毎日新聞朝刊 1998年1月16日
余録
はじめは偽造旅券のぼんやりした顔写真、ついで金浦空港で特別機のタラップを降りるときのマスクで覆われた顔。「蜂谷真由美」の姿はこれまで不鮮明だったが、きのうはじめて鮮明な素顔を見せた▲記者会見に現れた「真由美」は終始うつむいたままで、表情もほとんど動かさなかった。声は低いが、しかし、質問に言葉を選びながらも、ちゃんと答えている。金浦空港に着いたときは土気色だったが、きのうは違っていた。二十五歳の若さが「信念」に反逆したのだろう▲バーレーンで逮捕されたあと、完全黙秘を続けていた「真由美」が沈黙を破ってはじめてしゃべったのは「ホワット・シャル・アイ・トーク」、何を話せばいいのという英語だったと伝えられる。こんども自供を促す韓国当局に「何を話せばいいの」といったのかどうか▲韓国側は気持ちをほぐすのに全力をあげたというが、そのかいあって話してもらいたい供述を手に入れることができた。供述書や記者会見での話から浮かび上がるのは「信念」に疑念を抱いた工作員、非情な政治にほんろうされた一人の女性の運命である▲「真由美」こと金賢姫は一九七二年の南北会談の折、平壌を訪問した韓国代表に花束を贈ったという。平和の花束を差し出した少女が十五年後、大韓航空機の機内に時限爆弾を仕掛けることになるとは、本人も夢にも思わなかったに違いない。運命を狂わせたのは政治である▲ソウルに移送されたのは韓国大統領選の投票日の前日。そしてソ連と中国がソウル五輪参加を申し込み、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が不参加を表明した直後に捜査結果が発表された。「真由美」は政治でがんじがらめになっている。彼女もまた犠牲者だ。
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