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◆焦燥のうちに死んだ金日成
 金日成の目に映っていた一九九三年は、そのすべては、自分が蒔いた種とはいえ、金正日の手によって経済は滅茶苦茶、完全に収拾つかない状態に陥ってしまった。加えて、核拡散防止条約からの脱退。国際的に孤立、北朝鮮にとってかけがえのない中国との関係までも悪化させてしまった。
 他方、社会主義圏は崩壊、かつての友好国からの援助はまったく望めなくなってしまった。金正日にまかせていたなら体制の維持がむつかしいとの認識をもつに至った。金日成が、カーターとの会談で、あと十年現役でありつづける旨の発言をし、南北トップ会談にゴーサインを出したのも、同じ危機意識から出てきたものとみてよい。
 しかし、一度渡した権力を取り戻すということは、たとえ親子の間でも簡単なことではない。しかも七月二十五日から予定されていた南北トップ会談には「陪席は金正日ではなく、金平日」(本誌十月号朴甲東氏の発言)ということになると、金正日が素直に従うなど考えることができない。
 一九九三年一年間の政策面での親子の違いをみていくと、核問題では、核兵器を所有する点で両者の対立はなかった。だが、米国との交渉の方法をめぐって、特に核拡散防止条約脱退を契機に、その違いが顕在化してきた。
 いま一つは、経済建設の重点の置き方をめぐって考えの違いが生じてきたことである。一九八二年以来、金正日指導で「記念碑的大建造物」路線を取りつづけてきたことは、天下周知のことである。九三年十二月の党中央委員会総会と最高人民会議で採択された方針は、金日成の指導によって再生産に無関係な凱旋門のような「記念碑的大建造物」建設路線の全面否定であった。
 金正日は、この方針に強い不満をもっていたと思われる。なぜなら、九四年十一月九日金正日が発表した重大放送の中身は、従来彼がやってきた「記念碑的大建造物」(橋とトンネル建設)路線の推進命令である。これは金日成が定めた民生向上路線と真向から対立するものであるからだ。
 次に、父子間で最も緊張したのは、金日成が金正日を押え、金英柱、金聖愛を従えて、政治の前面にカムバックしてきたことである。換言すれば、これは、金正日の後継者としての事実上の否定にも等しいものである。
 一九九四年十月中国政府系研究機関の内部の会議で、北朝鮮問題に詳しい政府系スタッフから「朝鮮労働党内部に(略)一定程度の権力闘争が存在している」。また「金日成主席が死去する以前から、内部の闘争が激化していた節がある」との報告があったという(毎日新聞十一月六日付)。中国もようやく事態の深刻さに気がつき、外部にリークしだしたということであろう。
 
 
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