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葵の上
 げに世に在りし古へは、雲上の花の宴、春の朝の御遊に慣れ、仙洞の紅葉も秋の夜は、月に戯れ色香に染み、花やかなりし身なれども、衰へぬれば朝顔の、日影待つ間も有様に、たゞいつとなき我が心、もの憂き野辺の早蕨に、萌え出で初めし思ひの露、(合)かゝる恨みは憂き人の、何を歎くぞ葛の葉や。(合)縺れ縺れてナ、逢ふ夜はほんに、(合)憎や憎やと鳥鐘ばかり、ほかに妬みは無きぞな、鳴きぞ、なんなん菜種の仮寝の夢か、我が胡蝶の花摺衣、袖にちりちり露涙、(合)ぴんと拗ねても離れぬ番ひ、オヽソレ、それが誠の離れぬ番ひ、辛気昔の仇枕。(合)この上はとて立ち寄りて、今の恨みは、在りし報い、瞋恚の炎は身を焦がす、思ひ知らずや思ひ知れ。(合)恨めしの心や、あら恨めしの心やな、人の恨みは深くして、憂き音に泣かせ給ふとも、生きてこの世にましまさば、水暗き沢辺の螢の影よりも、光る君とぞ契るらん。(合)妾は蓬生の、もとあらざりし身となりて、葉末の露と消えもせば、それさへことに恨めしや、夢にだに、返らぬものは我が契り、昔語りとなりぬれば、(合)なほも思ひは増澄鐘、その面影の恥づかしや、枕に立つる破れ車、うち乗せ隠れ行かんとぞ、(合)言う声ばかりは松吹く風、いふ声ばかりは松吹く風、覚めてはかなくなりにけり。








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