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◆視野の拡大と共産党からの離党
 運動で無理をしていたところに、右にみたような精神的なストレスが蓄積され、就寝時に呼吸困難に陥り、ノイローゼになってしまった。医師の勧めもあり、一九六四年十一月転地療養のため、弟のいる東京に生活を移した。そのとたん呼吸困難は、本当にウソのように出なくなった。あのときほど誰も知らない街が、こんなにも素晴らしいものかと実感したことはなかった。やることがないから、ほとんど毎日のように、知人の多くいる文京区湯島にあった日本朝鮮研究所に遊びに行っていた。
 一九六五年日韓会談は大詰めを迎え政治情勢は緊迫していた。いつのまにか、同研究所の事務局長になり、日韓条約反対運動の渦中にいた。
 当時、研究所は新宿御苑の近くにあり、専従事務局員は四名いた。他に「朝鮮文化史刊行委員会」の専従者はアルバイトも含め常時数名はいた。いわば、日本朝鮮研究所がもっとも活発に活動していた時代であった。
 私の視野は、東京にきて一挙に拡大していった。地方と東京とでは、情報の量と質が決定的に違った。新潟にいたころは、情報源は、総聯しかなかった。総聯と十年間も付き合っていると後で気が付くのだが、彼らと非常に似てくる。かつて評論家の藤島宇内氏がそうであったように、異なる意見をもつものをすぐ「韓国特務の手先」(当時はKCIAなる言葉もなかったときだ)とレッテルをはるようになっていく。
 ところが、東京では、総聯も数ある民族団体の一つにしかすぎない。総聯と異なる意見をもつものは沢山いる。その代表的人物の一人が、当時『統一朝鮮新聞』の編集幹部であった李承牧氏であった。
 彼は、もともと個性の強い人物であったが、彼と私の出合いは、一九六五年からで、総聯活動家以外の在日朝鮮人から、朝鮮問題を別な視角から教えてもらった最初の人であった。
 東京というところは、得体の知れない、つまり、なんで生活しているのか収入源不明の在日韓国・朝鮮人の実に多いところである。当時の私にとっては、新鮮といえば新鮮だが、不気味といえば、これほど不気味な人たちもなかった。
 要するに、総聯と異なる個人や組織と出合うことによって、総聯並びに北朝鮮を相対化してみる目が私のなかに生まれてきたことが基本的に私の考えを変えた大きな要因の一つであった。更に、疑問が拡大していったのは、一九六六年十月の朝鮮労働党代表者会議後の金日成首相(当時)に対する個人神格化のエスカレートであった。
 それと並行して一九六八年一月金日成政権が韓国に武装ゲリラ百余名を南派し、混乱を図ったことであった。この個人神格化と武装ゲリラの南派事件は、表裏一体のものと当時は、漠然と考えていた。それが動かしい難いものと確信するに至ったのは、一九七一年『朝鮮統一の胎動』(三省堂刊)で北朝鮮の統一政策を書くに当たって、調査し北朝鮮の公式文献からもほぼ確定することができたときであった。
 もう一つ、私のなかで大きな変化が起きたのは、日本共産党から離党したことであった。正確にいうと自分から離れたのではなく、党から見離されたのであった。一九六六年の日本朝鮮研究所は、中国のプロ文革を支持する寺尾五郎・安藤彦太郎氏らとそれに反対する畑田重夫氏ら「代々木派」とに分裂、混乱をしていた。共産党中央は、佐藤も寺尾氏と同じ行動をとると思ったのか、新潟県からの私の転籍証明を、私の居住区にも、研究所細胞にも下さず、いつの間にか党籍がなくなった。嫌気がさしていたときだけに、正直のところ渡りに舟という心境であった。
 しかし、それまでは、「赤旗」の主張やその他の論文を読んでその通りにしゃべっていればよかった。ところが、離党後は、すべて自分の頭で考えなければならなくなった。経験のない人たちにはわからないことだと思うが、それは実に大変なことであった。
 当時の自分の体験にてらし、現在の金正日がトップに就任しない理由がなんとなくわかるような気がする。彼は、自分の頭で考える習慣がないうえ、自分の責任で政策を決断したことが一度もない。金日成の敷いたレールの上をただ走ってきただけで、責任者に就任するのに恐れをなしているのではないか、ということだ。老幹部たちといえど、この五十年間金日成の決断したことをただ実践してきただけで、判断や決断を下した人間は皆無だ。いま起きている北朝鮮の権力の空白は、基本的には、独裁政治制度下に起きるべくして起きている現象ではないかと推定している。
 
 
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