◆金正日体制−遊撃隊国家から正規軍国家へ
北朝鮮は謎の国といわれて久しい。この国を理解するための手がかりがとぼしいのである。良質の資料は『労働新聞』とピョンヤン放送と偵察衛星の写真ぐらいである。亡命者の証言は部分を伝えるが、全体はわからない。黄長Y氏のような高位の人物の回想でさえ、北朝鮮の全体を説明できていない。だから、どの国の北朝鮮分析も表面的なものにならざるをえない。とにかく良質の資料を読み切ること、体制全体をとらえるモデル、仮説を用意すること、歴史の比較類推をしっかりやることが重要である。
私は昨年三月『北朝鮮−遊撃隊国家の現在』(岩波書店)を上梓した。そこで私の出した見方は、北朝鮮「遊撃隊国家」論である。あわせてギアーツの理論を借りた「劇場国家」論を展開し、北朝鮮の現状は太平洋戦争末期の日本に近いという見方を出した。北朝鮮「遊撃隊国家」論とは、一九六一年に成立をみた国家社会主義の体制の上に六七年からつくられはじめた特殊北朝鮮的な国家体制を「遊撃隊国家」ととらえるものである。この国家体制形成の鍵となる決定は一九六七年七月はじめの党中央委員会総会で採択された「唯一思想体系」の確立の決定である。金日成はベトナム戦争の中で来るべき「革命的大事変」、南朝鮮革命のために彼の国を準備させようとした。金日成は彼の派を助けてきた甲山系とソ連帰りの党官僚を追い出した。金日成はあらためて唯一の首領として絶対化され、満州での抗日遊撃闘争の伝統は金日成個人の革命歴史に転化された。
「遊撃隊国家」は「抗日遊撃隊員のように革命的に生き働こう」というスローガンで推進された。全人民が首領金日成の指揮する抗日遊撃隊員であるつもりで生きるように促された。人々は首領だけを信じ、最後まで首領に忠実であり続けるのであった。北朝鮮国家全体が金日成を首領とする拡大された抗日遊撃隊であるとされたのである。チュチェ思想が国家イデオロギー化された。一九六八年に試みられた遊撃隊の南派遣は失敗に終わり、南朝鮮革命の展望は失われたが、「遊撃隊国家」はそのまま発展し、一九七二年の新憲法で国制上の形を与えられた。一九七四年三月、新しいスローガン、「生産も学習も生活も抗日遊撃隊式で」が党政治局員金正日によってつくられた。このスローガンは「遊撃隊国家」の永続的な基本スローガンとなったのである。
金正日は父と違い、「武の人」ではなく、「文の人」であり、映画や建築に強い関心をもち、その方面で活動してきたが、いまや党の中心に座って、「遊撃隊国家」の建築家、デザイナー、舞台監督となったのである。彼は「遊撃隊国家」の上にさまざまな看板をかけた。一九八〇年代初期には、「オモニ党(母なる党)」という観念が押し出された。もしも党が母であれば、「オボイ首領(親である首領)」は当然父なる首領となり、人民は子供となるのである。つぎに「社会的政治的生命体」のイメージがつくりだされた。一九八六年に金正日は書いている。「革命の主体は首領、党、大衆の統一体です。人民大衆は、党の指導のもと首領を中心に組織的、思想的に結束することにより、不滅の自主的な生命力をもつ一つの社会的政治的生命体をなします。個々の人間の肉体的生命にはかぎりがありますが、自主的な社会的政治的生命体に結束した人民大衆の生命は不滅です。」さらに首領は、この「社会的政治的生命体の脳髄」だと説明され、党はこの生命体の「神経中枢」だとされた。ここにみるのは人体としての国家論である。ある学者はこの理論の起源は儒教にあるとしているが、そのような人体国家論は西欧の古代末期と中世初期にあったことが知られている。そこでは、普通の人間は手足になぞらえられていた。最後に一九九〇年代になると、金正日は「一心団結」の考えを押しだした。これは文化的には無内容である。そこで別の考え、「忠孝一心」の考えが結びつけられた。これは儒教の前近代的道徳からとられている。そこでこの最後の国家像は伝統的前近代的国家のイメージである。
「遊撃隊国家」はそのような補助的な新しい国家像に支えられて存続してきた。そのようなイメージの多様性は、金正日の文化的折衷主義とプラグマティックな功利主義を示している。そして新しいイメージを押し出す早さも、金正日がすべてのスローガンやイメージが短命であり、新しいものと取り替えなければならないと考えていることを示している。こういう観察の結果、「遊撃隊国家」は一種の大きなショーないし演劇であると結論することができる。アメリカの文化人類学者クリフォード・ギアーツは一九世紀バリの王権の観察から名高い「劇場国家」という概念を生み出した。彼は、王権の行使が国家の儀礼という形を取り、その国家の儀礼は「形而上学的演劇」であると述べている。私は北朝鮮の「遊撃隊国家」はこのギアーツのいう「劇場国家」性を部分的におびているとみている。しかし、部分的にである。というのは、バリ島の前近代的伝統的王権は「劇場国家」として存在できるが、現代世界の中の国家は完全に「劇場国家」にはなりきれない。「劇場国家」はやはりスタティックな秩序を前提にしており、ダイナミックな変化には適合しないのである。ここに「遊撃隊国家」の根本的な矛盾がある。
実はこの「遊撃隊国家」が基本的に継承され、金正日体制になっていると、私は昨年春に著書を出す時点まで考えていた。しかし、昨年四月に発表された建国五〇周年記念スローガンの中に「遊撃隊国家」の基本スローガンが消えているのを発見したことは大きな驚きであった。衝撃を覚え、資料を読み直し、考え直した結果、私は「遊撃隊国家」は変容し、「正規軍国家」とでもいうべき体制が生まれているという結論を得るに至った。金正日による継承は既定の方針だったが、金日成が実際に死んだとき、金正日は大きな困難に直面した。彼は首領というタイトルを継承することができず、朝鮮人民軍最高司令官であるという地位から出発することになった。彼としては実質的に最高司令官になって権力を現実化するほかに道がなかったのである。軍人たちの心をつかむために、金正日は全国の軍部隊と駐屯地を歴訪することにした。のち一九九七年九月に彼を党総書記に推薦する報告に立った人民軍総政治局長趙明禄は、金正日が「無慮一六万六干余里の遠い路程をたどり、二一五〇余箇所の人民軍部隊と最前線哨所を訪問され」たと述べた。もしも彼が最高司令官になって以来の六九ヵ月で二一五〇ヵ所を訪れたのなら、論理的には一月で三一ヵ所、一日一ヵ所ということになる。
金正日はお土産を持って行っただろうが、最高司令官が訪ねてきてくれたこと自体が将兵を感激させたのは間違いない。兵士たちのバンドの演奏はかならず聴いている。最後に記念撮影である。将兵にとって最高指導者と一緒に写真をとることは運命一体の誓いをともにすることである。こうして金正日は軍隊の掌握に成功したと認めることができる。
人民軍の部隊を訪問するのに、金正日はいつも二人の次帥趙明禄と総参謀長金英春を伴っていた。ときには抗日遊撃隊のベテランで第二の元帥李乙雪やのちに国防相になる次帥金イルチョルらも同行した。一九九六年一〇月一四日、金正日は李乙雪、趙明禄らとともに、金剛山水力発電所建設にあたった将兵と記念撮影をした。その背後には「敬愛する最高司令官金正日同志を首班とする革命の首脳部を命がけで死守しよう」というスローガンがかけられた。この「革命の首脳部」とは金正日と軍首脳のことである。同時に新しいスローガン「みんなが革命的軍人精神で生き闘争しよう」が現れた。
一九九七年の新年共同社説は「『苦難の行軍』を勝利的に結束するための最後の突撃戦」をよびかけた。人民軍に特別の重点が置かれている。「人民軍隊は朝鮮革命の柱であり、チュチェ革命の偉業の完成の主力軍である。すべての人民軍将兵は……最高司令官の第一近衛兵、第一決死隊として、しっかり準備しなければならない。人民軍では軍人を政治思想的に準備させ、全軍に首領決死擁衛精神、銃爆弾精神、自爆精神があふれるようにしなければならない。」
四月には総参謀長金英春が人民軍の役割に関する金正日の新しい考えを披露した。「敬愛する最高司令官同志は軍隊はすなわち人民であり、国家であり、党であるという独創的な軍重視思想を明らかにされ、わが人民軍隊を革命の主体の核心力量、チュチェ偉業の完成の主力軍の地位に確固として置き、人民軍隊を忠孝一心の党軍に、無敵必勝の強軍に強化発展させられたのである。」五月一九日には、『労働新聞』は「生産も学習も生活も人民軍隊のようにしていくことは、わが党員と勤労者の自覚的な事業、わが社会の気風となっている」と書いた。いまや九五年、九六年、九七年と三年つづく食糧危機の中で、朝鮮人民軍こそが国家の柱石であり、核心であり、社会的倫理の唯一の源泉とされた。すべての国民が人民軍将兵のように生き、働くことが求められているのである。最高司令官はいまや三〇〇万人党員ではなく、百数十万人の人民軍将兵に依拠して、国を統治している。軍隊が意欲の面でもモラルの面でも他のすべての組織、団体を凌駕しているとされている。この故に私は「遊撃隊国家」から「正規軍国家」への移行がなされたと考える。この国家もまた「劇場国家」である。金正日は国家的演劇のプロデューサーであり、同時に最高司令官の役を演じる主役である。
一九九七年一〇月金正日は党総書記に推戴されたが、党中央委員会も党大会も開かれず、国家の生活に変化はなかった。九八年九月には最高人民会議選挙がおこなわれ、最高人民会議が開かれたが、憲法改正により、主席ポストは廃止された。最高人民会議常任委員会委員長のポストに前外相金永南が就任して、対外的に国家を代表する役割を演じることになり、金正日は国防委員会委員長に再任されたに留まった。憲法上、国政上は国家最高の統治者の地位をもつことなく、金正日は軍の最高司令官であることによって、北朝鮮国家の最高統治者であるという形をつくりだしたのである。
ところで北朝鮮の指導者にとっての内外情勢は全般的な危機である。まずソ連と東欧の社会主義体制が崩壊し、ソ連からの経済的な援助がストップした。中国とベトナムはのこっているが、その「改革開放」、「ドイモイ」、「社会主義的市場経済」は受け入れがたい。韓国は経済的にも飛躍し、軍事独裁政治もとうに終わったため、北朝鮮は韓国との競争であまりに大きく落後してしまった。ソ連との貿易が激減し、これまでのような原油の獲得も不可能になったことから、経済は危機的な状態に入り、その上自然災害が三年間つづいたため、食糧危機、飢餓が発生し、多くの死者を出した。食糧の買い出し、そのための無許可移動、自然発生的な闇市の出現がみられ、中国国境を越える脱出、亡命が著増している。
この中で金正日が出したスローガンは「苦難の行軍の精神で生き働こう」というものであった。これは満州での抗日遊撃戦争時代、一九三八年末から百余日間、金日成の部隊が日本軍の討伐を逃れ、雪中を行軍したことをさす。のちに一九四〇年秋金日成の部隊はソ連に逃げ込むことができた。今日では北朝鮮にはそのような庇護者がいない。唯一期待しているのは、ロシアで旧ソ連体制の復活を目指しているとみえるロシア諸共産党の動きである。北朝鮮は元ソ連党書記シェーニン、元国防相ヤゾフ、ボリシェヴィキ共産党書記長二ーナ・アンドレーエヴァなどを招待しており、アレクサンドル・ブレジネフは叙事詩「金正日将軍」(『労働新聞』一九九五年一一月二六日)を発表して、金正日に共産主義運動の希望の星をみるとのメッセージを送っている。しかし、ロシアで共産党の政権復活は難しいし、かりにあっても、北朝鮮に割引価格で原油を豊富に提供してくれるような時代は戻らない。
今日北朝鮮の指導者は、中国とベトナムの道が党国家体制を維持しつつ、経済を発展させる唯一の道であるにもかかわらず、その道への恐怖が強く、回避している。体制の維持をはかりながら、危機を打開する道を求めているが、それが見つからないため、防御的な姿勢の中に自らを閉じこめているのである。状況は多くの点で異なっているものの、体制維持のために局面転換を願いつつ、首領を決死擁衛するために自爆の覚悟をかためるという点では、国体護持のために名誉ある和平を望みながら、このまま行けば本土決戦、一億玉砕するしかないと考えた戦争末期の日本人と一面では酷似している。
しかし、空気穴はあけなければならない。体制にとってコストの少ない外貨・食糧獲得の道がとられている。北朝鮮が輸出できるのは、兵器、つまりミサイルである。北朝鮮の軍部はすべてのリソースを集中してミサイル開発をおこなっている。これはロシアからの技術者の獲得によって可能になったものと考えられる。その技術と製品は輸出されている。パキスタンのミサイル「ガウリ」は北朝鮮の技術によるものといわれている。イラクやイランとの取引も語られている。しかし、これは対外的緊張をただちに高めるものである。
そこででてくるのがアメリカとの交渉である。核兵器開発のカードを切ることによって北朝鮮は一九九四年に二〇〇三年までに発電用軽水炉二基を無料で建設してもらい、うち一基が稼働するときまで毎年重油を五〇万トンずつ無料で提供してもらえることになった。いまは金倉里の地下施設の査察を求められるなら、応じるということで、三億ドルという値段をつけている。そこでミサイルの輸出中止の要請に対しては、一〇億ドルという値段を提示した。
もう一つの空気穴になっているのは、韓国との民間接触である。金剛山観光開発の権利を与える代償として、現代財閥から六年間で総額九億ドルを約束されている。また北朝鮮を訪問する新聞社の取材班、文化人等からも、莫大な代価を得ている。これは金大中大統領の「太陽政策」で認められているのである。もちろん伝統的に中国の援助もあるし、国際的な人道的食糧援助もある。このような獲得があって、危機が緩和されているのだと考えることができる。しかし、いつまでもこのままではやれないことはたしかである。
こういう状況の中で、一九九八年よりは、社会主義「強盛大国建設」をめざすという目標が掲げられた。中国の四つの「現代化」にも似た目標で、それを立てたのはいいのだが、それを実現するプログラムが空白のままである。指導者が政治的モラトリアムに身をおくかぎり、社会主義の孤島北朝鮮は漂流せざるをえない。
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