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1997年4月号 『中央公論』
側近も逃げだす北朝鮮の内幕
―軍事体制化した金正日政権の危険性―
小此木政夫
◆粛清を恐れての亡命劇
 朝鮮労働党の最高のイデオローグであり、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の序列二六位に該当する黄長Y書記が、二月十二日、北京の韓国大使館領事部に亡命を申請した。亡命の背景や動機については不明な点も残されているが、領事部で執筆された陳述書やそれ以前に手交された書簡が公表されたため、その輪郭はすでに明らかになっている。簡単にいって、それは粛清を恐れた計画的な亡命であり、今回の日本訪問が最後の機会であった。韓国の情報機関が約一年前から積極的に関与したことも確実である。
 ことの始まりは、モスクワでの学術会議であった。昨年二月二日から五日にかけて開催された主体(チュチェ)思想国際学術討論会での黄書記の言動が、帰国後、イデオロギー的な批判の対象にされたのである。ちなみに、黄書記は朝鮮労働党代表団長として会議に参加し、労働党中央委員会と中央人民委員会の共同祝電を伝達した。井上周八・主体思想国際研究所理事長(立教大学名誉教授)が「自主・平和・親善は現時代の人類共同の理念」と題する基調報告を担当し、同研究所の尾上健一事務局長が「国際金日成賞」を授与された。
 黄長Y批判は、五月までに、金正日書記の裁可を得たようである。十一月中旬に手交された黄書簡は「当局は、今年(一九九六年)五月九日を契機として、私の思想が当局の統治体系に合わないとして攻撃を始め、私を集中的に監視している。特別講演会を開き、名指しはしなかったが、聴衆がだれを念頭に置いているかわかるように批判し、私の思想・理論的権威をおとしめるキャンペーンを続けている」と伝えているが、この「当局」が金正日個人であることはほぼ確実である。
 事実、五月十日の『労働新聞』には「野心家・陰謀家たちの卑劣な本性」と題する論評が掲載されたし、『勤労者』七月号には、金正日書記の談話文が掲載され、批判の対象が「一部の社会科学者たち」であることが明示された。
 振り返ってみれば、「赤旗を高く掲げて、新年の進軍を力強く推し進めよう」と題した昨年一月一日の北朝鮮三紙(『労働新聞』、『朝鮮人民軍』、『労働青年』)の共同社説には、すでに「領袖決死擁護精神」、「苦難の行軍」、「赤旗思想」など、金正日時代のイデオロギーの内容を示唆する新しい政治概念が登場していた。したがって、すでにその頃には、黄書記に代表される「古き良き」イデオロギーの退潮が明らかであった。
 黄書記の思想傾向に対する公開の糾弾や粛清が避けられないということであれば、黄書記としては、新しい人事が発表される以前に、自殺か亡命を選ばなければならなかったのである。後の事態の展開からみて、黄書記の情勢判断は正確であり、亡命劇はギリギリのタイミングで見事に成功した。
 
 
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