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毎日新聞朝刊 1998年9月3日
テポドン衝撃波 北朝鮮ミサイル/上 根底から揺れる「日朝」
 
 「近くて遠い国」。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を語る時、よくこんなまくら言葉が使われる。
 その言葉通り、8月31日正午すぎに北朝鮮が発射したミサイル「テポドン1号」は、北朝鮮と日本が余りにも「近い」ことを実感させた。ミサイルが日本列島を越え、三陸沖の太平洋に落下するまでの所要時間は、わずか10分程度でしかなかったのだ。
 しかし、距離的、時間的に「近い」こと以上に、ミサイルが日本の頭上を通過したという事態は、極めて切迫した「危険」がすぐそばにあったことを示した。
 国際政治の視点でとらえれば、ミサイル発射は「金正日(キムジョンイル)総書記の国家主席就任に向けたデモンストレーション」、あるいは「米朝間のミサイル協議を有利に導こうとしたもの」などとの分析も可能だろう。だが、北朝鮮がミサイルの照準を日本に向けたことの方に重みを感じないわけにはいかない。
 政府は1日、日朝国交正常化交渉の凍結をはじめ、食糧支援を当面見合わせることや国連総会時の日米韓3国の閣僚会議開催提案などを決めた。「毅然(きぜん)とした対応」(小渕恵三首相)をとった背景には、国民の間に広がった不安と戸惑いがある。
 2年前から他の団体と協力して「北朝鮮こども救援キャンペーン」に取り組み、3500万円相当の援助物資を送ってきた「日本国際ボランティアセンター」(略称・JVC、東京都台東区)の熊岡路矢代表は「かなり大きなショックを受けている。援助活動にも当面は大きなブレーキになる」と話す。
 在日朝鮮人の心情はより複雑だ。今回の事態は、彼らにとってはある意味では祖国からミサイルを向けられたことにもなる。北朝鮮を支持する在日本朝鮮人総連合会の元幹部の男性は「北は切羽詰まってやってるんだろうけど、これで在日の本国離れが加速するのでは。在日としては『本国と一緒にしないでくれ』という気持ちだ」と語るのだ。
 そもそも、戦前からの日朝の歴史の大きな流れを振り返ってみても、日本の植民地支配から朝鮮半島の南北分断、冷戦状態の中での相互の敵視政策というように、「友好関係」とはほど遠い状態が続いてきた。一方、日本政府は戦後国内に残った在日朝鮮人などへの処遇では長年、差別的な待遇を温存してきた。
 そうしたことに多分にしょく罪意識をひきずりながら、日本は北朝鮮と向かいあってきた。日朝間には「国交」はなくても「関係」は続き、1990年には自民、社会両党と朝鮮労働党が国交正常化交渉の開始を目指す共同宣言を発表するなど関係者の努力もあった。
 「事前通告をしないまま国際ルールに反してやった国の発言は容認できない」。野中広務官房長官は2日夜、都内の議員宿舎で記者団にミサイル発射で北朝鮮が「自主権の問題」とする談話を発表したことを厳しく非難した。さらに、野中官房長官は「長い間、この世代に生きてきた人間として(日朝問題にも)責任を持とうとやってきただけに本当にむなしさを感じる」と失望感をあらわにした。
 1日の衆院安全保障委員会では、自由党の西村真悟氏が高村正彦外相に「在日朝鮮人に再入国を許可しない、送金は禁止するというふうな対抗措置をとる覚悟はあるか」と迫る極端な議論があった。
 領土を越えたミサイルの衝撃波は、戦後日本の北朝鮮観を根底から揺さぶろうとしている。【石原進】(次回から3面に掲載)
 
 
 
 
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