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◆朝鮮問題からは逃げられない
 つまり、このようにしてみてくると、私が朝鮮問題にかかわった最初の十数年間は、誠に悲しいことではあるが、事実によって全否定されるべきものであった。後述の『わが体験的朝鮮問題』を出版した直後、関西のある都市の総聯現役活動家数名に呼ばれ、北朝鮮の統一政策と個人神格化というようなテーマで話をさせられた。
 私の話をきき終わった一人の老活動家が「自分に文字や生き方を教えてくれたのは、共和国であり、朝連(総聯の前身)だった。だから自分の人生のすべてを共和国と総聯に捧げてきた。それは、みんなが幸せになるためで個人神格化など作るためではなかった。一体オレの人生はなんだったのか」といって泣き崩れた。私は、言葉を失い顔を上げることができなかった。
 話が前後するが、小田実著『私と朝鮮』(筑摩書房)が一九七七年に出版された。小田氏は、この本のなかで、北朝鮮に若干の批判は行っているが、基本的には、北朝鮮を高く評価した内容のものであった。小田氏の北朝鮮認識は、私の一九六〇年代前半のそれと変わるものではなかった。同じ誤りをしてほしくないと思って書いたのが『わが体験的朝鮮問題』(東洋経済新報社・絶版、一九七八年刊)である。
 小田実氏を批判はしているが、中身は、北朝鮮の体制並びに対南統一政策の全面批判であり、また、私自身の自己批判の書でもあった。出版したあとまったく予想外のことが起きた。それは、現職の総聯組織の活動家から、多くのはげましの言葉や前述のような非公然の講演依頼を受けたことであった。
 私は、主観的にはよかれと思ってやったことが、他人様の人生を目茶目茶にし、命を断ってしまう(多くの「帰国者」が強制収容所で死んでいる)ことに手を貸してしまったことを認めざるをえなくなった。無知ほど怖いものはない。朝鮮問題を離れ、別の世界で生きていくことも可能であった。
 逃げなかったのは、いま、この世界から逃げたら、どこにいっても逃げ続けることになるのではないか、という不安が朝鮮問題からの逃避をはばんだように思う。直接的な契機は、前述の総聯活動家たちからの激励であった。
 それはともかく、日本朝鮮研究所から現在の現代コリア研究所に変わったのが一九八四年である。機関誌『現代コリア』の内容は当然のことながら、大きく変化した(南北に対し是々非々の立場)。ただ、日本朝鮮研究所の名誉のためにいっておくが、私の知る限り同研究所は、北朝鮮や総聯から資金援助を受けた事実はない。
 最近、元『赤旗』ピョンヤン特派員萩原遼氏が、雑誌『諸君!』一九九五年四月号で東大和田春樹教授に対し「東大教授かデマゴーグか」なる批判文を発表した。内容は、和田氏が、自分のいかがわしい研究を棚に上げて、他人の研究を無責任に批判している欺瞞性を完膚なきまでに批判したものである。
 萩原氏の批判内容は近頃まれにみる迫力あるものであった。しかし、私が注目したのは行間に溢れでている萩原氏の怒りであった。自費で二年間ワシントンにおもむき、毎日毎日図書館に通い、朝鮮語の文献を続み続けさせたものはなんなのか。カネや名誉、好奇心などでできることではない。
 萩原氏が自分の青、壮年期のすべてを共産主義なかんずく朝鮮にかけた、それに対する弔い合戦という気持ちがなければ、あんなことができるはずがない(『朝鮮戦争』文芸春秋刊にまとめた)。
 わたしは、到底萩原氏のようなことはできないが、自分の過去に対しても、北朝鮮に対してもまだ弔い合戦は終わっていないと思っている。私にとっての戦後五十年など区切とはなりえない。
著者プロフィール
佐藤勝巳(さとう かつみ)
1929年、新潟県生まれ。
日朝協会新潟県連事務局長、日本朝鮮研究所事務局長を経て、現在、現代コリア研究所所長。
「救う会」会長。
 
 
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