◆「人道と人権」で推進した「北」への帰国運動
この日韓会談反対運動よりやや早く(一九五八年)はじまったのが在日朝鮮人の北朝鮮への「帰国運動」であった。「帰国第一船」が新潟港から出港したのが一九五九年十二月である。日本人の団体でこの「帰国事業」を直接間接にサポートしたのが帰国協力会であった。
中央の帰国協力会は、一九五八年十一月十七日次の人たちが呼び掛け人となってスタートした。
浅沼稲次郎(社会党)、石井漠(舞踊家)、岩本信行(自民党)、太田薫(総評)、風見章(日中国交回復国民会議)、城戸又一(東大教授)、下中弥三郎(平凡社社長)、野溝勝(全日農)、鳩山一郎(日ソ協会)、宮本顕治(共産党)、山本熊一(日朝協会)、吉田下志(日青協)ら四十六名であった。
幹事長は、帆足計(社会党国会議員)、事務局長は、印南広志(日朝協会)である。帆足氏は社会党員、印南氏は共産党員で、実態は、社共がこの団体を動かしていた。
在日朝鮮人の北朝鮮への「帰国」は「人道と人権」の問題であるとして文字通り、超党派組織としてスタートしたのであるが、一体このメンバーを誰がどのようにして決め依頼したのだろう。私は、当時、新潟の一活動家にしかすぎず、東京の動きなど知りようがなかった。が、その後の動きをみればわかるように、総聯と共産党中央が相談し、決定して保守系人士にアプローチしたことはほぼ間違いないと思う。
「人道と人権」という殺し文句はあったにせよ、当時はいまと違って冷戦のただ中にあり、よくも自民党の鳩山・岩本両氏を巻き込んだものだと驚かざるをえない。
かくして「民族の大移動」(当時はそう表現されていた)がはじまったのだ。「人道と人権」を看板に、各都道府県にも保守系人士を含め帰国協力会を組織した。朝鮮総聯は、この事業を通じ、日本社会のなかに強固な地位を築いていったことがわかる。
他方、「帰国者」たちは、北朝鮮と総聯が宣伝した北朝鮮「地上楽園」説を信じ、動産や不動産を総聯に寄附し「帰国」していった。オウム真理教がやった「出家」をさせ全財産をカンパさせるというやり口と全く同じ手法が、この時すでに行われたのだ。これによって総聯の財政は、一挙に豊かになっていったのである。
当時を振り返ってみると、北朝鮮と総聯は、「人道と人権」の「帰国事業」で自民党までも巻き込み、他方、日韓会談並びに同条約反対では、日本の「革新勢力」と連帯、朴正煕政権孤立化政策を巧みに推進していたことがわかる。
当時、われわれ活動家の間で「一に総聯、二、三がなく四に創価学会」などということが公然といわれていた。一九六〇年は、日本では安保闘争が全国的に盛り上がっており、韓国では、李承晩政権がデモで倒されるという政治状況が出現していた。金日成政権を支持する在日朝鮮人たちの気勢はいやが上にも盛り上がり、統一近しと誰もが信じ「帰国」に拍車が掛かった。一九六〇年代前半の朝鮮総聯は、文字通り飛ぶ鳥も落す勢いであった。
新潟にも「新潟県帰国協力会」が結成され、元新潟市長村田三郎氏が会長に就任、超党派的に「帰国事業」をサポートした。特に、新潟には、全国の「帰国者」が、新潟日赤センターに結集し、新潟港から「帰国船」が出港する関係上、非常に重要な地位を占めていた。新潟県帰国協力会は、日朝協会新潟支部と同じ室に同居し、それぞれ二人ずつの専従者をかかえて、朝鮮総聯新潟出張所と提携し「帰国事業」を進めていた。
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