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◆柔軟性を失わなかった北朝鮮
 崔光国防相の葬儀委員会名簿にみられる軍指導者の著しい躍進は、新たに発足する金正日体制の実態を明確に反映したものである。金永南副首相兼外相が金正日の誕生日に寄せて朗読した「革命軍隊が革命の主体の核心勢力、主勢力をなし、軍隊が正に人民であり、国家であり、党だ」という祝賀文の内容からみて、そこには、単なる量的な変化とは異なる質的な変化、すなわち金正日政権の軍事体制化があったとみるべきだろう。いいかえれば、北朝鮮では、黄長Yの亡命や崔光の死去とは別の次元で、金正日書記の独創的な「軍重視思想」に基づく政治体制の変質が準備されていたのである。それはクーデターを伴わない金正日将軍を中心にする軍事政権の誕生と規定できるかもしれない。二つの事件はそれを加速化したにすぎない。
 しかし、だからといって、今後の事態の展開を悲観的にのみ考える必要はない。事実、金正日誕生慶祝行事を区切りにするかのように、北朝鮮側の態度は急速に変化し、二月十七日には、外務省スポークスマンが「もし彼(黄長Y)が亡命を求めたとすれば、変節を意味するもので、変節者はどこへでも行けというのがわれわれの立場だ」と言明した。また、二月二十一日、崔光の死去と葬儀委員会名簿が公表された直後に、外務省スポークスマンは四者会談に関する共同説明会(南、北、米)が三月五日にニューヨークで開催されることを明らかにした。北朝鮮側は亡命事件を早期に収拾して、延期していた共同説明会に応じる方針を明示したのである。これはまた、WFP(世界食糧計画)を通じた、米韓両国の食糧支援(それぞれ一千万ドルと六百万ドル)に対応する措置でもあった。さらに、三月七日には米朝準高官協議が開催される予定であり、米朝間の連絡事務所の相互設置も間近い。
 もちろん、このような関係改善の程度や方向については、一定の限度があるとみなければならない。したがって、三者共同説明会が開催されても、北朝鮮が容易に中国を含めた四者会談に応じたり、南北間の直接対話を復活させたとは思えない。なぜならば、米朝平和協定を基礎とする「新しい平和保障体制」の構築こそが、核開発凍結後の北朝鮮の安全保障政策の基本であり、故金日成主席の「遺訓」でもあったからである。
 また、北朝鮮にとって、亡命事件の早期収拾は「金泳三政権とは対話しない」との方針の変更を意味しない。米朝関係の改善を先行させ、つづいて日朝交渉を再開させ、最後に南北対話を復活させるというのが従来からの方針であったし、金正日書記としても、最高指導者への正式就任を控えて、そのような方針を変更できないだろう。
 しかし、それにしても、北朝鮮が感情的反発を抑制し、外交の柔軟性や機動性を失わなかったことは特筆されてよい。もし金正日書記が亡命事件への報復を主張する強硬派を抑え切れなければ、北朝鮮への食糧支援の決定も、KEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)の技術者派遺も、四者会談に関する共同説明会も実現不可能になり、激しい「消耗戦」が金正日書記の最高指導者への正式就任をさらに困難にしたことだろう。すでに指摘した金正日政権の軍事体制化とともに、それこそが「戦争」シナリオヘの序曲であった。したがって、今後を展望する最大の目安は、七月八日の金日成の命日から十月十日の労働党創立記念日頃までに、金正日書記が本当に国家主席や労働党総書記に就任できるかどうかである。その過程を詳細に観察すれば、金正日政権の安定度や政治体制危機の度合いを知ることができるだろう。
 もちろん、正式就任が実現しても、その過程で展開した激しい消耗戦の結果、北朝鮮が南北間の権力ゲームに体力を消耗し尽くしてしまう可能性も存在する。民聞人の集団的な脱出が増大し、軍隊に波及すれば、それが末期症状だということになる。その意味では、金正日政権の危険性を過小評価し、軍事政権を追い詰めてはならない。
 しかし、無事に正式就任を果たした後、金正日書記が本年十二月に選出される韓国の新しい大統領との間で南北対話を復活させる可能性も充分に存在する。金泳三大統領の任期が満了すれば、それだけで対話復活の名分が得られるからである。こうして、一九九八年以後、対米、対日、対南関係の画期的な打開を通じて、新しい「生き残り」の道が開かれる可能性も残されている。
著者プロフィール
小此木 政夫 (おこのぎ まさお)
1945年生まれ。
慶應義塾大学大学院博士課程修了。
韓国・延世大学校留学、米国・ハワイ大学、ジョージワシントン大学客員研究員などを経て、現在、慶應義塾大学教授。
 
 
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