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1995年9月号 『正論』
わが痛恨の朝鮮半島
佐藤勝巳
「北朝鮮は地上の楽園」と信じ、在日朝鮮人帰国運動に従事した日々。
だが、次第に明らかになった「北」の実態――。
朝鮮と取り組んだ痛恨の半生を振りかえる。
◆誤りだらけだった朝鮮とのかかわり
 本誌編集部から「戦後五十年目でもあり、佐藤さんも朝鮮問題にかかわってきたことを総括する時期なのではないか」と執筆の要請をうけた。
 私が朝鮮問題にかかわった最初の十数年間の中身は、現実によって全否定されている。「認識には過程がある」と自己弁護もできないし、書けば恥を掻くだけだとためらいがあった。しかし、近年、親しい友人、知人が次々と他界していっている。
 いや応なく自分も例外ではないと認識せざるをえない年齢になってきている。書けるときに書いておかなければ、と思って引き受けることにした。
 私は、一九五八年から朝鮮問題に関係しだした。一九六〇年には、日朝協会(南北朝鮮と友好関係を取り結ぶという目的をもった全国組織であったが、実態は北朝鮮とのみ友好関係をもつ団体である)新潟支部・県連事務局長に就任した。それから、一九六四年新潟を去るまで、活動の半分は、日韓会談反対、残りの半分は、在日朝鮮人の北朝鮮への「帰国事業」に友好団体(日朝協会)の事務局長として協力してきた。
 当時、日朝友好運動や「帰国事業」に関与した日本人で、いまも朝鮮問題に関係しているのは、新潟市在住の小島晴則氏(後述)と唐笠文男氏(元日朝協会中央本部事務局長・現日朝文化交流委員会幹部)と後述の萩原遼氏、私の四人ぐらいではないかと思われる。
 日韓会談に反対した勢力は、政党では日本社会党、日本共産党。大衆団体では、総評系労働組合、共産党系の民主商工会、民医連などであった。
 金日成政権は、いうまでもなくこの条約成立にもっとも強く反対していた。日本の「民主勢力」の反対運動に声援を送り続けていた。具体的には、朝鮮総聯が、各政党や主要な大衆団体を回り、必死のオルグ活動を行った。
 日本で日韓会談反対運動がやや大衆的な関心を呼ぶようになったのは、一九六一年十一月韓国の朴正煕最高会議議長(当時)がわが国を訪問、日韓会談早期開催に合意した頃からである。前年の安保反対闘争と違って、日韓会談反対運動は、本当に重かった。一九六二年頃われわれがどんなに宣伝しても国民はいうまでもなく、労働組合の幹部、特に社会党系労働組合の幹部の無関心振りは、中央・地方を問わずひどいものであった。
 
 
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