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毎日新聞朝刊 2002年11月26日
検証・北朝鮮報道40年(その1) 影落とす冷戦構造
 
 ◇北朝鮮報道40年を検証
 北朝鮮の金正日(キムジョンイル)総書記が、日朝首脳会談で拉致と工作船によるテロ行為を謝罪したことで、政党や学者、言論人らの中には、北朝鮮に対するこれまでのかかわりと姿勢について、厳しく問われるケースが出ている。
 報道機関も例外ではない。北朝鮮の極端な閉鎖性と情報操作があったとはいえ、在日朝鮮人の祖国帰還事業では、後押しするような論調を展開したし、拉致事件では真相に迫ることができず、最近まで十分に報じられなかった。この間、被害者は四半世紀も異境の地に留め置かれた。
 われわれは北朝鮮に関して、何を、どのように報道してきたか。過去の報道や論調は、なぜそうなったのか――。当時の国際情勢や政治の動き、捜査機関の取り組み、世論の受け止め方などを振り返りつつ、過去40年余の北朝鮮報道を検証してみる。
 ◆朝銀問題
 ◇不良債権の使途、追及−−破たん処理報道の突破口に
 「近畿の6朝銀信組統合」。こんな見出しの記事が97年5月15日付の毎日新聞(東京)の経済面に載った。
 朝銀大阪信用組合が自主再建を断念し、近畿地区の5朝銀信組が合併してできる新信組に事業譲渡する、という内容だった。わずか30行の記事だったが、朝銀大阪信組の不良債権は2000億円にものぼり、預金保険機構が支援するという。
 朝銀大阪信組の関係者がフランスのガラス工芸家、エミール・ガレの作品などの美術品を買い集め、香川県の施設に秘蔵している、という情報が流れた。真偽はともかく、「金正日書記に美術品を贈ろう」と集めていた、という話もあった。
 この年の7月、故金日成(キムイルソン)主席の死去3年の喪が明け、北朝鮮には権力継承ムードが広がった。北朝鮮は日本人配偶者の帰国を発表。11月に日本人配偶者15人が初めて帰国した。その直後に、森喜朗自民党総務会長(当時)ら自民、社民、さきがけの与党訪朝団が北朝鮮入りし、国交正常化交渉再開に向けた動きが始まっていた。
 こうした中で毎日新聞は12月1日、日朝関係に的をしぼった企画「日本と北朝鮮―ヒト・モノ・カネ」をスタートさせた。サブタイトルにあるように、日朝間の人や物、金の動きを探り、両国間の隠れた「断面」を明らかにするのが狙いだった。
 その1回目に取り上げたのが、朝銀大阪信組問題だった。取材班は回収不可能となった2000億円を超す債権の行方を追った。貸出先の使途不明金を調査し、監督官庁の大阪府や大蔵省を執ように取材した。
 さらには、北朝鮮への送金疑惑の解明に動く国会、それを押しとどめようとする親北朝鮮派議員の動きなど、複雑な政治的背景にも切り込んだ。
 1面の見出しは「大蔵、使途解明迫る」「朝銀大阪の“送金疑惑”懸念」「破たん公表前、府に」。日刊紙では初めて「朝銀問題」に本格的にメスを入れただけに、読者の反響は大きかった。
 在日朝鮮人から朝銀信組の取引実態の不明朗さを批判する声があがった。毎日新聞社には、北朝鮮への不正送金の手口を明らかにする電話もあった。一方、朝銀信組の上部団体の在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)幹部らが抗議に訪れた。
 朝銀大阪の破たんの受け皿となった朝銀近畿には約3100億円の公的資金が投入されたが、朝銀近畿は3年もたたずに2次破たんした。
 全国に40近くあった朝銀は、既に16朝銀が破たんしている。朝銀東京の不正資金流用事件をめぐっては朝鮮総連が捜査当局の家宅捜索を受けた。朝銀信組に投入される公的資金は総額で1兆4000億円にのぼる見通しだ。【石原進】
 ◆金日成主席会見
 ◇にじむ特ダネ意識 一方的発言の側面も−−70年代
 情報が乏しい、国交を結んでいない国の最高権力者の話を直接聞くことは、ジャーナリズムの使命と考える。新聞各社が過去、競い合うように、金日成主席との単独会見の実現を目指したのも、そのためだった。ただその内容を検証すると、主席の発言を一方的に紹介してきたとの批判も残るだろう。
 「日本人の記者諸君とこうして会見するのは、はじめてだ」
 71年9月26日、金主席(当時は首相)と初めて会見した朝日新聞は、主席のこんな言葉を紹介しながら、翌27日付朝刊1面トップで詳細に報じた。
 「金日成首相『友好』を語る」「朝鮮統一の悲願果たす」「自民党使節団も歓迎 対日交流は促進」の見出し。記事では「日本が敵視政策を変えれば、国交を結びたい」といった発言を紹介する一方、「きわめて壮健な円熟した政治指導者である」と記すなど全体的に好意的なトーンで貫かれている。
 また、「(会見の原稿は)、平壌―朝日新聞東京本社間をつなぐ国際電話で送られた。これは戦後初めての記録で、平壌当局の好意によって北京を通じて行われたもの」とも記載。「インタビューに応じること自体が大ニュース」という特ダネ意識がにじみ出ていた。
 読売新聞も翌72年1月に会見した。金主席が、在韓米軍の撤退を条件に、南北朝鮮間で平和協定を結ぶ、との案を提案したと報じ、「画期的な提案」などと評価した。毎日新聞は同9月、論説主幹らによる特派員団を派遣。このインタビューで、金主席は、南北統一までの暫定的措置として「南北連邦制」を実施する必要性を強調した。
 両紙とも記事は、1面トップ。毎日新聞は「堂々とした体格、日焼けした顔は赤銅色に輝き、メガネ越しの目は青年のように若々しい」などの印象記も掲載した。
 毎日新聞は75年11月にも単独会見。「南進の意図はない」「米側が応じれば話し合いも」などの言葉を金主席から引き出した。ただ、同じ11月には当時の朴正煕(パクチョンヒ)韓国大統領にも、論説主幹がインタビューしている。新聞紙上ではともに「朝鮮平和への道 首脳に聞く」と同じ見出しを掲げ、スペースも全く同等。南北いずれにも偏らないようにする配慮だった。
 金主席と日本の報道機関との会見は、80年以降途絶えるが、各社が再び試み始めるのは、90年の「金丸訪朝団」で、北朝鮮が日本との国交正常化交渉を提案してからだ。
 毎日新聞は91年4月、編集局長らが訪朝。金主席は、金丸訪朝団について「風穴だけでなく大門を開いた」と日朝交渉に期待を表明した。1面トップで報じたが、2面では、関係者や専門家の談話を掲載。「発言に新味はない」などの評価も載せた。
 朝日新聞は92年3月末に会見。金主席は、核査察に関し「定められた手順によってスムーズに解決される」などと語っている。よど号グループについて「彼らは結婚して妻も子供もいる」と突如明かしたのも、このインタビューだった。【与良正男】
 ◆政党外交
 ◇勝手な約束、危うさ指摘−−コメ支援に慎重さ要請
 国交のない北朝鮮とパイプをつないできたのが政党である。
 日本共産党が70年代、「覇権主義的な干渉と攻撃」を受けたとして朝鮮労働党と対立、ラングーン・テロ事件(83年)などを経て断絶状態になって以来、国内では、社会党(現社民党)が朝鮮労働党と「友党関係」を結んできた。社会党は訪朝団を度々派遣、金日成主席(94年死去)らと会談した。
 その社会党を仲介役として実現したのが、90年9月の自民党の金丸信元副総理(故人)、社会党の田辺誠副委員長(当時、後に委員長)をそれぞれ代表とする両党代表団の訪朝だった。金丸氏は時の最高実力者。政府に強い影響を及ぼす本格的な政党外交の始まりだった。
 自社代表団に対し、北朝鮮は、抑留されていた第18富士山丸の船長ら2人の釈放を伝えるとともに、国交正常化交渉の開始を提案する。
 北朝鮮はそれまで、韓国がソ連・中国と、北朝鮮が日本・米国と国交を結ぶ「クロス承認」をした場合、南北朝鮮の分断が固定化されるとの理由から、国交自体をタブー視してきた。冷戦構造崩壊を受け、ソ連という後ろ盾を失う恐れのあった北朝鮮の突然の大方針転換だった。各紙は代表団の動静を連日1面トップで伝えた。
 自民党、社会党、朝鮮労働党は「できるだけ早い時期に国交を結ぶべきである」とする3党共同宣言に署名。正常化交渉の契機となる。一方で、戦前の植民地支配に対してだけでなく、「戦後の損失」も日本が謝罪し、償うべきだとの一文も宣言に盛り込まれ、批判を浴びることになる。
 9月29日付各紙の社説見出しは「北朝鮮と誠実に国交交渉を」(毎日)、「日朝関係の雪解けを歓迎する」(朝日)、「北東アに新風招く三党共同宣言」(日経)など。
 毎日は「日本が心すべきは、交渉の過程で韓国との関係を損なってはならないことだ」と懸念も示したが、全体は前向きな評価だった。読売は「戦後に日本が北朝鮮に対し損失を与えた事実はない」と指摘し、見出しは「日朝関係構築は慎重、着実に」と求めた。
 正常化交渉が中断・再開を繰り返す中、「人道的支援」を名目に、村山内閣当時の95年6月以来、計6回にわたる北朝鮮へのコメ支援を主導してきたのも、自民党など政党側だった。
 各紙の論調は次第に明確に分かれてくる。95年5月、支援決定に先立ち、毎日社説は「人道的支援は当然だが…」の見出しで、「支援が朝鮮半島の緊張緩和と南北の和解につながるよう配慮すべきでもある」と日本政府に注文をつけた。
 一方、同6月の朝日社説は、韓国からのコメ支援も含め「経済的に支援することによって、北朝鮮が核やミサイル開発をやめ、国際社会の協調体制に加わる道を進むよう促すことが、東アジアの平和につながる」とし、見出しは「善意のコメを南北対話の糧に」。これに対し、読売社説は「不透明さつきまとうコメ支援」の見出しで、「慎重のうえにも慎重な対応が求められる」と結んだ。
 こうした中、毎日社説は政党外交の危うさを指摘し、政府高官同士の交渉に切り替えるべきだと主張し続けた。例えば、共産党も含め主要全政党が参加した99年12月の超党派代表団(代表・村山富市元首相)訪朝の際には、社説がこう記した。
 「特に拉致疑惑が正常化交渉再開への壁になっていることは正直に語ってほしい」「大型代表団だからこその心配もある。私たちが再三懸念を表明してきたのも、政党代表団の勝手な約束が、政府間交渉を難しくした過去があるからだ」「求められるのは、率直な対話で双方の誤解を解きほぐし、政府間交渉を軌道に戻す環境と雰囲気を作り出すことである」
 外務省と首相官邸が、政党抜きで事前の極秘折衝を進め、交渉を主導したのは、今回の日朝首脳会談が初めてだった。【与良正男】
 ◆米朝対話
 ◇「93年危機」反応鈍く−−冷静だが欠けた提案力
 朝鮮戦争(1950〜53年)で戦火を交えた米国と北朝鮮の関係が、再度国際社会の注目を集めたのは93年、北朝鮮の核開発疑惑の時である。
 冷戦時代、ソ連との核開発競争を余儀なくされた米国は、核拡散に敏感だった。平壌北方・寧辺の原子力研究センターの実験炉で、北朝鮮がひそかに核兵器に転用可能なプルトニウムを生産しているとの疑惑が発覚。特別査察を求める国際原子力機関(IAEA)の要求に、北朝鮮は核拡散防止条約(NPT)脱退を宣言。米国内で北朝鮮に対する武力行使を要求する議論が巻き起こった。
 日本のマスコミは隣国での戦争ぼっ発寸前の危機に鈍感だったといえよう。事実、旧ソ連・東欧圏の崩壊でエネルギー不足が顕在化していた北朝鮮が積極的に韓国への侵攻を企てる可能性は低かったが、当時の韓国大統領、金泳三(キムヨンサム)氏は「米国は本気だった」と危うさを回想する。
 危機をきっかけに、朝鮮戦争休戦協定の交渉以来、初めて米朝が正面から向き合う米朝対話が始まった。94年10月、北朝鮮が核開発を凍結する代わりに、朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)が、100万キロワットの発電能力を持つ軽水炉型原子炉2基を提供することを骨子とする「米朝枠組み合意(ジュネーブ合意)」が締結された。毎日の19日付社説は「合意の迅速で誠実な履行を」、朝日社説も「核のない朝鮮半島への一歩」(同日付)など、日本の各紙は一斉に合意を高く評価した。
 もう一つの米朝対話も進み始めた。96年に韓国の金泳三、米国のクリントン両大統領が提案した「朝鮮半島和平のための4者会談」で、韓国と北朝鮮による朝鮮半島恒久和平の枠組み作りを米国と中国が裏付けるという画期的な試みだった。
 しかし日本のマスコミは、問題点をすぐに見抜いた。97年9月にニューヨークで予備協議第2ラウンドが開かれたが、これを受けて、毎日新聞「記者の目」は「4者会談はやがて開かれるだろう。しかし何も決められないだろう」と展望した。予備協議で、北朝鮮側は対話のテーブルにつく「代価」として膨大な食糧支援を要求したり、北朝鮮の体制維持に脅威を与える軍事力を持つ米国以外とは、真剣な対話を望まない姿勢を明確化し始めたからだった。
 その危惧(きぐ)はすぐ現実化した。98年8月、北朝鮮はテポドン・ミサイルを発射した。毎日の99年3月8日付社説は「核・ミサイル拡散への懸念」を訴え、同16日の北朝鮮の地下核施設疑惑をめぐる米朝交渉の妥結を受けた社説でも「問題の本質的解決を意味しない」と主張した。読売新聞も同16日付社説で「北東アジアの安全保障にとって最大の不安定要因となっている北朝鮮にスキを見せないことが肝要だ」と指摘した。こうした懸念は最近、北朝鮮が核兵器開発に転用可能な「濃縮ウラン開発計画」を持っていることを明らかにしたことで裏付けられた。
 朝鮮半島情勢は、「緊張」と「緩和」の間を振り子のように揺れ動く。90年代以降の米朝関係はまさに、この原理が当てはまる。南北対話も00年6月の歴史的な南北首脳会談開催にもかかわらず、米政権の交代と、政策変化によって、進展の展望が示せないでいる。
 日韓のマスコミは、米朝対話の厳しい現状と展望を比較的冷静に報じてきた。その一方で朝鮮半島ウオッチャーは「あるべき、独自の日朝・南北対話のあり方を提案する努力が足りなかった」と反省の声もあげ始めた。【大澤文護】
 ◆南北対立と世論
 ◇「反韓」が「親北」感情に−−日韓離反の裏で拉致事件
 日本と朝鮮半島の戦後外交の枠組みを決定づけたのは、65年の日韓基本条約締結である。「南北朝鮮の分断を固定化する」など反発の声も根強かったが、各紙社説は、反対運動を踏まえながら「戦後日本外交の重要懸案の一つがここに解決をみた」(毎日)、「対等の隣国として、善隣友好の関係をひらくべき手はずを整えたわけである」(朝日)――と好意的、中立的姿勢をみせた。
 一方、建国以来、祖国解放・統一を「国是」にする北朝鮮は、日韓国交正常化を横目に活発な対南直接工作を行う。68年1月、ソウルに武装ゲリラを派遣、青瓦台(大統領官邸)周辺で、銃撃戦が展開された。また、同月、米軍の情報収集艦が北朝鮮に拿捕(だほ)される「プエブロ事件」が発生、朝鮮情勢は一気に緊迫度を増した。
 その「暗」が「明」に激変するのが「自主的、平和的、民族大団結」による統一をうたった72年の南北共同声明。日本の世論も「統一へ希望の灯ともす南北朝鮮」(毎日社説)、「南北自主統一への合意を歓迎」(読売同)など手放しの歓迎ぶりだった。
 だが、南北の歩み寄りも、ニクソン米大統領の訪中(72年2月)や日中国交正常化(同9月)など周辺情勢の変化による他律的要素が強かった。
 韓国は同年末、維新憲法を公布。北朝鮮も新憲法を制定し、金日成氏が新設された国家主席に就任。双方とも支配体制が強まり、その優劣を競う「ゼロサム・ゲーム(一方のプラスは一方のマイナス)」が定着する。
 朴正煕政権の強権政治は日本も巻き込み、73年、金大中(キムデジュン)拉致事件が発生。74年には、在日韓国人活動家による朴大統領狙撃事件が起きた。韓国は「日本は“反朴運動”の拠点」と反発を強める一方、日本では朴政権下での民主勢力弾圧を指弾する声が高まった。「韓国政府の現在のあり方は、日本国民の良識が理解し得る範囲を越えている」(毎日社説)。日本でも南北の「ゼロサム現象」が起き、「反韓・反朴」により「親北感情」が強まってもおかしくない状況となった。
 青瓦台襲撃などのゲリラ戦略に失敗した北朝鮮が、日本を対南工作の「迂回(うかい)基地」として位置づけたのもこのころ。韓国内のかく乱を目標にしながら、日本を工作舞台にして日韓の離反も促す戦術といえた。北朝鮮側が「工作員の養成・教育のため日本人が必要だった」と説明する拉致事件は、この70年代末に多発する。【薄木秀夫】
□写真説明 訪朝した自民党の金丸信元副総理(左)と社会党の田辺誠副委員長(右)は、1990年9月26日、金日成主席(中央)と会談した。自民、社会両党は朝鮮労働党との間で3党共同宣言を発表し、「朝鮮人民に対する日本の過去の植民地支配を深く反省し、国交樹立と同時に、かつて被らせた損害を十分に償う」ことで合意した
 
 
 
 
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