日本財団 図書館


毎日新聞朝刊 1997年8月28日
社説 朝鮮半島 緊張激化を避ける外交を
 
 米国務省は26日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の張承吉(チャンスンギル)・駐エジプト大使夫妻らの米国亡命を認めた、と明らかにした。一方、北朝鮮の外務省は27日「彼らは、巨額の国家資金横領などで7月末に罷免され、逃走した」との声明を発表した。
 張大使の亡命の動機は、明らかにされていない。これまでの亡命者の多くは、命の危険が迫ったため亡命を決断している。このため、権力闘争というよりは、何らかの理由で処罰される恐れがあったとみられている。
 張大使は、アラビア語に堪能で46歳でエジプト大使に任命された大物外交官である。また、金正日(キムジョンイル)書記とも親しいといわれる。それなのに、どうして亡命したのか。
 米政府当局者は、北朝鮮の指導システムの問題とも指摘している。北朝鮮の体制では、指導者への忠誠競争が重要な意味を持つ。競争相手を追い落とす誹謗(ひぼう)や中傷、偽の情報、非難競争が横行しがちだ。指導者に本当の情報が届きにくい。
 この忠誠競争とご注進合戦で、指導者の近くにいる側近が意図的に誤った報告をすれば、外国にいる高官にはそれを覆すすべはなくなる。命の危機が迫れば、亡命を決断せざるをえなくなる。とすれば、同じような事件はまた起きるかもしれない。
 北朝鮮の事情に通じる米政府当局者は、権力闘争と見える動きは、実はこうした忠誠競争と側近の勢力争いがほとんどだと分析している。
 北朝鮮からの亡命事件では、黄長ヨウ(ファンジャンヨプ)・元労働党書記の韓国亡命が記憶に新しい。この事件では、南北朝鮮の関係が緊張した。また、昨年秋の潜水艦侵入事件では、南北関係が一挙に緊張し、米朝の交渉や関係諸国の外交関係にも影響を与えた。
 今回の事件に対する北朝鮮と、韓国、米国の対応は極めて慎重である。北朝鮮側は、張大使の「逃走」を認め、韓国や米国の「拉致(らち)」や「陰謀」とは非難していない。あくまでも、犯罪者の逃走として引き渡しを求める冷静な立場を示している。
 この背景には、米政府の北朝鮮側への迅速な連絡があるという。米国は、亡命受け入れを決めると直ちに北朝鮮側に連絡し、自由意思での亡命である事実を伝えた。これは、北朝鮮側関係者の体面を尊重し、誤った判断を抱かせないように配慮した対応であった。
 しかし、期待に反して北朝鮮は、27日からニューヨークで開かれる予定だった米朝ミサイル協議の「初日の協議」には応じなかった。北朝鮮には、ミサイル協議や4者会談予備協議などを中断しないよう求めたい。米国や関係諸国などとの関係が悪化し、朝鮮半島情勢を緊張させれば北朝鮮が失うものの方が多いのだ。
 これまでのところ、南北朝鮮の当事者の対応は以前に比べ冷静である。双方ともに、最近の亡命事件の経験や教訓を生かしている様子がうかがえる。韓国では、北朝鮮高官の亡命を受け入れても問題を抱えるだけとの空気も生まれている。
 一方、北朝鮮としても南北関係や米朝関係を緊張させれば、悪化する食糧事情や経済困難をさらに深刻化させるだけである。こうした現実的な判断が、慎重な対応につながっているようだ。
 関係諸国には、これまでの経験と教訓、反省を生かし朝鮮半島の緊張と対立を激化させないような、知恵にあふれた外交対応を求めたい。
 
 
 
 
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION