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◆「『過去の清算』なくして拉致解明なし」
 人道支援・学術交流などで九四年以降、六回訪朝している私が、拉致問題を素通りしていたわけではない。日本人学者が逆風の中でチャリティー・コンサートを開いてカンパを集め、毎年のように段ボール箱を抱えて医薬品を届けにいくのだから相手も心を開く。
 北朝鮮の官僚組織は日本以上にタテ割りで、日本人受け入れ団体も、労働党アジア太平洋委員会、対文協(対外文化連絡協会)、水害対策委員会、社会科学者協会、主体科学院などいくつもあるが、日本語をしゃべり、日本事情に通じたエキスパートは限られ、関連団体を出たり入ったりして昇進してゆく。そのうちに特定の幹部と顔なじみになり、拉致問題について食い下がると、訪朝のたびに少しずつ反応が変わっていくのがわかる。
 拉致問題が日朝間の議題になったのは、一九九一年五月の第三回国交正常化交渉にさかのぼる。大韓航空機爆破事件犯人・金賢姫(キムヒョンヒ)の日本語家庭教師「李恩恵(リウネ)」とされる女性が失踪中の日本人女性に酷似しているとして日本側が身元調査を依頼したところ、北の代表は烈火のごとく怒り、次回会談の日程も決められず散会した。一九九二年十一月の第八回交渉はついにこの問題で決裂、このあと二〇〇〇年四月まで七年半、中断状態となった。この間、超党派国会議員団が何回か訪朝し、例の「第三国での発見」案を含めてさまざまな妥協案を提示し、北の反応をさぐっている。
 自民党の野中広務氏、中山正暉氏らも金正日総書記の拉致告白いらい批判にさらされているが、彼らも無為に過ごしていたわけではない。彼らの努力で「行方不明者として捜そう」から「捜したが、見つからなかった」へ、さらに「捜索を再開した。そのうちにわかるだろう」(二〇〇二年五月、私の六回目の訪朝時の労働党幹部の回答)へと反応が変化してきていた。
 「拉致は最後まで認めたくないが、日本が先に『過去の清算』に応じ、植民地支配の謝罪と補償に応じるなら、『自分の意思で来た』という形か、それが無理なら部下の独走による犯行という形で認め、日本に生還させるだろう」というのが、私が小泉訪朝以前に最終的に得ていた感触だった。田中均・外務省アジア大洋州局長(当時)の水面下の交渉もまさにその線で進められていたのだ。
 平壌で耳にするのは、「日本の議員さんたちは口が軽い。自分の手柄話としてすぐに新聞記者にしゃべる」というものだった。私自身べつに手柄はないが、平壌で見聞したことはしゃべらないようにして、「『過去の清算』なくして拉致解明なし」と、いわゆる「出口論」を唱え続けた。野中氏も同意見で、とにかく「信頼関係の構築が先決だ」と強調していた。
 小泉訪朝の結果は、包括的同時解決になった。日本が「過去の清算」に応じたからこそ金総書記が拉致を認め、謝罪したのだ。問題は、死亡者などについての北朝鮮のあいまいな説明がかえって日本側の不信を強め、これで一件落着になるはずだという北朝鮮側の事前の読みが狂って、日本国民の怒りと憎しみをいっそうかき立てたことだった。
 
 
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