◆黄長Y批判の三つの論点
それでは、黄長Y批判の具体的な論点は何だったのだろうか。
まず第一に、今回公開された複数の書簡にも示されているように黄書記は「同族間の戦争は悲惨であり、ぜひとも避けなければならない」との強い信念をもっていたようである。これは分断と戦争以前の時代を知る旧世代のナショナリズムであるかもしれない。しかし、「戦争を恐れてはいけない」というのが、金日成時代からの北朝鮮の基本的な立場であり、とりわけ一九九三年のNPT(核拡散防止条約)脱退は金正日最高司令官の戦争を恐れない「無比の胆力」を示す行為として称賛されている。
第二に、黄書記は主体思想の創始を歴史的に解釈し、「マルクス・レーニン主義、その他の革命思想を創造的に継承し、発展させたものである」としているが、現在、そのような見解は容認されていない。「人間中心の世界観であり、人民大衆の自主性を実現するための革命思想である主体思想は、金日成主席が創始した独創的な思想であり、マルクス・レーニン主義とは無関係である」というのが正しい見解である。事実、一九九二年四月の憲法修正によって、それはマルクス・レーニン主義から分離されている。
また、黄書記は、一九八六年七月の金正日論文(「主体思想教育における若干の問題について」)以後、「社会政治的生命体」という有機体概念によって、領袖・党・大衆の一体性が過度に強調されたり、最高指導者(首領)がその「脳髄」であると規定されるような極端な傾向(「革命的首領観」)に不快感をもっていたようである。黄書簡にみられる「主体思想はマルクス・レーニン主義を克服し、人間の運命開拓の道を明らかにするために創始されたものだが、統治者の利己主義によって歪曲され独裁の武器として利用された」との主張が、この間の経緯を物語っている。最近の金正日書記の「赤旗思想」や「軍重視思想」は、そのような傾向をさらに極端にするものにほかならなかった。
第三に、黄書記は中国の改革・開放政策を高く評価しすぎたようである。羅津・先鋒の経済特区を中心に、北朝鮮でも部分的な経済開放や市場経済の導入が試験されているが、そのイデオロギー的な正当化は遅々として進んでいない。例えば一九九三年四月の論文(「社会主義に対する誹謗は許さない」)において、金正日書記は相変わらず経済分野での政治的道徳的刺激の優先、労働者階級と国家による指導、社会主義的所有の堅持の必要性を強調していた。経済的な不振のために、最近、そのような原則から逸脱する傾向が少なくないが、それにしても、黄書記は中国の社会主義市場経済モデルの積極的な信奉者でありすぎたようだ。
しかし、黄書記は自分の身に危険が迫ってきたとの理由だけで亡命したわけではない。事実、彼は「わが民族を戦争の惨禍から救い、国の平和統一を早めることができるのなら・・・自分の命を捨てることについて何も言うことはない」とか、「問題をもう少し広い範囲で協議したいという気持ちから、北を離れて南の人たちと協議してみようと決心した」と主張している。そこには、単純な自己正当化以上の、ある種の使命感が感じられるのである。
ただし、北朝鮮内での自らの立場を強化するために、カーター元大統領からの招待状の獲得を韓国側に依頼するなど、亡命直前にも黄長Yの心は揺れていた。したがって、日本から食糧援助の獲得に成功すれば、それを手柄にして、黄書記は亡命を中止したかもしれない。その失敗が亡命の理由ではなかったにしろ、その成功は亡命中止の理由にはなりえたはずである。
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