◆ついにわかった「北」の悲惨な実態
それはともかく、東京にきてからも私の耳に入ってくる北朝鮮や「帰国者」の情報はどれもこれも明るいものは何もなかった。研究所に来てから、意図的に北朝鮮を訪問した人たちのレポートを読むよう努力した。
しかし、北朝鮮の実状や帰国者の悲惨な実態が生の形で伝わり出したのは一九七一年からであった。この年は、国際的なデタントの波に押され、朝鮮半島でも第一次南北対話が、赤十字会談という形ではじまったときであった。この国際情勢の動きのなかで、わが国政府は、在日朝鮮人の「祖国訪問」を徐々に認めるようになった。北朝鮮の実状は、このようにして、北朝鮮を訪問した在日朝鮮人たちによって日本にもたらされてきたのである。
その瞬間から、在日朝鮮人の北朝鮮への「帰国」は、事実上なくなってしまった。この七〇年代前半は、北朝鮮内で金正日と金英柱(金日成の実弟)・金聖愛(金日成夫人)の間で権力闘争がはげしく争われていたときである。他方、金正日の指導で「三大革命小組」(中国の紅衛兵のようなもの)が各企業所・工場・農場などで荒れ狂い、専門家や老幹部たちが、経験主義のレッテルをはられ職場から追放されていった。そうして、経済が目茶苦茶になった時期であった。北朝鮮が本格的に在日朝鮮人からカネをむしり取りだしたのは、このときから(七〇年代中頃)である。
北朝鮮を訪問した在日朝鮮人たちが受けたショックは、自由のかけらもない社会を目の当りにしたことであった。肉親が、たえず何かにおびえている姿であった(最近文芸春秋から出版された『帰国船』と『現代コリア』七月号に強制収容所の話がくわしい)。「帰国」した元在日朝鮮人の行方不明者(強制収容所送り)が多いこともわかってきた。一九七〇年代前半は、在日韓国・朝鮮人の民族差別反対運動に参加しつつも、自分がやってきた日朝友好運動は、「帰国」協力運動は一体なんだったのかと、自分の心の中で陰うつな問いが毎日のように続いた。
一九六〇年代は、韓国についての関心といえば、「朴正煕ファッショ独裁政権」の一言で、韓国社会そのものに目を向けようとしなかった。関心をもったのは、朴正煕政権に反対している韓国の学生運動だけだった。かつて岩波書店の『世界』が怪しげな「韓国通信」なるものを連載していたが、あそこにかかれている思考が、六〇年代前半の私の水準であった。
七〇年代に入ってから、心して韓国の勉強をはじめた。そのなかで朴正煕大統領の発言や経済政策、特にセマウル運動などを知るにおよんで、いままでとはまるで違う韓国がみえだしてきた。
改めて、韓国での韓日会談反対運動などを調べていくうちに、朴正煕氏の決断が正しかったのではないか、と思うようになっていった。最近、必要があって、日韓会談妥結に当たって、各政党・団体が出した声明を読み、改めて確認したことは、歴史の批判に耐えうるものは、朴正煕大統領の声明をおいて他にない、日本の「民主勢力」の声明などは、まさに噴飯もの以外のなにものでもない、ということだ。
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