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2002年5月号 『中央公論』
日本の外交戦略が試されている
――国交正常化と拉致疑惑のはざまで
小此木政夫
◆日朝交渉と「拉致疑惑」の浮上
 金丸・田辺代表団の北朝鮮訪問を契機に開始された第一次日朝国交交渉は、二年後の一九九二年十一月に失敗に終わった。しかし、このときにはまだ「拉致疑惑」はクローズアップされていなかった。交渉が決裂に終わったのは、核兵器開発疑惑が表面化したにもかかわらず、北朝鮮がIAEA(国際原子力機関)の査察を拒絶し続けたためであった。当時のアーマコスト駐日大使は、衛星写真を提示して日本側の認識不足を批判した。また、韓国の盧泰愚大統領は、それが韓国の北方外交に与える打撃を懸念した。いいかえれば、金丸・田辺のイニシアチブは米韓両国との協調の外側で独自に発揮されたのである。
 その後、一九九四年十月にジュネーブで米朝「合意枠組み」が成立したが、主として金日成主席死後の北朝鮮事情のために、日朝交渉は容易に再開されなかった。交渉再開のための外交接触が開始されたのは、金日成主席の三年喪が明けた一九九七年夏のことである。それがやがてアジア局審議官級の予備交渉に格上げされ、そこで、交渉の早期再開、日本人妻の故郷訪問、両国赤十字連絡協議会の設置だけでなく、北朝鮮国内での日本人の安否調査が合意されたのである。
 「北朝鮮国内での日本人の安否調査」とは、一九七〇年代後半に北朝鮮工作機関によって拉致されたとみられる七件一〇名の日本人の安否を確認する作業であった。北朝鮮側はそれを「一般的な行方不明者」として扱った。日本側がそれを強く要求したのは、同年二月、韓国に亡命した北朝鮮工作員の証言によって、失踪当時十三歳の少女であった横田めぐみさんの拉致疑惑がクローズアップされたためであった。いいかえれば、これ以後、いわゆる「拉致疑惑」問題が日朝双方にとって超えがたい外交課題として登場したのである。交渉本来の議題とは異次元の問題であったが、核兵器開発疑惑と同じく、それが再開される日朝交渉の前途を左右することは明らかであった。
 懸念された通り、北朝鮮への二七〇〇万ドルの食糧支援が決定され、日本人妻の第一次故郷訪問が実現した後も、また森喜朗自民党総務会長を団長とする連立与党三党代表団が北朝鮮を訪問した後も、「行方不明者」の安否調査は進展しなかった。北朝鮮当局はおそらく日本人妻の故郷訪問を実現し、安否調査を約束すれば、それだけで日朝交渉が再開され、さらなる食糧支援が得られると考えたのだろう。それはある種の「欺き」外交であった。事実、この段階で「行方不明者」の所在を確認することは、北朝鮮が交渉再開以前に自らの国家的犯罪を認めるに等しかったのである。
 こうして、日朝関係は再び停滞した。一九九八年八月にテポドンが打ち上げられ、その二段目が日本列島の上空を通過したとき、日朝間の外交チャンネルはすでに途絶状態にあり、双方は相当に感情的になっていた。九月一日、日本政府はミサイルの発射実験に厳重に抗議し、その開発と輸出中止を要求するとともに、国交正常化交渉、食糧支援、そしてKEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)事業への協力を当面見合わせる措置を取り、翌日、チャーター便の運航許可を取り消した。他方、北朝鮮側は、九月四日に人工衛星」の打ち上げ成功を発表した。
 テポドン打ち上げは日本の安全保障政策に大きな影響を及ぼした。日本本土を越える弾道ミサイルの出現が、拉致疑惑の記憶や核拡散の恐怖と重なって、日本政府と国民に北朝鮮の脅威を強く認識させたからである。九月一日に開催された自民党外交・国防関係合同会議ではTMD(戦域ミサイル防衛)構想や情報収集衛星の開発を積極的に推進し、防空体制を強化することが決議された。自民党は、それに加えて、ガイドライン関連法案と有事法案の整備を要求した。テポドン・ショックが安保関連措置の実施を容易にしたことは間違いない。
 
 
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