◆横田めぐみさんの拉致説の登場
「拉致疑惑」問題が一挙に国民的な関心をうる社会的大問題となったのは、一九九七年はじめの横田めぐみさん拉致説の浮上によってである。
一九九六年九月、朝日テレビのディレクター石高健次氏は著書『金正日の拉致指令』を朝日新聞社から刊行した。石高氏はサンデープロジェクトの特集コーナーのスタッフとして、一九九二年から北朝鮮の核疑惑、北朝鮮帰国者のその後などを取材し、作品化してきた人である。その過程で、氏は在日朝鮮人女性朴春仙さんから北朝鮮スパイとして韓国で逮捕された辛光洙との個人的関係を聞かされ、事件に興味を持って、九四年から取材をはじめた。九五年五月一四日、テレビ朝日系列のドキュメンタリー番組で、「闇の波濤から―北朝鮮発・対南工作」を放映した。この内容を中心にまとめたのが、九六年九月の本である。
第一章から第三章までは、朴春仙さんが辛光洙と知り合う過程、同居生活からはじめて、大阪の日本人コック原敕晃さんを辛光洙が拉致したという事件に関する関係者を韓国、日本で捜し出し、取材させてほしいと食い下がった様子を書いている。第四章は「北朝鮮帰国者の悲劇」として、幾人かの例をあげて、紹介している。そして、第五章「消えたアベックは平壌にいた」において、韓国へ亡命した北朝鮮の工作員安明進へのインタヴューを収めている。
安明進は一九六八年生まれ、北朝鮮の工作員養成所、金正日政治軍事大学で訓練を受け、九三年九月に武装間諜として三八度線地域で最初の作戦行動中に脱走して、韓国側に帰順した。朝鮮日報社の総合雑誌『月刊朝鮮』九四年一一月号の金容三記者のインタヴュー記事「われわれが体験した『総合犯罪株式会社』北韓、その戦慄の実相」に実名で登場して、北朝鮮での工作員養成の実態、子供スパイ養成の様子、韓国人と外国人の拉致、特殊部隊の殺人訓練、自爆の練習、女子隊員のキーセン訓練、国際的犯罪集団に対するテロ訓練、韓国の環境を経験するための「以南環境館」といった内容について語っている。
とくに拉致について、次のように語っている。
「北韓工作員はテロと拉致をもっとも重要な徳目と考えています。」「北韓工作員は南韓浸透や海外にいくとき、北韓に必要な人物、きれいな顔立ちの人は目にはいるまま拉致せよという指令が出ていましたよ。『誰々を拉致せよ』という特別の指令を受けなくても、機会がくれば、しずかに拉致していきます。」「南韓人のみでなく、拉致された外国人も多く見ました。平壌龍城区域の金剛山地区、七宝山地区で主として目撃したのですが、日本人、ヨーロッパ人、ヨーロッパ出身の韓国僑胞、東南アジア人、アラブ系、中国人、朝鮮族など、多様な人種が拉致されています。彼等も対南工作員と海外工作員に当該地域の言葉と風習を教える教師として利用されるのが普通です。」(一四八〜一四九頁)
安明進は記憶にのこる外国人として日本人ファン・クムシルをあげ、その他四〇代の日本人男子を多く目撃したこともあると明らかにしている。
石高氏が韓国の国家安全企画部の許可によりこの評判の帰順者安明進と会ったのは、このインタヴュー記事発表の翌年のことであった。
〔この項続く・以下次号〕
著者プロフィール
和田春樹(わだ はるき)
1938年生まれ。
東京大学文学部卒業。
同大社会科学研究所長を経て、東京大学名誉教授。
専攻はロシア・ソ連史・現代朝鮮研究。
著書に『金日成と満州抗日戦争』『朝鮮戦争』『北朝鮮―遊撃隊国家の現在』ほか。
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