韓国で逮捕された辛光洙だったことも書かれていた。
 九四年は北朝鮮をめぐる戦争の危機が現出し、カーター訪朝後かろうじてその危機が緩和されたのだった。一転して、南北首脳会談も開催されることになったが、七月金日成主席が死去し、首脳会談も流れた。米朝の関係はある程度改善されたにもかかわらず、南北関係はふたたび悪化した。九五年三月九日にはKEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)が発足した。その直後三月三〇日には渡辺美智雄団長の与党三党代表団が訪朝し、国交正常化早期実現、前提条件なしの国交交渉再開、自主独立の立場の確認などをうたった共同声明を発した。日本政府は、六月三〇日、米三〇万トン(無償一五万トン)の援助を決定したが、この決定にたいして強く反発したのが韓国の金泳三政権であった。
 まさにこのとき、一九九五年六月三〇日、金賢姫『忘れられない女・李恩恵先生との二十ヶ月』が文藝春秋から出版された。そのカヴァー広告には、「李恩恵先生の救出に日本は全力をあげるべきです」と書かれていた。
 金賢姫は序文において、日本では辛光洙事件の原敕晃氏や李恩恵(田口八重子)が「一般大衆に愛される人気者や著名人」でないので、無関心のままに放っておかれていると批判し、「田口八重子の召還のために日本のみなさますべてが気持を一つにすれば、たとえ李恩恵(田口八重子)の存在自体を否定している北朝鮮であっても、彼女を日本に送り返さざるをえないでしょう」と主張している。
 本文の最後の方に「女子高生も拉致されている」という章が置かれている。いろいろな人が拉致されているという話を「招待所の小母さん」からきいたと書かれている。
 「ある人は、連れてこられるときから強く反抗したために、北朝鮮に着いたときには満身傷だらけの姿であった」とか、「ある日本の男性は、とても心がきれいで大工仕事をよく手伝ってくれたという」とか、「ある日本人夫婦は、海辺でデートを楽しんでいたところを拉致され、北朝鮮で結婚式を挙げたという」とか述べられているが、これはすでに問題になっているケースを取り込んで創作した話のように見える。
 これは彼女の最初の手記にはまったく出てこなかったことである。だが、ここには「また、拉致された人のなかには、まだ高等学校に通っていた少女もいたという。その女生徒は金持ちの娘だったのか、自分のものを洗濯することさえできなかったという」というくだりもある。少女拉致の話は金賢姫によって最初に提起されたのである。
 結論として、金賢姫は李恩恵問題が日朝交渉を決裂に追い込んだことを確認し、「北朝鮮としては、この問題を認めてしまうと、北朝鮮はKAL機爆破事件に自分たちが関与していた、ということを認めることになる。だから『北朝鮮』の論理としては、日本に対してこのような対応をとらざるをえないわけだ」と述べている。そのように言いながら、「日本のみなさまにも問いかけたい。『いまも北朝鮮の奥深い山のなかで故郷と家族を懐かしみ、涙を流している田口八重子をこのまま見殺しにしてよいのですか。本当にそれでよいのですか?』と」と結んでいる。
 この金賢姫の本は原稿から日本語に訳されて、日本で最初に出版されたもので、日本向けに書かれたのである。韓国では、二年後の一九九七年になって『李恩恵、そして田口八重子』という題で出版される。
 日本政府の方は、水害被害になやむ北朝鮮に対して、北朝鮮の要請に応じて、一〇月三日、五〇万ドル、二〇万トンの第二次援助を申し出た。金泳三政府は公然と不満の声をあげ、結局、三党代表団が合意した日朝交渉予備会談再開はついに実現しなかった。
 
 
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