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チンドンの再生と大阪・・・林 幸治郎
 まず初めに御登壇いただきますのが林幸治郎さんです。チンドン屋さんも大阪が生み出した文化の一つだということご存知でしょうか。
 幕末の千日前に飴屋の飴勝という人がですね、寄席の宣伝を拍子木打ちながら興業して歩いた、それがチンドン屋の元祖といわれています。
 この飴勝さんが東西屋という名前で、元祖広告代理業を始めました。多くの弟子が育ったそうですが、その中から鳴り物を鳴らしながらねり歩いて宣伝をする、あるいは東京の方で洋風の楽器を鳴らしながら宣伝をするという業者が出てきました。チンドン屋は――チンドンという名前は後でできたそうなんですが――戦後は浮き沈みが厳しかったようです。戦後復興の過程で栄えたのですが、まもなく廃れていったというわけです。
 そこで若き林さんが立命館大学在学中にチンドン屋さんを始められて、廃れつつあるチンドン芸を若い世代が再興したということで非常に注目されました。最近また元祖チンドン屋である東西屋の屋号を復活されまして、今年の夏に天満宮でチンドン博覧会というイベントを大阪で仕掛けられたのも林さんなんです。テレビや新聞では大変話題になりました。行かれた方もいらっしゃるかと思いますが、楽しいイベントだったのですが、林さんは大損害を、何百万の赤字を出したという噂が飛び交っています。人の商売を宣伝するのは上手いけれど、自分が商売をするとなると赤字になるという見事なオチだと思いますが、この辺りの苦労話もお話しいただきたいと思っております。
 それでは、まず林幸治郎さんをお迎えしたいと思います。〈橋爪紳也〉
◎チンドン屋の元祖[東西屋]から◎
 今でもいろいろな面白い商売が大阪から生まれてくるといわれています。広告代理業という仕事もその一つでしょう。今だったら宣伝して物を売るというのは当り前になっていますが、当時は宣伝をして物を売るという考えはなかった。お豆腐屋さんやお醤油屋さんはどの地域にもあり、足袋県さんも各町内にあった。同じ品物を全国一斉に売るということは無かったわけです。それが大量に物を売るために宣伝を請け負ったのが大阪の秋田柳吉さんという人でした。
 大阪で尾羽打ち枯らし、一家離散になって東京に出て行くのです、大阪では一般的だった東西屋という広告代理業の仕事が東京にはあまり無かったことでやろうと考えた人です。東京ではパイオニアのような方です。文学者の仮名垣魯文に会ったりして、そこで広目屋という名前をつけてもらったのです。大阪だったら飴勝さんとかそのお弟子さんがいろんな商店の宣伝をする。東京ではいろんな近代産業が勃興していて、店や商品を宣伝する仕事がたくさんあったのでしょう。その仕事を請け負うため、いろんなメーカーに掛け合ったそうです。
 歯磨き粉のライオンハミガキとか、この当時、銀座の片隅にある小さな店だった資生堂。それから世間の誰も飲んだことのないビール、麒麟ビール、大阪の方だったらアサヒビールですね、ビールのメーカーに掛け合った。それから民間では珍しい紙巻きタバコ。この当時世間ではキセルを吸ってる頃ですから、紙巻きタバコなんてものは見たこともない。さっき言いましたけれど福助足袋さんなんかにも掛け合った。
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 チンドン屋さんと言いますと三人から五人のイメージですが、明治の中頃は楽団や自転車など六十人・八十人で練り歩いた大行列です。今でも、タバコのメーカーがキャンペーンギャルを使い試供品を道行く人にあげたり、ビールの新製品を、道行く人に配ったりしていますが、あれと同じようなことをやっていた。しかも楽団入りで派手な衣装を着て寸劇を入れたりしながら通りを大パレードする。そうやって商品を宣伝する。道行く人は楽器を見たこともなげれば、西洋式のブラスバンドも見たこともない。また田舎の人は皆地味な鼠色の着物しか着ていない時に、洋装で着飾っている人がいる。また商品自体も見たことがない、もう本当にセンセーショナルなことだったと思います。
 ものの本によると、小西六というカメラのメーカーが活動写真・動く写真を世間に広めたいということで東西屋・広目屋さんの秋田さんに相談しました。昔は活動写真には音がありませんでしたから、活弁・説明をいれたら分かりやすいじゃないか、というので始めたのも秋田さんだそうです。活弁の始まりもまた、東西屋・チンドン屋の元祖から始まったということです。そして日本で最初の劇映画「清水貞吉」も秋田さんが作った。これも異論があるかもわかりませんが、どうも東西屋の人が作ったようです。
 そういうチンドン屋さんの業態ですが、明治の末になると、それまで小さかった新聞が段々大きくなりまして、広告というものが作られるようになり、企業も宣伝媒体を新聞に変えようとする。また、道路規制も最初は野放しだったのに、段々と規制が加わり、明治の末にはチンドン屋さんはすたっているのです。最近チンドン屋さんすたれましたね、と言われるんのですが、本当のところは明治の末にはすたっていたのです。すたってから百年近く経てるのです、今に始まったことじゃないんです。それがね、面白いもので、一九二〇年代から三〇年代にもう一度繁盛するわけですね。その時には、六十人から八十人でやっていた団体から、三人から五人という小さな編成になる、その時に発明されたのがいわゆるチンチンドンドンの太鼓です。今までは鉦は鉦、太鼓は太鼓、締め太鼓はそれだけで叩いていたのを、一人で叩くように工夫した。どうも東京の芸人さんが発明したのではないかと思います。今残っているチンドンのレコードでは、東京の寄席の下足番をしていたという人の録音です。
 昭和の初めになるとチンドン屋さんが日本中に増えました。大体今、東京のベテランのチンドン屋は、そのあたりに始めた人が多いのです。昭和六年から八年ぐらい、中学生ぐらいでもう随分もてたものだ、という話を彼らから聞きます。それから戦争がありましたので段々すたれましたが、終戦後の景気で復活します。それが一九六〇年代です。それを見ていくと、三十年ごとにチンドン屋の隆盛期が見えてくるわけです。私がチンドンの方に興味を持って入ったのが、一九八○年前後ですから、丁度三回目の上昇気流に乗って私が来たのだということになるわけです。この次に来るとしたらそれは二〇一〇年辺りになるのではないか、と考えています。
◎学生時代から入った世界◎
 そんなチンドン屋の世界ですが、私も立命館大学に在学中にちらっとですね、チンドン屋のことを聞く機会がありました。あくまでも音楽としてですね面白いと思い、調べたり自分たちで演奏したりしていました。スタジオの中でチンドン屋の練習をしていると誰も声をかけてくれないのですが、表で京都の鴨川沿いで練習をしていると色々な街の人から声がかかりました。私は学校のサークルとしてやっていましたから社会との接触はやめとく、あくまでも学術的にやろうと思っていましたら、(笑)あまりにも声がかかってくる。京都出町柳の近くの商店街の人たちが、今度うちの商店街で何かやるから手伝ってくれへんかな、と。あくまでも私たちは学校内の研究としてやっているだけですから、人前でやるというのはあきまへんと、断っていたわけですが、あんまり言われると根が――私、九州は博多の出身で商店街で育ちましたので小さい頃の記憶が蘇ってまいります。親が金物屋をやっていまして、商店街の理事長とか会長とかをずっとやっていました。同級生がお豆腐屋さんや文房具屋さんだったりいろいろいまして、遊び場が商店街だったわけです。お小遣いちょうだい、と言いますと商店街の福引きの券をもらうわけです。一等を当てるのはだいたい商店街の子供なわけです。お客さんに配らず子供にばかり毎日配っているわけですからそういうことが発生するわけです。そういう記憶が戻ってきまして、商店街の仕事を手伝ってみようと思ったのが始まりです。最初の方は衣装もなかったのですが、呉服屋さんや化粧なんかようしませんから化粧品屋さんのおばちゃんが協力してくれ手伝ってくれました。
 今思えば二十何年前に、何で学生の私たちに声がかかったのかといいますと、当時の出町の商店街の隅に流通グループの大規模店ができるからというので、毎日反対の座り込みをやってたんです。最初は商店街の人たちが座り込んでいたのですが、それじゃ商売にならないから学生のバイトをやとって座り込みをさせようとする。学生のバイトを使って毎日毎日座り込みをやってくるとお金がかさんでくる。そんなお金を使うんだったらもっと地域の人のためになるようなイベントのようなことをやったほうがいいんちゃうか、というような声が商店街から丁度あがっている時にですね、私たちが見つかって、座り込みの人間に払うお金をチンドン屋の連中に払ったらどうかということになったんです。今だったらコンビニができるからといって反対運動なんかなかなか起こらないんですが、それは京都の風土です。ところが、一番先頭きって反対運動をしていた人が、みんながもたもたしている間に先にコンビニを作ってしまったという。(笑)








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