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11.深海掘削
 1950年代前半、米国のユーイングの調査により、深海底地殻の厚さが4−10km程度と、20−60kmの厚さの大陸地殻に比べてはるかに薄いことが分った。
 1957年、米国スクリップス海洋研 (筆者は1951−55、ここに留学) の著名なユダヤ系物理学者、Walter Munk (ムンク) は、洋上に深海掘削船を浮かべて、4kmほどの水深の深海底下で、地殻の厚さが4kmほどのところを見つけて、ボーリングすれば、マントル物質の実物が入手できるではないかと、気楽な雑学会の朝食会で提言した。そこに居合わせた地質学者らが、この提言を真に受けて、実現に向けて努力した。スクリップス海洋研のRoger Revelle (レベル) 所長、コロンビア大・ラモント地質研究所所長のユーイング、プリンス大のヘス (大洋底拡大説の提唱者の一人) らであった。
 1959年夏、ニューヨークの、まだ真新しい国連ビルで開催された戦後第一回の国際海洋学会議 (筆者も出席) の途中、プレス発表で、レベル所長は、1961年から、史上初の深海掘削を東太平洋から実施する予定であることを発表した。ゆくゆくは、モホロビチッチ不連続面 (モホ面) を貫通してマントル物質まで掘削したいので、Mohoまで穴 (hole) をあけるという意味で、「Mohole Project・モホール計画」と名付ける、と言明した。失敗の可能性もあるので、当初は米国のみの危険負担で実施するが、成功した暁には国際化したい、とも表明した。
 1961年、3000トンの船を改造して掘削装置を搭載したCUSS I (カス1号) が、メキシコとハワイの間の3560mの太平洋底から177m掘削した。171mまでは深海堆積物、以下6mは玄武岩で、そこまでで、先端の切り刃 (bit・ビット) が消耗した。モホまでは、まだだいぶ時間がかかる見通しとなった。
 そこで、ひとまず、海底下、数百m、数千m程度の深海掘削を世界中の海で実施し、古生物の研究などから、地球の古環境などを研究しようと方針を変えた。
 石油掘削船を深海掘削船に改造したGlomar Challenger (グローマー・チャレンジャー号) (10,500排水トン) と名付けて、1968年から就航させた。Leg1航海からLeg96航海までよく活躍し、多大の成果を収めて、1983年、洋上活動を終えた。
 Leg3で、大洋底拡大の事実を実証し、プレートテクトニクス説の強力な支持要因の一つとなった。
 1985年からは、後継船のJOIDES Resolution (ジョイデス・レゾリューション号) (18,600排水トン) が引き継ぎ、Leg100航海から再開し、2000年8月現在、Leg191航海を日本付近で実施中である。2003年には洋上活動を終える予定である。
 以上3隻の米国の深海掘削船を写真−1に示す。
 1975年のLeg45航海から国際化され、米国を中心に、日本、西独、英国、フランス、ソ連の6ヶ国で構成されたプロジェクトとなり、以後、「国際深海掘削計画」と称されるようになった。その後、ヨーロッパ連合、カナダ、オーストラリア、中国など参加国もだいぶ増加している。2003年には終了し、さらに後継船への引継ぎを米国では計画している。
 活動中という意味では、世界唯一の深海掘削船であったこれら3隻の船は、堀り管が単管のみで、船上まで引き上げる試料以外の掘り屑は、海底に吐き出されたままの形となっている。また、単管なので、防噴装置が海底に設置できないので、石油や天然ガス層を掘り当てた場合は、暴噴して船が危険にさらされるので、そうした危険のある場所は避けてきた。
 通常の海底の石油や天然ガスの商業的掘削は二重管にする。外管をライザーといい、船から海底まで突き刺し、海底には防噴装置を付ける。内管をドリルストリングといい、これが先端に切り刃を着けた掘り管である。ベントナイトなどの重たい泥水を内管の中へ押し込み、掘り屑は海底下では泥水とともに、内管の外側の隙間を通り、海底より上では内管とライザーの間を通って船まで戻る。
 現在の深海掘削船は、ドリルストリングのみで、ライザーはない。
 日本では、深海掘削の多大な貢献を評価し、十数年前より、ライザー付の大型深海掘削船の建造計画に入り、科学的な国際貢献を目指した。幸、予算約 600億円近くが議会の承認を得た。本年4月25日、起工式を行い建造に着手した。2004年竣工予定。船体は三井造船、掘削装置は三菱重工で搭載することとなった。建造・運航の担当は海洋科学技術センターである。図−12に示す。
 船名を「ちきゅう」号という。
 ドリルストリング長: 10,000m,将来は12,000m
 ライザー長 : 2,500m,数年後に4,000m
 満載排水量 : 約6万トン
 恐らくモホを貫通して、マントル物質の実物試料を採取することが期待できる。
 ところで、これまでの深海掘削の成果については、枚挙にいとまがないくらいであるが、その幾つかについては後述する。
12.深海潜水調査船
 第二次大戦後、深海、とくに深海底表面の調査に活躍したものに「潜水調査船」がある。わが国は現在、その先端に位置している感すらある。
 スイスのAuguste (父) とJacqes (子) Piccard (ピカール) 親子は、気球で上昇記録を作ったことでも有名であるが、深海への潜水記録を更新していったことでも有名である。
 1964年、ピカールが考案したフランスの有人潜水調査船バチスカーフは、アフリカのダカール沖で4050mの潜水に成功した。
 1958年、バチスカーフは来日し、日本海溝などで潜水した。
 1958年、バチスカーフ・シリーズのアルシメデの姉妹船「トリエステ」がイタリアで建造された。これを米海軍が購入した。世界最深部まで潜水可能な有人潜水船として建造されたものである。
 1960年、トリエステは、世界最深のマリアナ海溝チャレンジャー海淵で潜水し1回だけ着底した。乗船者は二人、設計者のジャック・ピカールと、米海軍将校のDon Walsh (ウォルシュ) であった。着底の前に覗き窓から海底にエビが数尾いるのを目撃した。しかし、着底に際して泥が多量に舞い上がり、海底の撮影は行ったものの、識別不能の画面となった。しかし、「有人潜水船」としての潜水深度記録は、その後40年、破られていない。浅いところで蓋から若干水漏れがあることを危惧して、米国海軍省から潜水禁止の通達が電文で送られてきたので、2度目以降の潜水は実施されなかったのである。
 「圧力がかかると水漏れが止まる事実を知っていたが、命令に従った」、とウォルシュは筆者に語ったことがある。
 バチスカーフの浮力体はガソリンである。人が乗る耐圧球に比べて船型の浮力体は大型であり、沈降・浮上ともに、抵抗が大きく時間がかかる。
 その後、小さな中空のガラス玉を多数容器につめて浮力体として用いるようになった。潜水船全体の大きさは、随分と小型になり、運動性能が格段に向上した。
 1977年、米国の有人潜水調査船Alvin (アルビン号) (4000m級)は、東太平洋のガラパゴス海嶺中軸部で熱水チムニーを発見した。付近に硫黄を栄養源とする、従来、全く知られていなかった生態系を持つ生物コロニーを発見した。生態系に関する概念を一変するものであった。この頃から、生命の起源は、古代の波打ち際ではなく、深海底ではなかったのか、という疑問の声が上り始めた。
 1979年、アルビン号は、東太平洋海膨中軸部で、熱水噴出中のブラックスモーカーを発見した。銅、ニッケル、コバルトなどの有用金属を豊富に含むことが判明した。深海底にはマンガン団塊以外にも金属資源が存在する可能性が見えてきた。また、日本列島の中の「黒鉱」などの鉱床は、こうした深海底起源のものが付加体を経て、陸上に混入したのではないか、という斬新な発想が生まれる起因となった。
 日本では、戦後、「くろしお号」、「よみうり号」などの有人潜水船が建造され、活躍した。が、潜水深度は数十mから数百m程度であり、各国にも同様のものは多数存在した。
 1981年、海洋科学技術センターで、有人潜水調査船「しんかい2000」が完成、就航した。これは画期的なことであり、調査で新発見が相次いだ。全国の研究者に開放されたことが、大きな成果につながったものと思われる。
 1984年、日仏共同の「KAIKO」計画が開始された。日本海溝、南海トラフ、という世界の典型ともいうべき「沈み込み帯」を対象としてのプロジェクトである。フランスから「ジャン・シャルコー号」が来日して音波探査を実施した。翌1985年、「ナジール号」を母船とし、有人潜水調査船「Nautile・ノチール号」(6000m級)が来日、調査に参加した。
 「KAIKO」計画シリーズは現在も継続している。日本側も当初の数年間は、東京大学海洋研究所の研究船が、後年、海洋科学技術センターの潜水調査船なども参画している。
 1989年、海洋科学技術センターで、有人潜水調査船「しんかい6500」が完成・就航した。有人潜水調査船としては、世界最深の能力を持つに至った。
 1991年、しんかい6500は、日本海溝海側斜面で、6527mの海底に着底、有人潜水調査船としての世界記録を樹立した。
 1995年、海洋科学技術センターで、無人探査機 (無人潜水調査船)「かいこう」が完成、就航した。世界最深のマリアナ海溝・チャレンジャー海淵の底に着底、マジック・ハンドがあるので、撮影のみでなく、各種の動物やバクテリアを採取した。中には新種も多数存在した。GPSで船位が正確に再現できるので、翌1996年、同じ海底に再び着底して各種研究・試料採取を実施した。現在では、この「かいこう」が、世界最深部への潜水能力を持つ。
 潜水調査船は、深海掘削船同様、実物試料を入手できるので、強力な研究手段となっている。
13.6500万年前の恐竜 絶滅の原因
 6500万年前は、中生代白亜紀と新生代古第三紀の境であり、この時を以って、恐竜は滅び、哺乳類が繁栄する時代に変わった。その他、多くの生物の交替があった。その原因は長い間、地質学・古生物学上の謎とされてきた。
 この境に当る所をK/T境界という。ここに相当する場所に、世界の各所で薄い暗色の地層が存在することは早くから知られていた。その中には多量のイリジウムという元素が含まれている。
 1980年、米国のAlvares (アルバレス) 父子 (Luis、父、ノーベル賞受賞物理学者、Walter、息子、地質学者) は、本来、地球上では少ないイリジウムが多量に含まれている事実から、6500万年前、イリジウムを多量に含む小天体が地球に衝突して大爆発を起こし、そのため塵埃で、天空暗く、太陽からの光が地表に届かなくなった。
 多くの植物が滅んだ。それを食餌とする草食恐竜が滅んだ。次いで、草食恐竜を食餌とする肉食恐竜が滅んだ。ねずみ程度の大きさであった哺乳動物が辛うじて生き残った。
 こうしたことが、全世界的に進行したのであろう。海生生物、陸上生物の多くが滅び、その後、生き残った少数の生物が追々と繁殖する新生代に入っていった、というのがアルバレス親子の新説であった。これは大きな論争を巻き起こした。
 そして、小天体が衝突した場所は、メキシコ・ユカタン半島の先端の凹地であるクレーターではなかったか、という説が登場した。また、衝突に際して生じた大津波は、陸上の、相当広範な部分に侵入し、これも多数の生物の滅亡を招いたであろう、という推論も加わった。
 深海掘削船ジョイデス・レゾリューション号は、1997年1月8日から2月14日までLeg171B航海で、K/T境界の探査を目的とする掘削をフロリダ半島沖の大西洋で実施した。
 複数の掘削孔から得られた試料は、いずれも、小天体衝突のショックの際の高熱で溶けたガラス質、それから、天空に巻き上げられた塵埃が、除々に当時の海底に堆積した層など、明確に起こったであろう事象を証明する証拠を示した。
 結果は1997年に速報された。これで、多くの研究者がアルバレス親子の仮説の信憑性について納得した。
 この成果は、深海掘削の大きな業績の一つとされている。僅か4年前の研究成果である。
14.プルームテクトニクス
 高温・高圧実験、音響トモグラフィー、コンピューター技術の最近の急速な進歩により、固体地球内部の状態が、再現できるような条件が整い、仮説と証明が次々と組み合わされて、合理的な説明がなされるようになってきた。
 1983年頃から、この方面の研究は急速に進歩した。現在では、地心の状態も再現できるところまで進歩している。
 とくに短時間では固相の石質であるが、長時間では液相の状態を示す塑性 (プラスチック) を持つマントルに関する研究が進歩した。
 マントル内ではたえず熱対流が動いていると考えられるが、その規模は大小様々であることが推察される。その動態、及びそれによって引き起こされる様々な現象を、まとめて「プルームテクトニクス」というようになった。プルームの英名は plumeで、プリューム、と書く人も多い。筆者もある時期まで、そう記したが、英語を母国語とする人々の発音が、プルーム、と聞こえるので最近は、プルーム、と記している。
 1983年、T. Lay (レイ) と、D. Helmberger (ヘルムバーガー) が、地下約2900kmの核・マントル境界の直上の石質のマントルの中に、熱的かつ量的に不安定な厚さ200kmほどの層が存在し得ることを指摘し、D"層 (Dダブルプライム層) と名付けた。
 同じく1983年、R. Jeanlog (ジーンログ)と、A. R. Thompson (トンプソン) は、地下約670kmの深さのマントル内に、相転移境界があることに気付き、ここを境にして、「上部マントル」と「下部マントル」に分けた。この2項目の提唱が、その後のマントル内の動態研究、すなわちマントルプルームの研究の飛躍的発展を触発した。
 こうした研究の最前線には、多くの日本の学者も名を連ねた。
 戦後、どちらかと言えば、日本周辺の研究に重点を置いてきた日本の研究者の動向が、グローバルな視点に立つようになった、という変化の一例である。
 上部マントルはアセノスフェアーに相当し、オリビン、ガーネット、パイロキシンなどの鉱物の混成した石質で構成される。塑性はある。
 下部マントルは、より軟らかい、そして塑性も強いペロフスカイトという均質の石質より構成されることが、高温・高圧実験の結果、判明した。
 D"層は、より高温で、やや軽くなったペロフスカイトより構成される。外核は重たい鉄を主成分とし、高温で液相である。核=マントルの境界付近の温度は、3900−5000Kの範囲であろう。溶融した外核の鉄は重たいので、境界を超えて上昇することはできないが、温められる側の石質のマントル最下部のD"層は、高温となり、マグマも多量に生成されるであろう。上部のマントルよりは軽くなるので、隙間を見つけて急速に上昇することもあろうが、熱対流としてゆっくりと上昇する場合も多いであろう。
 マントル内を熱対流の一環として上昇する高温のプルームをホットプルームという。やや冷えて下降するプルームをコールドプルームという。プルームの大規模なものを、上昇中、下降中のいかんを問わず、スーパープルームという。
 中央海嶺系中軸部やホットスポットで湧き出すマグマは、ホットプルームが固体地球表面まで噴き出したものである。
 冷えて沈み込む海洋底プレートを slab (スラブ) という。スラブは、上部マントル内では周囲と摩擦を生じ、時折、破壊をおこして地震を生じる。そして、上部マントル下底にある程度たまると、冷たく重たいので、境を破って下部マントルの中を、コールドプルームとしてD"層まで下降するらしい。下部マントルの中を降下するスラブ塊は周囲と地震を起すほどには摩擦を生じない。
 和達=ベニオフ帯の震源の下限が、地表下700km以内に止どまっていた理由が、これで理解された。
 ホットスポットやトランスフォーム断層の提唱者であるウィルソンは、各所の沈み込み帯から続いて下降するコールドプルームは、段々集まってコールドスーパープルームになり、地表の大陸プレートを寄せ集めて、一つの超大陸を形成する。が、スーパープルームの降下で厚みを増した超大陸の下のD"層は、温められて高温となり、逆にホットスーパープルームとなって上昇し、超大陸にひび割れを入れ、新しい大洋底プレートの拡大をもたらす。
 こうして、大陸プレートは、地球の歴史を通じて何回も、分裂と集合を繰り返したのであろう、と推定した。これを「ウィルソン・サイクル」という。
 現在は、最後の超大陸・パンゲアが分裂四散しつつある段階といえる。
 インドのデカン高原は、極めて高温の玄武岩マグマが、割れ目噴出し、短時間のうちに広範囲に流動して固化した玄武岩台地であり、約6500万年前の形成になることは知られていた。ただ、そのマグマの源については謎とされてきた。D"層からの急激なホットプルームの上昇が生起したと考えれば納得が行く。
 筆者は、6500万年前の小天体のユカタン半島付近への衝突の振動が、D"層を刺激し、たまたま、デカン高原付近で、ホットプルームの上昇を誘ったのではないか、という可能性を考えて発表したことがある。
 現在の太平洋の底に、中央海嶺系とは別に深海底に膨隆した場所が何ヶ所か見られる。そのような場所に、ギヨー群や環礁群が存在する。これらは、過去何回かのホットプルーム上昇の跡ではないか、との解釈がなされている。
 1964年、英国のW. B. Harland (ハーランド) は、先カンブリア紀末近く、地球上に広く氷河が発達した時期があったが、古地磁気の残留磁化の方向から、当時の大陸片のいずれもが、当時の赤道付近に分布していたものと考えられる、と発表した。
 これを受けて、ソ連のM. Budyko (ブディコ) は、氷原は、太陽光と熱を強く反射するので、地表が温まらず、ある時点からは、逆に益々氷河が、例え赤道地域の低所であっても発達することはあり得る、と発表した。
 2000年現在に至る数年間、米国のP. F. Hoffman (ホフマン)、D. P. Schrag (シュラーグ) らは、上記のような見地に立って調査した結果、7億5千万年−5億8千年前の間に4回は全球凍結の繰り返しがあり、その間、また、その前後には、温暖で、生物が繁殖進化した時期を挟んだものと推定される、と唱えている。
 この「全球凍結」の提唱は、現在、多くの研究者の関心をひいている。彼らは、最近、近い将来でも、「全球凍結」が起こっても不思議ではない、とすら発表している。
15.日本の地質
 日本周辺のプレート分布
 日本列島は、ユーラシア大陸東端に位置し、西太平洋に面する島弧である。
 太平洋プレートが、ユーラシア大陸プレートの東端に沈み込みを継続しつつある間に、二次的な海底拡大が2千数百万年前 (深海掘削の結果判明) から生起し、日本海などの縁海が形成されて、ユーラシア大陸東端の一部は、太平洋へ押し出されて「日本列島」という島弧を形成した。
 同じく縁海である「フィリピン海プレート」の形成の開始は、日本海より古く、4千万年ほど以前のことであった、と推察されている。
 日本の地質調査は、明治 (1968) 維新後、数年を経てから本格的に開始された。
 ドイツのEdmund Nauman (ナウマン) は、1875−1885年の10年間、日本に滞在し、本州、四国、九州、の地質の大要を解明した。それは、事実とよく合っていた。帰国後、1893年に発表した「日本地体構造図」は有名で、いまだに各種の教科書に引用されている。
 本州の中央部を南北に縦断するFOSSA MAGNA (フォッサ・マグナ、大きな溝、というラテン語) の存在、西南日本を南北に二分するように、東西に走る「中央構造線」の存在を指摘した。
 ナウマンの名は「ナウマン象」、といった形で今日なお残されている。
 北海道の地質調査は、1873年より3年間、米国のB. Lyman (ライマン) を中心として実施されたのが始めである。これは、学術的調査というより、地下資源の調査の方に重点が置かれていた。従って、ライマンの「蝦夷地質図」は後に随分と修正された。1880年 (明治13)、東京大学理学部に地質学科が創設された。
 1882年 (明治15)、地質調査所が設立された。
 ナウマンはフォッサ・マグナを陥没地溝と考え、その西縁断層を糸魚川=静岡構造線としたが、東縁断層は、浅間山や富士山のような火山で覆われてしまった、と考察した。
 現在、糸魚川=静岡構造線は、プレート境界、という解釈が強い。従って、東縁断層は、本来、存在しなかった可能性も強くなってきた。
 日本の広域変成岩帯では、高圧・低温型、低圧・高温型の一対が、常に存在している。沈み込み帯の特徴である。
 図−13は、プレートテクトニクスの考え方を取り入れて解釈した新しい日本の地質構造区分である。西南日本は、北の西南日本区と南の四万十区に大別され、その間を区切る構造線は、中央構造線より南の「仏像線」の方に重きを置いている。中央構造線は、北側の地塊が、南の地塊の上にのし上げた大規模な低角の逆断層、という解釈をとっている。
 従前、日本の火山帯は7火山帯に区分されていた。火山帯は「沈み込み帯」にのみ形成される事実が、大洋底拡大説の提唱後、明らかになった。
 1970年、杉村 新は、太平洋プレートの沈み込みに対応する「東日本火山帯」と、フィリピン海プレートの沈み込みに対応する「西日本火山帯」の2大火山帯にまとめた。以後はこの分類が取られている。
 火山帯の海溝軸、あるいはトラフ軸よりの限界線は、明瞭な線で、それより海溝軸寄りでは火山は噴火しない。この線を「火山フロント」という。東京では、地震は起こるが、火山が噴くことない、という事実が明確になったのである。
 1972年、同じく、杉村 新は、フィリピン海プレートの上に載る小陸片が、プレートの移動北上に伴って、次々と本州に衝突して付加し、伊豆半島を形成した、と発表した。伊豆半島の地質の中に残されている残留古地磁気の向きなどから、このことは事実であったと認識された。
 従って、この付近では、現在、フィリピン海プレートは、伊豆半島の下を切って、本州側に沈み込みつつあるわけで、「駿河トラフ」と「相模トラフ」は、沈み込みの軸となっている。
 北海道は、二つのプレートの上に載った小陸片が、東西から近付いて衝突し、西側の陸片がいくらか東側の陸片の下に沈み込んで固化した。その後、太平洋プレートの沈み込みに対して、東日本火山帯の一部である「日高山脈火山群」を形成している。
 歴史上の記録で噴火の事実を持つ火山を活火山、持たない火山を死火山という。
 太平洋プレートが、同じ海洋底プレートであるフィリピン海プレートの下に沈み込む場所に、伊豆・小笠原海溝、マリアナ海溝、ヤップ海溝、パラオ海溝が形成されている。
 沈み込み帯では、陸側の造山帯が撓むので、脊稜 (せきりょう) の海溝側に「前弧海盆」、反対側に「背弧海盆」が形成される。
 前弧海盆のくぼみが堆積して上面が平になったものが、「深海平坦面」である。
 背弧海盆の上面はあまり平坦になることはない。
 「マリアナ舟状海盆 (マリアナトラフ)」、「沖縄舟状海盆 (沖縄トラフ)」は背弧海盆である。フィリピン海の中には、南北に長く伸びる「九州・パラオ海嶺」という特徴的な海底地形がある。
 しばらく前まで、日本周辺のプレート分布は、日本列島全体も取り込んだユーラシアプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートの3プレートから構成される簡単な分布で解釈されていた。
 本座栄一は、糸魚川・静岡構造線の延長上に、東北日本の日本海側で日本列島に近く、構造線が存在することを指摘した。
 1983年、中村一明は、この構造線をプレート境界と断じ、東北日本は「北米プレート」の西端である、という思い切った提言を行った。事実、この日本海の構造線に沿って地震が多発するからである。
 その後、日本の中では、東北日本は「東北日本マイクロプレート」と北米プレート本体とはいくらか切り離す解釈もいろいろ提唱されている。
 が、世界の研究者は一般的に、中村の解釈を採る人が多い。
 関東地方の下には、相模トラフを経て沈み込むフィリピン海プレートがあり、さらにその下に太平洋プレートのスラブが沈み込む、という3重構造になっている筈である。
 相模トラフを経て、関東地方の下へ沈み込むフィリピン海プレートのスラブは、関東地方先端の三浦半島や房総半島を誘い込んで、ゆるやかな地盤の沈降が続いた。そして破壊限界に達し、関東地方の大陸プレートは広域反撥を起し、地盤は突然隆起し、1923年の関東大地震となった。フィリピン海プレートの沈み込みは、反撥とは関係なく継続しているので、地震のあと、再び、地震前と同様の沈降が始まったのである。
 これは、プレートの反撥による広域地震であった。
 1977年、国際深海掘削計画のLeg57航海で、東北地方、八戸、釜石沖の日本海溝陸側斜面で、筆者らは掘削を実施した。乗船研究者は13人、船上首席研究員は筆者と米国のRoland von Huene (ボン・ヒューン) であった。今はパリ大学の教授となったJean-Paul Cadet (キャデー) がフランスから参加したが、あとは全員米国からの参加であった。この航海の最大の成果は、現在の日本海溝の沈み込み開始の時期が約2千3百万年前前後のことであったことが判明したことである。
 筆者は、1953年、米国の研究船ベアード号で、日本海溝を横切って西へ向かって津軽海峡へ入る時、水深1000〜3000mの付近に、深海平坦面が存在していることに気付き、いたく関心をそそられた。その本質の解明は長年の念願であった。
 図−14の、ごく近接する掘削点438、439を、事前に調べた音波探査の結果に頼って、深海平坦面の東縁近くに設けて掘削した。
 水深1564.5mの海底から下、1157.5mの深さまで掘削した。最下部の12mは上部白亜紀の地層であり、その上面は陸上侵食の跡をとどめ、その上に、2300万年前頃の安山岩角礫岩が45mの厚さで載っていた。付近に大陸・島弧性の火山活動があったらしい。その上100mほどは、浅海の貝化石を含む砂であった。それから上1100mほどは中深海の泥質であった。
 以上の堆積過程から、この付近は、どのくらいの期間であったか、その点はまだ判明しないが、相当長期に亘って陸化しており、2300万年前前後に始まる日本海溝軸の沈降に伴って水没を続け、今では、かつての陸上面は2600mの深さまで沈んでしまった。私どもは、この古の陸地に対して、上を流れる親潮の名を取り、「親潮古陸」と名付けた。英名を、OYASHIO ANCIENT LANDMASSという。図−15に、親潮古陸が、現在の深さまで沈んだ経緯を示す。
 深海掘削の結果、縁海である日本海の形成の開始が2千数百万年前であることを考え合わせると、時期的にも合致している。深海平坦面の本質は、前弧海盆が堆積し尽くされて平坦になった上面だったのである。








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