◆頻発する工作船の領海侵入
第一の例としてはたとえば、次のような事件があった。Aさんからの手紙が届く一年前の一九八九年一月、北朝鮮から石川県のある家族のところに手紙が着いた。開いてみるとなんと二十五年前漁に出たまま行方不明になっていた漁船員[寺越外雄]が肉親に自分たちは北朝鮮で元気に暮らしている、ということを書いて送ったものだった。
この漁船員は一九六三年五月十一日午前四時頃、石川県志賀町の漁港から三人[寺越昭二、外雄、武志]で、一・五トンの船に乗って漁に出たまま帰ってこなかった。船はまもなく、陸地から四百メートルのところで発見されたが、エンジンは無事で航行可能であったという。日本海の陸地のごく近くで一・五トンの船に乗って「遭難」した漁船員が、なぜ北朝鮮でしかも二十五年間、何の連絡もせずに暮らしていたかという疑問が当然出てくる。
船体がさけ大穴が空いていたということは、その漁船は別の大きな船にぶつけられたのだろう。そしてエンジンが無事で航行可能であったのに戻ってこなかったばかりでなく、漁船員が北朝鮮に渡ったということは、ぶつけた船に乗せられて北朝鮮に連れて行かれたということしか考えられない。仮に別の船との事故があったとしても、なぜその船は三人を日本に帰らせずに北朝鮮に連行したのか、という疑問が残る。そこから考えれば、ぶつけた船は合法的な航行をしているものではなく、非合法に工作員などを運んでいる北朝鮮の工作船であったと思われる。日本に漁船員を帰らせれば、非合法工作船のことが公開されてしまうという事情があったから、北朝鮮に連行し二十五年間も肉親への連絡すらさせなかったのだろう。
北朝鮮の工作船はかなり頻繁に日本領海に侵入してきている。日本の警察は一九八五年までに四十五件の北朝鮮工作員を検挙しているが、そのほとんどすべてが工作船に乗って日本に不法上陸している。九〇年十月二十八日には、福井県美浜町の浜辺に工作員潜入脱出用の小船が、折からの時化で打ち上げられているのが見つかり、約五十メートル離れたところに工作員らしき水死体が一体発見されたことは一部の新聞も報じていた通りである(『産経新聞』以外の扱いはたいへん小さかったのはなぜだろう)。
しかし、このヨーロッパから拉致されたと思われる三人は北朝鮮の非合法活動を目撃した可能性はほとんどないだろう。残る可能性は工作員の教師とパスポート偽造の二つだ。
第二の、工作員日本人化教育のための教師としては、金賢姫を教えた「恩恵」と呼ばれていた日本人女性のことがすぐ頭に浮かぶ。金賢姫は一九八一年七月から八二年三月にかけてこの日本人女性とマンツーマンで日本人化教育を受けたと証言している。金賢姫は一度も日本に来たこともないのだが、日本人記者たちと自由に日本語で会話が出来るだけの日本語の実力を持っていることが確認されている。日本人(あるいは日本生れの在日朝鮮人)から日本人化教育を受けたということは間違いない。
工作員の養成は単独で行なわれることはまずないと考えるべきだろう。複数の工作員を並行して教育し、能力・適性に合った任務を与えているはずだ。金賢姫も「恩恵」との一対一の教育に入る前、金淑姫と名乗る一歳年下の女性とペアを組んで工作員教育を受けたと証言している。八〇年三月工作員として召喚されてから一年間は男六人、女二人の合計八人で政治思想学習や射撃、行軍、水泳などの基礎教育を受け、八一年四月から七月までは女性二人一組で、日本の小学校一〜六年の国語の教科書を使って日本語教育を受けている。その後、「恩恵」との起居を共にした日本人化教育に入る時、パートナーの金淑姫と別れているのだが、こちらの方も別の日本人から日本人化教育を受けた可能性は高い。実際、金賢姫は八五年に再び金淑姫とペアになって中国人化教育を受けた後、中国とマカオで実習を受けるのだが、その際金淑姫は「高橋けいこ」名義の偽造旅券を使ったという。
また金賢姫は一九八二年二月、酒に酔った「恩恵」から次のような話をきいたと証言している。
「金正日同志の誕生日(二月十六日)の晩餐に日本人女性として特別に招待されて行ったことがあります。そこで、私のように拉致されて来たらしい日本人夫婦に会いました。でも、このことは絶対に口外してはいけません」
福井県、新潟県、鹿児島県の海岸で若いカップルが相次いで動機のない失踪をしたのが一九七八年の七〜八月のことである。福井県小浜市の大工見習、地村保志さん(当時二十三歳)とその婚約者、浜本富貴恵さん(当時二十三歳)は同年七月七日に行方不明となった。二人は九日前に結納をかわしたところであって姿をくらませる動機がまったくない。警察の調べによると、二人は七日夜七時四十分ごろから約一時間、車が発見された場所から西へ八キロ位離れた国道沿いのレストランにいたことは確認されたが、その後の足取りはまったくわかっていない。
新潟県柏崎市の大学生、蓮池薫さん(当時二十歳)とその恋人、美容指導員の奥土祐木子さん(当時二十二歳)は同年七月三十一日に蒸発している。二人はその日の午後六時に海辺から二百五十メートルしか離れていない図書館で待ち合わせをしている。海辺は二人がよく散歩する場所だった。祐木子さんは職場の店長に「コーヒー一杯飲んだら帰るわ」といって出かけていった。
鹿児島県鹿児島市の電電公社職員、市川修一さん(当時二十三歳)とその恋人、事務員の増元るみ子さん(当時二十四歳)は同年八月十二日、鹿児島県日置郡吹上町の吹上浜に自家用車を残して行方不明となっている。修一さんは「夜十時までには帰る」といって家を出た。砂浜の手前に残されていた車は、ドアがロックされ、助手席には、るみ子さんの手さげバッグとカメラが置いてあった。バッグの中にはサングラスや財布、化粧道具などがそのまま残されており、車内はまったく荒された形跡がなかった。
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